最終集落

文字数 10,654文字

最終集落
 「独り旅」
 
 積雪期には閉じられるのであろう、支柱がゼブラ模様のゲート、舗装道路の路肩の夏草が、それを隠すかのように生い茂り、新しく塗られたゲートの支柱の黄色のペンキの明るさと相まって、奇妙な違和感のようなものを漂わせていた。
 人の匂いのするものはこの舗装された道路のみ、後はもう荒れるがままといった方がいい山中の風景である。背後に広がる林の中で鳴く夏蝉の声だけが、緑の静寂に甲高く響く。
 背中のリュックを担ぎなおして汗を拭くと、敏は小さく息を継ぎ、そのまま緩やかな坂道を登ってゆく。さっき感じた違和感のようなものは次第に薄れ、この草木茫々たる緑の自然こそがここの夏の風景なのだと、得心が行く。
 少し伸びて道路の方に倒れてきた萱を一本手折り右手に持つと、タクトのように振りながら、緩やかな登り道を歩き続ける。
 昔の言葉で言えば一里余りか、目指す集落はまだまだ遠く、強い日差しがまた汗を呼ぶ。もう全身汗でぐしょ濡れといった感じであるが、山地で空気が乾燥しているのか、時折吹き抜ける谷風が心地よく、梅雨の粘りつくような湿気を帯びた、堪えきれぬような不快さは感じられ無かった。
 確かこの先に、二十年ほど以前に訪れた集落があるというのは、電信柱が続いていることで分かりはしたが、心の何処かに「廃村」という一抹の不安はあった。そう、もう誰も住んではいないのではないかという不安である。
 五、六軒のしっかりとした造りの山家が、小さな谷川沿いの平地に縋りつくようにあったはずである。
 初めて訪れたとき、敏は、異世界に迷い込んだような錯覚を覚え、自分の目を疑った記憶が、今でもありありと残っている。
 
 小さなカーブを曲がり、やっと辿り着いた今も、あの時と同じように、集落は谷川のせせらぎの静けさの中に在った。
 が、二軒であろうか、家が取り払われ、下草に覆われた空き地に代わっていた。
 草刈りなどの手入れはなされているらしいが、人の姿気配は無い、夏蝉の鳴き声と、名も知らぬ鳥の声だけが、明るい日差しを浴びたその静寂に、一層の静けさを弥増しながら響き続ける。
 背中のリュックを下ろし、石の階段が設えられた、幅五メートルばかりの谷川に降り、透き通った綺麗な水を手に掬うと、先ずは頭にザブリ、そして汗だらけのタオルを浸して洗うと、硬く絞って首筋を拭く。
 火照った身体に吹き抜けていく渓風が涼しい。
 改めて、一段低くなった岸辺から集落を見上げた。
 いわゆる、最終集落、ここから先、道は、すぐ先の林道の終点で途絶え、あとは山菜採りの人たちとかが利用する踏み分け道になってゆく。
 ふと違和感が、そう、その見上げた風景にどこかそんなものが感じられたのである。
 二十年という月日の流れがもたらしたものであろうか、あの時と違い、生活臭というのだろうか、人の気配が希薄であるような気がした。
 この谷川の水を生活に使っているらしい気配は、岸辺に置かれた布巾のような白い布切れと、青い小さなプラスチックのバケツが、川岸に突き立てられたやや太めの木の杭に固定されていることで、それと知れた。人が暮らしていることは確かだと思われた。が、なぜかその風景に、住む人の姿は重ならなかった。
 この集落の神社前の広場に今夜の天場をとらせてもらおうと思っていたが、許しを貰おうにも、その静寂はそれを拒否しているかのようで、敏は、しばらく迷った後、集落が望める少し上流の道路脇の空き地まで移動し、草が伸び、一度刈り払われたのであろう短い雑草を刈り、必要なスペースを平らすと、テントの設営を始めた。
 エンジン音が聞こえ、林道を軽トラックが下って行ったが、目が合った瞬間に、互い会釈を交わしただけで、軽トラが行き去ると、またもとの静寂の中に包まれ、手慣れた手順で野営の作業を続けてゆく。
 
 一通りの準備が終わり、大きく深呼吸をすると、敏の表情が緩み、リュックの中の釣り道具を引っ張り出すと、釣りの準備にかかった。その瞳に、少年のような輝きが宿る。
 流れの中の石をひっくり返し、蠢く何種類かの川虫を餌箱の中に確保すると、短い竿に釣り糸を結んだ。
 その流れで、二十年ぶりに岩魚を釣ろうというのである。勿論、今夜の御数の確保でもあるが、まぁ、釣れなかった時のために、好みの魚の缶詰など、その用意はしてある……。
 透き通った綺麗な流れの中に川虫を追う魚影が見えた瞬間に、その危惧、つまり、好みとはいえ、代り映えの乏しい味気ない缶詰の御肴の晩酌になるのかなぁという危惧は消し飛んだ。
 そう大きくはないが、塩焼きやムニエルにするには丁度好いくらいの岩魚が数匹、すぐに確保できた。
 四囲はもう黄昏時の菫色に包まれ始め、敏の小さな焚火の煙が川筋に沿って柵びき、集落にかかる。
 それは、ふと、遠い昔の故郷の夕景を思い起こさせた。
 実家の前を流れる川で釣ってきた魚を、お袋が、塩焼きや天婦羅などにして食べさせてくれたが、今は両親も亡くなり、みな懐かしき郷愁の彼方の風景である……。
 次第に菫色の夕闇に濃く包まれてゆく渓なりの空に、やがていくつかの星影が煌めき始め、その数を増してゆく。いつの間にか、集落の家にも明かりが灯され、やっと感じられた人の気配にほっと安堵する。
 流れに浸しておいた缶ビールを開け、岩魚の塩焼きに齧り付く。
 川魚独特の香りが口中に広がり、ジワリとその旨味が満ちてゆき、少し渇いた喉に、冷たい流れに浸しておいたビールが旨い。
 焚火に翳したフライパンから、ムニエルの胡麻油が香ってくる……。
 二本目のビールを開け、満天の星を見上げながら、敏は、柵の無い無碍ともいえるだろう境地に誘い込まれてゆく。
 自分の思いとはかけ離れた煩わしいことばかりの日常、その全てを、一時的なのではあろうが忘れ去ることができるのが、月に一度のペースで出かけるこの独り旅である。
 いや、決してそれは現実逃避などではなく、その思いを自分の内に昇華同化させ、明日への糧につなげる儀式のようなものであろうか。
 仕上げに垂らした醤油の焦げる香りが香ばしい岩魚のムニエルも、驚くほどに旨く、いつもの酒量を超えて、久しぶりに少し酔いを感じた。
 岩魚のぶつ切りをブッコんだ味噌汁を飯盒のご飯を掛け、残ったムニエルで夕餉も幕だ。
 雰囲気も加わってか、やけに美味しく感じられ、ウンウンと首を小さく縦に降り、独り悦に入る。
 見上げるたびに少しづつ変わりゆく星空が、なぜか自分に対する微笑みのように感じられ、テントの入り口から、それを見れるようにと伸ばした寝袋で、首を出したまま寝入ってしまつた。

 真夜中の冷たい渓風に起こされるまで、敏は、あの懐かしい故郷の風景の中を彷徨っていた……。
 敏の見る故郷の夢の風景の中には、あの頃仲の良かった友達も、いじめっ子も、近所の人たちも登場はしない。なぜかいつも一人、他はみんな知らない人たちか、顔の判別できない人たちなのである……。
 が、それは、寂しい夢では決してなく、歓びに溢れた楽しい夢であることに、敏はいつも不可思議なものを覚えていた。
 品行方正、そんなものとは程遠い悪戯っ子。気が強くて、気の合わぬ者とはすぐに取っ組み合いの喧嘩である。が、喧嘩をした相手には、なぜか親近感が生まれ、そのあと急速に仲良くなってゆくのが常であった。
 まぁ、傍の大人たちから見れば「悪ガキ」の部類に入るのかもしれなかったが、子供心に、所謂、卑劣と言われるようなことはしなかったと思っている。
 
 少し疲れていたのであろうか、夜明けの明るさに気づかず、林道を奥に向かう軽トラの音に目が覚めたときは、もう七時を回っていたが、何かをしなければならないということも無し、のんびりと火を熾し、残しておいた昨夜の岩魚汁の岩魚を解すと骨を取り除き、それを温め、飯盒の飯の残り飯の中にぶっこむと、軽く沸騰を始めるまで、そのまま火にかけてお、すぐに火を止め、新しい味噌をほんの少し加える。
 所謂「おじや」かな、いや、米がしっかりと残っているから「雑炊」なのかな、これが、意外と旨い。
 食べ終わったが、テントはまだ夜露を含み、畳めるほどには乾ききってはいなかった。風通しのよさそうな場所の木の枝にひっかけると、また座り込んで、渓川の流れを見つめ、ぼんやりと四囲を見渡す。
 緩やかに、そして優しく頬を撫でて流れる渓風が、敏の大好きなこの無為の時を、静寂の中に閉じ込め、失ってはならぬのであろう自分の大切なものを沸々と確かなものに醸成し、柔らかく薄いベールで包み込んでゆく。
 大切な宝物であろうそれが、次の旅まで、敏の心を支えてくれる。

 テントの乾き具合を見ながら、そういえば、林道脇に蕗がたくさん生えていたなぁと思いだし、ご近所に少しお土産にするかと、殊勝な考えを起こし、ゴソゴソとリュックの中を漁って、ビニール袋を探し出す。
 林道を歩きながら、太目の蕗をナイフで切り取ってゆく。大分重くなったところで、先にこの辺りまで歩いてから、帰りながら蕗採りをすればよかったかなと気づき、苦笑い。まぁ慣れないことをするとこういうことになるのは常の事、少し重くなった蕗の袋を肩に振り分けにし、天場まで、鼻歌を口遊みながら陽気さを装い楽しく戻る。
 今日は、最寄りの駅まで出て宿を探し、明日の列車で帰る予定であった。

 歩き始めたのはいいが、蕗が嵩張って邪魔になり、歩きづらくて仕方がない。せっかくの収穫だ、リュックに詰めれば蒸れて傷んでしまうだろうし、捨てるわけにもいかず、持つ手を変えたりしながら、汗を拭き拭き、一休み、一休みの繰り返しである。
 背後から軽トラのエンジン音がして、朝上っていった人であろうか、敏の横に静かに並んだ。
 人懐っこそうな笑顔に反応し、「こんにちわ」と、まるで反射的、明るい声の挨拶が出る。
「大変そうだねぇ」と、七十くらいになるであろうその老人が、悪戯っぽく笑う。
「はい、お隣にもお土産をと欲張ったものですから……」と、敏が恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ハハハ、下の部落まで乗ってゆくかい」
「いいんですか」と喜びを隠して恐縮する敏に構わず、その老人は助手席の扉を開けてくれた。
「リュックと蕗は荷台に乗せなよ」
「はい、助かりました」
 荷台には、蕗が詰まったらしい大きな袋が二つ積まれていた。
 助手席に乗り込むと、「岩魚釣りかい」と聞かれ、「はい」と、応えたが、「釣れたかね」とまた聞かれると、「食い分だけは」と、声が小さくなった。
 が、老人は、「それでいいんだよなぁ、みんながそういう釣り方を楽しんでくれれば、岩魚も減らずに済む」と、少し哀しいトーンで言ってから小さく笑った。
「そんなに減っているんですか」
「ああ、俺らの若い頃は、手掴みできるほどウジャウジャいたさ」
「すみません」
「ハハハ、何を謝っているんだ、君のせいでもあるまいが」
「はぁ」
「駅まで行くのかい」
「はい、W駅まで今日の内に出て宿を探し、明日の列車で帰ります」
「そうかい、それなら、今夜の宿は家にしな、明日の朝、W駅まで送ってあげるよ。なぁに、W町にちょっとした用もあるから、ついでだよ」と悪戯っぽく微笑む。
「えっ、民宿か何か」
「ハハハ、違うよ、ただの遊び人かな、宿代も浮くだろ」と笑う目が、これもまた悪戯っぽい。
「遊び人?なのですか」
「そう、役場を定年退職して、今は山遊び人かな。道の駅に山菜とか卸したりして多少は銭にもなるし、何より大切な自分の時間が自由に持てる。まぁ立派な遊び人だな」
「大切な自分の時間ですか……」と問い返した時、敏は、胸が少し高鳴るのを覚えた。
 それはきっと、自分の探している生き方の一つにも関わることであるだろうからであった。
 
 軽トラが、十軒ほどが川岸に並ぶ集落に入ってゆく。
「さァ着いたぞ、今夜の御宿に」
「本当にいいんですか」
「構ヤァしないさ、ばぁさんと二人きりだもの、たまにはお客さんも来ないとなぁ」
 寂しいじゃないかと言いたいのであろう、敏も独り住まいである、そのあたりは多少理解できるような気がした。
 少し大きな農家といったところか、古いが立派な造りの曲屋であった。
 軽トラの音に気付いたのか、家の玄関からおばぁさんが現れ、軽トラを停めたこの納屋の方へ歩いてきた。
「お邪魔します」
「おや、お客さんね」
「ああ、どことなく康夫に似てるだろ、実家のすぐ先でテントを張って岩魚釣りを楽しんでいたので、泊ってゆかないかとお誘いしてみたよ」
「康夫さんて、息子さんですか」
「ああ、一人息子、今はW町で働いていて、孫も二人いる」
「フフフ、本当に康夫によく似てますねぇ」とおばぁさんが敏を改めて見詰め、嬉しそうに微笑んでいる。
「今夜泊まってくださるのね、久しぶりに料理を作る意欲が湧いてきたわ。おじいさんと二人きりだとね、お漬物に味噌汁、それに山菜なんかを添えるだけで済ましちゃうし、五十年余りも一緒に暮らしていると、大して話すこともないからねぇ、楽しくないというのじゃないけど、たまにはねぇ」と、なんだか老人と同じようなことを言って笑っている。
「その蕗、そこに広げてみな」
「あっ、はい」と、その言葉に戸惑いながら、おばぁさんが広げた筵に並べられた老人の蕗の端に、敏はビニール袋から出した蕗を広げた。
「ウーン」と、老人は難しいしかめっ面をし、おばぁさんは「フフフ」と楽しそうに微笑んでから、「これ、少し頂いてもいいかしら」と、優しく言った。
「あっ、はい」と、敏はその微笑みの意味も解せず、少し慌てて蕗を一握り摘まもうとした。
 それを制するように、「私が選んであげるから」と、おばぁさんが意味深に笑い、「お風呂、水張ってありますよ」と、老人を振り返った。
「ああ、ありがとう」
「敏君だったな、お風呂なんか沸かしたことないだろ、どうだ、一丁沸かしてみるか」
「?」
「ハハハ、我が家はまだ循環式の薪釜なんでね」
「薪釜ですかぁ」
「ああ、少し面倒だが、薪の燃える香りが何とも言えずにいいぞ」
「薪の燃える香りですか、なるべくガスボンベを使わずキャンプしているからよくわかります」
「火付けの要領はキャンプと同じさ、よろしく頼むわ」
「はいっ」
「はいっ、これね」と、おばぁさんが、タオルで、脂の抜けたいい色の竹の筒の端を拭いながら、
「火吹き竹よ」と、嬉しそうである。
 敏は、釜の焚口に置かれた大きな切り株を引き寄せ腰を下ろすと、火付けに置いてある古い米袋の中の杉の枯れ葉を掴み、捩じるように握り潰し纏めると、榾木を被せた。
 パチパチと小さな音を立て勢いよく燃え出した杉の枯葉に、おじいさんが嬉しそうに笑って頷き、敏の背中をポンと叩いた。
「まぁ、一応外に火が移らないような構造にはなっているから心配はないが、危ないと感じたら、その水桶の水をバケツに汲んで、ガバッとな。後は頼んだよ」と笑うと、母屋の方へ入っていった。
 薪にしっかり火が付いたころ、軽トラが庭を出ていったが、「えっ」助手席におばぁさんも乗っているではないか、買い物に行ったのであろうが、留守番は、さっき出遭ったばかりの赤の他人ではないか、敏は少し戸惑いを隠せなかった。
 もう少しで沸くかなと、湯加減を気にし見始めたころ、軽トラの二人が戻ってきた。
「沸いたかな」
「はい、その湯揉み棒で攪拌してみましたが、もうそろそろ……。好い湯加減だと思います」
「ハハハ、この棒切れが湯揉み棒だとよく気付いたなぁ、瘤がゴロゴロ、好い湯揉み棒だろ、山で見つけたのさ。そちらからでも、家の中からでも入れるから、先に汗流しなよ」
「僕はあとからで……」
「ハハハ、お客さんが優先だよ」
 そんなことで譲り合っていても仕方がない、勧められるままに甘えたが、お風呂の脱衣場には、タオルが用意されていた。
「自分で沸かしたお風呂は気分も最高だろ」と、外から老人の明るい声がし、「横の大きい方の窓を開けてみな、山の緑が素晴らしいぞ」
「はい」
 手入れの行き届いたそう大きくはない庭の向こうに、小高い山が聳え、もう夏の気配を色濃くし始めた雑木林の深緑が輝く。あの川の下流になるのだろう、少し白っぽい石が転がる川原の風景が広がり、自然の風景が庭の続きといった借景の感であった。

 敏は、風呂から上がると、大きな居間に通されたが、「囲炉裏だっ」と、思わず歓喜の声を出してしまった。
「ハハハ、このあたりの家は大概囲炉裏だよ。この家は、元々は我が家の本家、俺の家は分家かな、あの奥の部落の雪で潰れた二軒の内の奥の家だよ。ここは従兄が跡を継いでいたが、従兄夫婦が死んで住む人が絶えてな、みんな都会の暮らしに染まってしまい、帰りたいという親戚もいなくてな、俺がその跡を引き継いだってわけ」
 長押に、あの最終集落に在った老人の家と集落全体を映した写真が、少し大きな額に飾られてあった。
「今はもう夏場だけ年寄りが暮らすあんな山奥の最終集落だけど、俺には最高にいいところだった。本当はあそこに死ぬまで住み続けていたかったが、大雪の年に、少し傾き始めてね、役場のある街に引っ越したんだが、人が住まなくなるとすぐだね、翌々年かな、雪の重みであの家が潰れてね、この家の代替わりと、丁度タイミングが良かったんだなぁ。それから数年してここへ戻ってきたというわけ。俺も汗流してくるから」と、老人が少し寂しさを漂わせながら言い、お風呂へ去った後、おばぁちゃんが、夕餉の膳の準備を始めた。
 先ほどから煮物らしいいい匂いがしていたが、敏は恐縮、「急に泊まらせて戴くことになってすみませんね、手伝うことがありましたら遠慮なく言いつけてくださいね」と、小さく頭を下げて謝るのであった。
「フフフ、お手伝いは却って邪魔かもね、まぁこれも人助けだと思って、足伸ばして気楽にしてね」と、おばぁちゃんが悪戯っぽく笑う。
「人助け?ですか」
「ええ、おじいちゃんもそうだけど、私もね、とっても感謝よ。一人息子の康夫がここへ帰ってくるのはお正月だけ。その時はお嫁さんと孫二人もだから賑やかだけど、帰ってしまうと後は前にも増して物凄く寂しい日々の連続よ、立ち直るまでが大変。だから、お客さんが来てくれるとね、フフフ、とても嬉しいのよね」と、心底嬉しそうである。小まめに動くおばぁちゃんの姿に、敏は、自分の母親を重ねていた。
 母もそうだったなぁ、勤めから父が帰ってくると、いそいそと夕餉の支度を始め、時には鼻歌を歌いながら、なんとも楽しそうであった。
「W町まで近すぎるのさ、いつでも会えるさと思うし、今は、スマホでいつでも孫の顔も見られる、便利なようでも、機械は機械、心を通わせるのは中々だけどね」と言いながら、老人がバスタオルを使いながら居間に入ってきた。
「親御さんはお元気なのかね」
「いいえ、五、六年ほど前に二人とも……。九州の方ですし……」と、この老夫婦の心の寂しさを、自分は本当に理解し、慰めることができるのかなぁなどと、なんだか気が引けて、最後の方の言葉が萎んでしまった。
「九州出身なんだ、雪は大して降らないんだろ、羨ましいね」
「子供のころに、一度だけ、20センチくらい積もったのを覚えてますよ」
「ハハハ、一度だけ20センチかぁ、一冬でいいからそんなところで暮らしてみたいなぁ」と笑う老人の顔が、どこか本気のようである。それほどに大雪と付き合う暮らしは大変なのであろう。

「風呂上りはビールだよなぁ」と、同意はいらないよなと、敏の目の反応を確かめている。
 ハハハ、まぁその通りかなと、ビール好き同志の目と目が心を通わせる……。
 皿が並べられた囲炉裏の分厚い板縁の卓に、おばぁちゃんがビールの瓶を運んできて、コトンと少し大きめな音を響かせ置いてくれた。
 老人が、素早く栓抜きを取ると、一気に栓を開けた。
 ポンッと小気味よい音がし、白い泡が噴き出る前に、上手に敏のコップにビールを注いでくれる。
「裏の山の湧水で冷やしておくんだが、一年中十度前後、ほとんど水温が変わらない、こいつを、この分厚い囲炉裏の縁でコツンと刺激を与えておいてから栓を抜くと、ジュワーッと泡が湧き上がってくるんだ。それを素早くコップへ注ぐ。泡がビールを旨くするっていうのは本当だな、飲んでみな、きっとこれまでで一番旨いビールが飲めるぞ」
 老人の得意そうな微笑みに、敏は慌て気味にコップを口元に運んで、グィッと飲み、そのまま全部をゴクゴクと飲みきって、プハァと息をついた。冷え加減がいいのか、本当に旨い。
 老人も全く同じように飲んでいたが、「プハァ」と、これまた同じように、息を吐く。口の周りが髭のように泡で白くなっている。
 おばぁちゃんがそれを見て大笑いである。
「フフフ、美味しそうに飲むでしょ、私も飲んでみたいなぁって、いつも思うのよね。でもね、アルコールは私の体に合わないみたい、息苦しくなって心臓バクバク、酷いと、もうその日はグロッキーでダウンよ。さぁ、どんどん食べてね」と、敏の前にお皿を寄せてくれる。
 マグロの御刺身をメインに、食べたこともない山菜の御数が並ぶ。マグロは、敏のためにさっき出かけて奮発したものであろう。
「すみません、急に押し掛けた見ず知らずの僕のために……」
「あらっ、気が合ってここまで来てくれたんでしょ、気の合う人同士、遭った瞬間から、見ず知らずではないのよね。もう友達、仲間よね」と、おばぁちゃんが嬉しそうに言い、立ち上がって台所に下がっていった。
「あいつはなぁ、時々ギクッとするような好いことを言うから、驚かされるよ」
「ハハハ、素敵な感受性をお持ちなんですよね」
 戻ってきたおばぁちゃんの手に、二つのお皿が……。
 どうやら先ほどの蕗の早煮らしい。片方が敏の採った蕗で、もう片方が老人の採った蕗であろうことは、敏にもすぐに判断ができた。
「まずはこちらを召し上がれ、そして次がこちらね」と、またあの悪戯っぽい笑顔で笑う。
「ハハハハハ」食べ比べ、もう何も言うことは無し、自虐の笑いが……。
「どうだい」というような笑顔で敏を見つめる二人。
「ウーン」と項垂れる敏。
「ちょっと待ってろ」と言い、老人が席を外した。
 戻ってきた手に、数本の蕗が握られていた。
「押したり曲げたり潰したり、匂いも嗅いでみろよ」と、その蕗を敏に渡してくれた。
「旨い蕗だと思うのを選んでみな」
「えーとう、これとこれですよね」
「ハハハ、大当たりだな」
「見かけもそうだけど、弾力と柔らかさ、その両方を備えている蕗が美味しいのね」
「ふーん……」
「それにしても美味しい蕗ですよね」
「沢蕗って呼んでるが、沢の湿気と山の枯葉が堆肥みたいになって、好い蕗を育てるんだろうな。採るときは、柔らかくて太いのが目安かな」
「手当たり次第じゃダメなんですね」
「そういうこと」
「フフフ、このお皿の伽羅蕗も食べてみてね」と、小皿に乗せた伽羅蕗を敏の前に置いた。
 摘まんで口に入れて大事に味わうと、「うわぁ、これは美味しい」と、思わず感動の一声。
「ねっ、美味しいでしょ。うーん、せっかく摘んできたのにこんなこと言うのは申し訳ないけど、あの蕗は諦めて、我が家の伽羅蕗を土産にしなさい、嵩張らないし、暑さで傷むこともないから」
「ありがとうございます。みんな喜んでくれます」と、その伽羅蕗の美味しさに、敏は素直に頷き、礼を言うのであった。
「雪の季節が長いでしょ、遅い雪解けの後、畑の野菜が食べられる季節になるまで、この山菜たちが大活躍するのよ、塩漬けや、茹でて冷蔵したりできるものも多いから、春は大忙しだけど、毎日楽しい遠足に出かけているようなものね」
 蕗味噌や山独活の煮物、いろんな山菜が並ぶ。
「これ、ひょっとして天然山葵ですか」と、敏がマグロに添えられた山葵を指さした。
「ハハハ、敏君のテントのすぐ先の小さな沢筋にあったのを、我が家の湧水の傍に植えて、何かの時に使ってるんだよ」
「ウーン、好いなぁ」
「山で遊んで、山のものを戴いて、山で寝て、静かに過ぎてゆく自分の時間を見つめる。いや、見つめなくとも、その中に身を置くだけで、今日まで生きてきたこと、今生きること、これから生きてゆくこと、多くのことが自分に何かを問い、また語り掛けてくる。その答えなんて出す必要もないことは重々承知、じっくりとその中に浸りきり、その緩やかな時の流れに身を任せる、それが山遊び人の極意かな」
「フフフ、そしてその時の流れのままに生き、そして死に、そして土に還ってゆくのよね」と、おばぁちゃんがまた名台詞を付け加えてくれる。
「……」

 それから、取り留めもないことや、この山里に生まれ育ち、今日まで生きてきた色んなことを、老夫婦は、ユーモアを交えながら語り聞かせてくれた。それで全てのことを理解できたわけではないが、今の敏にとっては、今日の出遭いが、あまりに重すぎる出遭いであったろうことを噛みしめる。
「またお邪魔して構いませんか」
「フフフ、言ったでしょ、出遭って意気投合した瞬間から、もうお友達、仲間なのよって。いつでもいらして頂戴ね、大歓迎よ」
「スマホに入れとくから、電話でもショートメールでもしてくれれば、いつでもいいよ。テントも楽しいだろうから、あの集落でテントを張るときは、よかったら我が家の敷地に張るといいよ、集落の人には話しておくから」
「ありがとうございます」
 煤色の大きな部屋の天井を見つめながら寝る真夜中の布団の中で、敏の思考が、その緩やかな時の流れの中を彷徨い、穏かな静寂の中、柔らかき微睡みに誘われてゆく……。
 大都会の中で生きてゆくという、思いのままにはならぬ柵の数々、慌ただしく過ぎてゆく焦燥感を伴うような無為の時。敏は、忘れてしまった自分の何かを、この老夫婦に出遭うことで、一つ、そう、一つだけなのであろうが、自分のものとして確かに見出すことができたのではないかと、暗い天井を見つめながら思った。

 敏が、山遊び人の生徒になったのは、その時からであった。
 そしてそれから、敏の中で雁字搦めであった多くの柵が、全てではないのであろうが、春の陽差しを浴びた残雪の雪解けのように、少しずつ解けてゆくのであった。

            「とある風景の中で」、最終集落、「独り旅」終わり

*まだ推敲中ですが、久しぶりなので、一応公開状態といたします。
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
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