水面の浮子

文字数 3,109文字

                           NOZARASI 11-1
【序】
 誰にでも、決して離れてゆかない心象風景みたいなものがあるのではなかろうか。日常の中で、ふとそんな風景に出遭ったとき、人は何を思い、想うのであろうか。
*短編、晩酌途中で書き進めること甚だ多し、酔敲と御笑い下さり御赦し下さいね。 

 短編集 「とある風景の中で」
 (一)水面の浮子

 小春日和の河原に、時折吹き渡る緩やかな風が、僅かな漣をその岸辺に寄せ、水面に刺さる浮子が小さく沈み魚信を伝えた。
 陽だまりの中に座し、微動だにせず眠っているかのように見えた老人の右手が見事に反応し、小さく素早く釣竿を煽り合わせをくれる。
 柔らかな黒い漆模様の竹の継竿を撓らせ、老人はその魚の引きを楽しむかのようにゆっくりと遊ばせながら引き寄せ、釣糸を掴むと、目の前の玉網に、上がってきた四寸ほどの魚を吊るし込み、素早く針を外し、脇に据えた活かし魚籠の中へ入れ、餌を付け替えるとまた元の静寂の中の風景の一部へと溶け込んでいった。
 得意先周りの途中、昼の弁当を食べようと岸辺に止めた車の中から、そういえば遠い昔、こんな情景を見たことがあるなぁと飽きもせずそれを見ていると、公彦はいつの間にか眠りに誘われてゆく。

「公ちゃん」と呼ぶ優しい声に目を覚ますと、あの古里の川の岸辺に寝ころんでいた。
「敏子ねぇちゃん」
「爺ちゃんと三人でお弁当食べよっか、美味しいおにぎりじゃど」
「……」
「子供が遠慮なんかせんでよか、さっき母ぁちゃんに会って、そげん言ってきたけん大丈夫、なっ」
「うん」
 敏子ねぇちゃんは、河原の石の上をぴょんぴょんと上手に跳びながら、
「ほら、頑張らんね。思い切って跳んでみんね」と、石から石へ跳ぶのを躊躇う公彦を励ます。
 公彦の手を取って、「ほらっ」と合図をくれるのに合わせて跳ぶと、
「ほーら、出来るやないの」と、敏子ねぇちゃんが喜んでくれた。
 敏子ねぇちゃんは、ついこの間、勝っちゃんの家へ花嫁行列をしてやってきた、とっても綺麗なお嫁さんである。そう、あの釣りをしているお爺ちゃんの孫の勝っちゃんのお嫁さんなのだ。
 見た目が厳しそうな人だからなのかもしれないが、公彦は、お爺ちゃんとちゃんと話をしたことはまだなかった。
「公彦、釣りが好きか」と、握り飯を頬張りながらお爺ちゃんが優しく訊いた。
「うん」と応えてみたものの、公彦はまだ一度も釣りというものをしたことはなかった。が、好きだと思うのは、毎日見ているお爺ちゃんの釣り姿が、なぜか大好きであったからである。

 それから数日、天気の好い日には必ず釣りをしていたお爺ちゃんの姿が見えなかった。
 公彦がそんな風景に寂しさを感じ始めたある日、河原で遊ぶ公彦に、お爺ちゃんが微笑みを浮かべて近寄って来ると、
「おっ、公彦、釣りを教えてやるから付いて来い」と、いつも釣りをしている岸辺へ連れて行かれた。
 お爺ちゃんは、具合を確かめるように二本継の釣竿を継ぐと、手首を使いながら軽く振り、公彦に手渡す。
「よし、これが公彦の竿だ、どうだ重いか」
「少し重い」
「うん、まぁそのうち慣れるさ」
「いいか、これがテグスだ。こうやって輪っかを作って、竿の穂先の赤い糸に縛る。解くときは、この一番端を引っ張れば、ほらっ、外れるだろ」
「うん」
 お爺ちゃんは、それからしばらく、公彦に根気よく糸や針の結び方を教え、それが終わると、岸辺の流れの石をめくって川虫の採り方を教えてくれた。
 鉛の重りを左手の指に摘まむと竿をゆっくり振って仕掛けを投じ、
「やってみるか」と、公彦に渡してくれた。
 見様見真似で数回やると、
「呑み込みが早い、上手だなぁ」と褒めながら頭を撫でてくれた。
 毎日のようにお爺ちゃんの釣り姿を見ているのだ、いつの間にかそのコツを掴んでいたのであろうか。
「いいか、あの浮子が沈んだり、ユラッと変な動き方をしたりしたら、竿をコンッと煽って小さく合わせをくれるんだぞ、大きく合わせるんじゃないからな」
「うん」
 しばらく待っていると、水面に浮かんだ浮子から小さな波紋が広がった。
「ほらっ」
「うん」
 慌てて合わせをくれたが魚は掛かっていなかった。
「ははは、スカだな」
「ふーん、スカかぁ」と、公彦が駄菓子の籤のスカを思い出しながら、
「池田屋のおばちゃんとこの籤みたい」というと、お爺ちゃんが、「ははははは」」と楽しそうに笑った。
 小さな白ハエが釣れたのは、何回目かの魚信りの時であった。
 毎日見ていたお爺ちゃんの姿を思い出しながら夢中で捌いて玉網に入れると、
「ははははは、上手い、上手い」
「パチパチパチ」と、お爺ちゃんの喜ぶ声と、すぐ後ろで手を打つ音が聞こえ、
「公ちゃん、やったわねぇ」と、敏子ねぇちゃんが喜んでいた。
 その継竿は、公彦の為にお爺ちゃんが拵えてくれたもので、お爺ちゃんがいつも使っていたのよりは大分短かったが、その分公彦には扱いやすかった。
 このところ川原に姿を現さなかったのは、家でこの竿や玉網、孟宗竹の餌箱などを作ってくれていたからだったのだ。
 それから二年余り、お爺ちゃんと並んで釣りをしたり、お爺ちゃんがいないときは一人でその竿を振り、辺りの流れで魚を釣ったりしながら、公彦は釣りを覚えていったのであった。

 二年目の冬のある日、公彦が学校から帰り、ランドセルを放り出して竿を持ち川原に向かうと、河岸に人だかりができていて、敏子ねぇちゃんやみんなが泣いていた。
 岸辺の高い所から見ると、その人だかりの中にお爺ちゃんが寝ていた。
 母が黙ったまま、公彦を遠ざけた。
「敏子さんがお昼を持って行ったら、釣りしてるいつものように、後ろの石に何掛かったまま息絶えていたんだって」と、母が仕事から帰ってきた父に説明していた。
 お葬式には、公彦も、御幣の結わえられた竹竿を特別に持たされ、斎場迄一緒に行った。

 それからしばらくした頃、勝っちゃんと敏子ねぇちゃんが、お爺ちゃんの釣り道具を抱えて家に来た。
 母としばらく話していたが、脇に座る公彦に、
「お爺ちゃんの形見だから大事に使ってね」と、敏子ねぇちゃんが頭を撫でながら優しく言うのであった。
 公彦は形見という言葉さえ知らなかったが、お爺ちゃんを想い出しながら、その釣り道具の数々を大事に使った。
 お爺ちゃんがいつも使っていたあの竿は、一緒にお墓に入れてあげたから、お爺ちゃんは今頃天国で釣りをしているよと、敏子ねぇちゃんが教えてくれた。
 公彦は、それからも毎日のように釣りを楽しんではいたが、決して、お爺ちゃんの座っていた岸辺のあの石から竿を出すことはしなかった。
 そこは、公彦とお爺ちゃんの大切な場所、そして座ってはいけない天国に繋がっている神聖な場所のように思えたから……。

 目が覚めると、老人はまだ水面の浮子を見つめている。
 そういえば、あの戴いた形見の釣り道具は、使われて次第に少なくなっていったが、作ってもらったあの継竿だけは、高校に行く頃まで確かに家の何処かにあったと記憶しているのであるが、川原の石を飛べなかった公彦の手を取ってくれた敏子ねぇちゃんの柔らかく温かいその手の感触は、今でも確かに心の何処かに残っているような気がする公彦であった。
 老人の竿がまた撓って、小さな魚が玉網に入ったのを見届けると、公彦は車のエンジンを掛けた。
 ハンドルを握りながら、今度の休日は、久しぶりに釣りでもしてみるか、そして、夏休みには故郷へ戻って、あの石の傍で釣りをしてみようかと公彦は思うのであった。

             ‐終わり‐
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