鱚釣り、「時よ止まれ、夕陽よ止まれ」

文字数 1,121文字

「コロナ禍下」の誘惑

 吹き荒ぶようなコロナ禍の嵐を他所に、浜辺で独り静かに鱚を釣る。
 ここは越後の国、ははは、この老い耄れは、海のない山国、北関東下野の国からの訪問者であるからして、コロナ行動規制の真っただ中、まぁ、頗る肩身は狭い。
 国道傍の駐車スペースに止めた車のナンバーを見れば、容易くそれと知れよう。
 いや、後ろめたくないとは微塵も思わない、のではあるが、三つ子の魂なんとやら、そのころから祖父の傍らにへばりつき、見よう見真似で竿を出して七十年、骨の髄まで身に染みた膏肓は、けして「釣りの誘惑」には勝てないのである。

 老い耄れてくると、時間を持て余すのは誰しも同じではあろうが、この老い耄れは、その閑居する時間を上手く捌けないからして、先週も釣りに出掛けたばかりなのに、またぞろ釣り道具を漁りだし、愚妻の目線を気にしながらも、仕掛けいじりに時を費やし精を出す。
 春から秋、大好きな鱚釣りの季節、仕掛けいじりのその先は、もちろん、潮騒の浜。
「鱚は足で釣れ」なんて釣り格言があるらしいが、老い耄れて始めた鱚釣り、日がな砂浜を歩き続けるなんぞということは、夢のまた夢。背もたれ付きのキャンピングチェアーを浜辺に据え、デンと深く腰かけてリールの糸を巻き上げながら、時折は微睡みつつ、鱚からの魚信を待つ。
 そんな無精極まりない釣り方で釣れるのかと、御思いの方もおられるでしょうが、ははは、「釣れても、釣れなくても好い」老いぼれ釣師には、このゆっくりのんびりと流れてゆく、無駄であろう時間の大切さを噛みしめ楽しみながら、まぁ、忘れたころに魚信をくれる鱚を待つのが至福の時なのである。

 今、目の前に広がる「越後の浜の風景」が好きだ、とりわけ夕暮れは素晴らしい。
 佐渡ヶ島を背景に沈みゆく夕陽、徐々に移りゆくその風景は、遠い日、近い日、さまざまな思い出を、優しく老い耄れの心に紡ぎ、老酒のようにトロリ、馥郁、たまらぬ味わいを醸し出してくれる。そして、もう直迎えるであろうその時への想いもである……。
 難病に指定されている心の臓の病を抱えているのであるが、ふと、「このままこの風景の中で死ねたらなぁ」と望むことさえ往々にしてある。
 時よ止まれ、夕陽よ止まれ。と、涙ながらに想うのは、老い耄れてその時が確実に近づいているせいなのかもしれない。
 やがて、漁火がひとつふたつと灯り始め、残照の群青の空に金星が輝きを増し夕日は静かに、佐渡ヶ島の山々の向こうに落ちてゆく……。
 
 車中泊のささやかな晩餉、残日の幻視の中に、老いぼれ釣師は、見果てぬ夢の欠片を弄る……。

    潮騒を肴に飲むか天の川

        鱚釣り、「時よ止まれ、夕陽よ止まれ」 ーおわりー
 

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