ふるさと その風景の記憶

文字数 3,421文字

                        NOZARASI 11-3
 短編集 「とある風景の中で」
       (三) ふるさと その風景の記憶

 どうしても思い出せない。いや、想い出が重ならないといった方がいいのかも知れなかった。が、そんな遠くは無い昔、自分は違いなくこの風景の中に佇んでいたであろう記憶が、心の何処かに存在するような気がしてならなかった。
 老いとともに薄れゆく記憶の何処かにあるものとは、少し違うような気がしてならないそれは、果たして本当に、今目にしているこの風景であるのだろうかと、己の記憶を疑い探る。

 一枚の写真のように、確とした記憶があるのではない。ぼんやりと、その輪郭さえはっきりとはせぬあの心象風景の記憶を、その風景であろう中を歩きながら重ねてゆく……。
 この辺りを何回か訪れていることは確かだ。が、いくら年月とともに変わりゆくのが近代から現代の田舎の風景であるとしても、汒と見る遠景というものは、そんなには変わり逝くものではないのではなかろうか。   
 その風景を見守る己の存在が、その地に確とした根を持つものであるなれば、その記憶もまた忘れ得ぬものとしてあるのは当然のことであろう。が、己の記憶の中に、あの駅で降り、この道を辿り、この小さな川沿いに遡っていったという記憶は、ぼんやりとではあるが確かにあるし、道端の祠も、そこに御座す如意輪観音様も、記憶の隅に確かにあった。
 時が経てば薄れ、やがて失い逝く、旅人の記憶というものはそんなものか、それだけのものであるのか。
 歯痒いほどに儘ならぬ記憶を掘り返すように、私はその風景の中に踏み込んでいく。

 車を降り、釣竿を忍ばせたザックを背負い、車を持たなかったあの時のように、小さな集落を歩いて抜け、少し大きな沢に架かる橋を渡ってゆく。
 そして、河原に降りると竿を継ぎ、流れに差し、二、三匹の岩魚を魚籠に納めると、また集落の中を歩いて下り、何かを確かめるように、あの風景の中へ戻って行く。
 が、集落も、いつしか茅葺の曲家から近代的な家々に変わり、記憶の中の風景に行き当たることはなかった。
 車まで戻ると、少し広い河原の端にテントを張る。
 拾い集めた流木で火を燃しながら、夕闇の中でちびりちびりと好きなお酒を戴く。
 記憶の中の風景でも、こうして岩魚を焼きながらお酒を飲んでいたのではなかったかと、ふと気づいたが、そこから先はまるでこの闇の中に居るように、何も思い出せはしなかった。
 ぐしゃぐしゃに縺れた糸を解いているというのではない、小さく、心の何処か片隅で、一本の糸が僅かに縺れているのである。それを解かんとするもどかしさは、何故か余りにも静かな刻を私の心に齎し、見上げる夜空の星の煌きのように、清々しくさえありはした。
 それが故に疲れたというのでもなかったが、途中の酒屋で求めた地酒の旨さも手伝って少し飲み過ぎ、その夜はぐっすりとよく眠れた。

 朝早起きすると、すぐ目の前の流れを釣り遡る。
 沢の両岸は、水害でもあったのであろうか、しっかりとした土手に変わっていた。
 小さな沢というものは、ちょっとした大水でも大きく姿を変える。二十数年ぶりのその沢は、当然のように昔のままではなかったが、ほどほどの岩魚は釣れてくれた。
 その集落の上まで釣り上り、竿を畳んで田圃の脇道を車へと下ってゆくと、田の水の見回りに来たらしい老人に出遭った。
 私が軽く会釈をすると、「釣れたかね」と気さくに話しかけてきた。
「はい、五つほど」
「うん、それは好かった」
「あのー」
「何だね」
「この辺りの風景が……」
「昔のここを知っているのだね」
「はい、知っているというほどではないのですが、二十五年ほど前とその数年後に岩魚釣りに来たことがあるのですが」
「圃場整備というのを知ってるかい」
「はい、田圃の生産性を効率良く上げ、また、使い易くするために整える」
「そうだ、よく知ってるなぁ、百姓やってるのかい」
「いえ」
「その事業とな、大水害が重なったんだよ」
「……」
「川の改修が終わり、田圃の整備も終わったてみたら、ここには見たこともない風景が出現してたのさ」
「……」
「ふるさとって歌があるだろ、ははは、そこに住んでいるのに、気が付いたらふるさとの風景が失くなってしまっていたんだよ」
「……」
「善し悪しは解らねぇ、その時は凄い違和感もあって寂しかったけど、今こうして眺めてみると、平穏で暮らせるならこれで良かったのかも知れないとも思うときもあるしなぁ」
「……」
「でもな、こんな山ん中の小さな田圃だろ、こんなに立派にしなくても、それなりに米作って暮らせたんじゃねぇのかなぁ」と、次第に老人の言葉がこなれてくる。
「……」
「覚えてるかな、あの山の手前に、もう一つ小さな富士山のような山があっただろ、その水害の時、村のすぐ上の橋に流木やなんかが引っ掛って、村と反対の向こう岸に川の流れが変わり、神社の方へ濁流が押し寄せてな、神社も山も大きく崩れ、この辺りは河原のようになってしまったよ。橋の流木の引っ掛り方が違って、流れが逆になっていたら、この村も消えていたと思うよ。また大きな水害が起きれば、今度はあの山がまた大きく崩れ、川を堰止める可能性が高いとかで、改修工事の時に重機で削られて、川の流れも変えられ、神社の小山も無くなったのさ」 
「……」
 石の鳥居の記憶は確かにあった、富士山のような小さな山、そう言われてみれば、そんな景色が広がっていたような気がした。そして、その山が無くなったことで、この風景が大きく変わってしまったのかも知れなかった。
 がしかし、重機で削られたと簡単に言うが、いくら小さい山だったとはいえ、ひと月や二月で削り取られ平らになるようなものではなかったのでは……。
「あの山はな、何百年か前、その後ろにある大きな山の一部が地滑りで落ちてきて出来たものらしくて、当時の村人が、そのあまりの大きさに畏れを抱き、その山自体が神社として祀られたと言い伝えられてる。結構大きな石の鳥居がその山の麓に在っただろ」
「あっ、はい」
「神社と一緒にあの大きな鳥居も流されてな、鳥居は遥か下流まで流されたが、何とか一部は戻って来て、今は新しく作った神社の境内に保管されてるよ」と、老人は寂しそうに笑って言うのであった。
「大変だったんですねぇ」
「ああ、神社っていうのは、故郷の風景の要みたいなものだろ、田に水張って、神社の山がさかしまに映る、やがて田植えが終わり稲の緑が濃くなって、その風にそよぐ風景の向こうに、あの神社の山がある。四季折々なんて言葉があるけど、正にその通り、四季折々、神社は皆の心のよりどころだったのさ。それが、無くなるまでは、あって当たり前、無くなって初めて、あの風景の大切さみたいなものにみんなが気付いたのさ。この辺りは、祝言の後、夫婦であの神社にお参りし、それをみんなが冷やかして祝ったりするのが習わしでな、春と秋の祭り、寄り合い以外、そんな何やかやも大方はやらなくなってしまったな。うん、盆踊りさえ止めてしまったよ。恐らく、あの神社の山が無くなったことで、ぽっかりと空いた心の穴に、そんなものに対する寂しさみたいなものが生まれ、やる気力を失わせてしまったのだろうなぁ。今でもあの山が無くなったことを哀しむ人は多いよ、儂らも子供の頃からあそこで遊んでいたからなぁ」
 そんなことを他人に話す機会も無かったのだろうか、老人はそれからしばらく色んなことを話してくれた。
「ありがとうございました」と礼を言い別れては見たが、少し行って振り返ってみると、老人の言うように、やはりその風景には、山だけではなく、そうではない何かが欠けてしまったように感じられてならないのであった。
 人の心も同じようなものか、近代文明の至便さを優先するあまり、忘れてはならないものを置き去りにしてきたのではないのか。
 そんなものに対する違和感が、私の心の何処かで、この風景に納得することを拒んでいるのかも知れなかった。
 そういえば、あの老人の、「気が付いたらふるさとの風景が失くなってしまっていたんだよ」と言ったあの言葉のように、辿り着かぬ記憶の中のあの風景に、己もまた、もう帰ることはないであろう、失われ逝った、あの遠い故郷の風景の記憶を重ねていたのではないのだろうか。

                     ‐終わり‐
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