神々の祭り

文字数 6,500文字

                        NOZARASI 11-2
 短編集「とある風景の中で」(二)
   神々の祭り

 山歩きの好きな人よ、山や谷を彷徨っていると、ここから先はお前たちの立ち入るところではないよ、という畏怖感の漂う空間に出くわすことがありはしないだろうか。
 そういうものに少し敏感な人なら、すぐに気づくであろうそれは、結界などを示す大木に張られた注連縄や、小さな祠に御札などが貼られ、そこから先は原生林であったり、はたまた最奥集落の外れであったりするのであるが、疎い私は、時としてその結界みたいな場所を、一礼や柏手すらすることも無く無意識の内に越えてしまうような時もままあるのであった。
 私は、その畏怖に満ちた空間を彷徨うとき、神聖な何かに引き込まれてみたいと思う無謀な自分と、それとは反する、畏れ戦き逃げ惑う己の心の弱さみたいなものを、その霊力が、昇華し消し去ってくれるのではないかと……。

 ある年の夏、私は夏期休暇を利用し、北国のローカル線に乗り、その昔、山岳信仰の聖地であったという山に登ろうと、小さな無人駅で列車を降りた。
 こぢんまりとしたその駅は、プランターに手入れの行き届いた綺麗な花なども植えられ、駅に据えられた登山道の案内板の下にある登山届と書かれたポストに、一応の予定表を放り込むと、焼けるようなアスファルトの道路をゆっくりと歩き始めた。
 渓谷沿いに吹き下るそよ風が心地よく感じられたのは、歩き始めてほんの束の間、予備の食料やテントなどの入ったザックは重く、あの無人駅から簡易舗装の登山道になっているこの林道に入り、もうどれくらい歩いたのであろうか、全身汗でびしょ濡れであった。
 今日テン場にする予定の廃村まで、地図で測ると大よそ十一キロであった。夏の午後の陽射しは暑くて長い。が、好きな写真を撮りながら休み休み行けば、夕刻前には何とか着けるであろうし、夏の日暮れは遅い、そんなに無理をする必要もなく、のんびりと歩けばそれでよかった。
 この先、四日ばかりした週の半ばから天気は、次第に下り坂に向かうらしいが、俗に、梅雨明け十日は好天が続くとかいう、そう大崩れすることもないだろうし、標高もそんなには高くない。山の頂にある目指す神社と、無人の山小屋迄、その廃村からは五時間か。その山小屋を足場に一日のんびりと山頂付近を散策して、お花畑の花々などの写真を撮り、翌日反対側の尾根から延びる登山道を下れば、北側の登山口になっているところまでは、合わせて四日。直ぐ下手にある集落外れの温泉宿でもう一泊し、身体を休めてから最寄り駅に出ればいい。
 予備日一日を入れて六日。会社の夏休みは土曜日から九日間もある、強行日程では決してないし、帰ってからのんびりとパソコンに向かって写真を整理する時間も十分にあるだろう。

 が、山岳信仰の名残をあちこちに留める、余りに興味をそそられるその道の風景に目を奪われ、幾度も立ち止まりレンズを向けては撮影に没頭し、思わぬ時間が掛かってしまった。
 狭い谷間の斜面を陽光が這い登り、渓間に夕刻の色が濃くなりゆく頃、やっと目指す廃村に辿り着くことが出来た。
 それでも、長い夏の日は、まだ十分に明るかった。
 出発前に調べた資料では、往時は二十軒を超す集落だったというが、今はもうそのほとんどが、冬の雪の重さに耐え兼ねたのだろう、廃墟と言えば言えそうに、潰れかかったように崩れ、荒れるに任されていた。が、プレハブ造りではあるが、三軒ほどの家の前が、庭と共に綺麗に草刈りされ、軽トラックも停められてあり、狭い畑に青々とした野菜も見え、人の住んでいるらしい気配はちゃんとしていた。
「分校跡」と墨で書かれた、もう端の方から腐り始めた木の看板があり、何故か、昨日今日、草刈りされたらしい、そんなには広くない校庭の向こうに、白いコンクリートの校舎の基礎だけが幾つか残り、確かにここに分校があったのだと教えてくれていた。
 その校庭の真ん中に、俄か作りとすぐに解る簡素な舞台のようなものと祭壇が拵えられてあり、ちょうど地鎮祭のように、四本の竹笹に注連縄が渡され囲われてあった。
 祭壇に手を合わせ四囲を見渡す。しんとして人の気配もなく、時折聞こえてくる鶺鴒の啼き声だけが、その静けさを弥増し、少し気後れのようなものを感じはしたが、テン場とするにはお誂え向き、廃校になる前は池でもあったのであろうコンクリートに囲まれた瓢箪型の窪みに、細いエンビ管で水が引き込まれていたらしい痕跡が残り、水源であろうか、そのすぐ傍に小さな沢もあり、水を確保するにも心配はなかった。
 祭壇のことが少し気になったが、もう遅い、今日何かをやるということはないだろうし、もう済んだのかもしれないと、邪魔にならない校庭の一番隅でテントの設営に掛かる。
 テントのペグを打ち込む音が渓沿いの山々に響き、木霊になって返ってくる。
 また流れ始めた汗を左手で拭いながら一息ついていると、「御山へお参りに登られるのかね」と、背中の方から声がして、驚いて振り向くと、「驚かして済まないね」と謝りながら、一人の老人が朴訥な笑みを浮かべ近づいてきた。

「今夜はここで八時頃から夜祭りがある、テントを張る場所を集落の一番上手にある緑色の屋根の家の空き地にするか、もしよかったら儂の家へ泊ってくれないか。儂は独り暮らしだ、何も遠慮は要らないし、祭りの夜くらいは誰かと話しながら飲みたいしなぁ」と、どちらかと言えば、泊まってくれた方が好いのだがと言わんばかりの感じで頼み込んでくるのであった。
 一応遠慮して断りはしたのであるが、「そうかい」と言った老人のあまりにも残念で寂しそうな風情に、もう一度念を押すように頼みこまれると、もう断る術はなかった。
「昨日息子が登ってきて、村の人と今日の昼過ぎまで掛かってここの草刈りと祭壇を拵えて帰って行った。月に二度、住んでいる麓の駅のある村から食料や何かを運んできてくれてなぁ、そんな日は決まって豪華な御数やお酒を持ってきてくれるのさ。それに今夜は年に一度の特別なお祭りの日だ、珍しくお刺身なんかも冷蔵庫にあるでなぁ、好い酒が飲めるよ。酒、飲めるんだろ」
「はい、少しですけれど」
 話すほどに親しみを感じさせる老人の語り口の端に、一抹の寂しさのようなものを感じ惹かれ、私はもうすっかりその気になっていた。

 少し酔いが回り、もう辺りは闇に包まれ、家の中に充満していた囲炉裏の薪の煙もやっと気にならなくなってきた頃、何処からともなく祭囃子が聞こえてきた。
 耳を澄ますと、楽しげな人の話し声も……。
 幼き頃から聞きなれたであろう祭囃子に、自ずと身体が反応するのであろうか、囲炉裏に座る老人は、嬉しげな笑みを浮かべ、祭囃子に合わせて躰を揺すってリズムを取っている。
 雪除けの板が打ちつけられたままの高い窓の磨りガラスの向こうに、松明の灯りであろうか、黄色味を帯びた明かりが大きく揺れ、その幾つかが連なりながら動いてゆく。
 私がそれを見ようと立ち上がると、老人が、きつい目をして大きく手を差し出し、座れと、無言で制した。
 訝る私に、老人は声を抑え、「すぐに終わる、この場を動いてはならねぇ。見てはならねぇ」と、厳しさの込められた目で、再び私を制するのであった。
「そこの神社から校庭のあの祭壇に、御神火の松明が運ばれ、これからひとしきり夜祭が始まる。が、決して見てはならねぇ、こそっと見たりすれば、この山から出られなくなるぞ」
「出られなくなるって」
「つまり、この山の中で死ぬんだよ」
「遭難するということですか」
「ああ、どういう形になるかは知らねぇが、祭りの翌日、鎖場で足を踏み外したり、あの大雪渓で滑り落ちたりした者は何人かいる」
「こそっと、ということは、誰かに許しを得られればいいということですか」
「ああ、祭りの誰かに見つかりさえすれば危害は及ばない。先ずはお神酒の濁酒を勧められる」
「濁酒のお神酒ですか」
「ああ、それを飲めば、後は前後不覚、やがて朝までぐっすり眠ってしまうし、目が覚めた時には祭りの前後の記憶は全て消え去ってしまっているらしい。ははは、そうなるよりは、儂と一緒に飲みながら、この御囃子や雰囲気をじっくり味わった方が得というものさ」と、老人が悪戯っぽく笑った。
「この集落の人達の祭りではないのですか」
 その辺りがどうにも腑に落ちなかった、訊いてはいけないことなのかもという気もしたが、思い切って訊ねてみた。
「いや、そうだよ」と、老人はさも当たり前のように応える。
「かなりの人のようですが」
 その賑やかさからして、今日のこの集落にこれだけの人が居よう筈もなく、また、車の音を聞いた覚えも無いし、下の町から歩いて集まって来たということも考え難かった。
「ああ、昔は百人を超す人たちが住んでいたからなぁ」
 老人の目が昔を懐かしむように閉じられ、しみじみとそう言うのであった。
「昔って」
「ああ、儂らの子供の時分までだ、皆都会に出てゆき、残された年寄りたちも、一人二人と歯が欠けるように亡くなって、今はもう儂ら三人しかいない。後の二人は集落の上下に分かれ、祭りの始まる前から終わるまで、邪魔になる侵入者をそれとなく防いでいるから、今ここに居るのは儂一人かな」
 外の賑わいは、どう想像したって最低二十人は下るまい、祭りが際立って騒がしいということはなかったが、そう言われてみればどこか抑えられているような気もしないではなかった。
 いや、この祭りの本来持つであろう姿が、祭り囃の基調が六調子の抑えられたもののようであるからして、そういう秘められたものであるのかも知れなかった。
「村人がだんだん少なくなってきてなぁ、もう祭りをやり続けるのも限界だと、二十年ほど前に祭りを止めたのさ。だが、祭壇だけはと儂たち三人が祀って、濁酒のお神酒や供え物を上げて形だけみたいな細やかな祭りをしたその次の年だったな。やはり今年も何とか形だけはやろうと相談して祭壇を作り終え、三人で八時になるのをここで待っていたその時だった。山伏の格好をした男が訪ねてきたのは」と、ポツリと語りだした老人の言葉が、次第に重みを増してゆくように感じられた。
「……」
「うーん、その山伏の顔は儂の記憶によれば、昔から代々長を務めてきた五十嵐の爺さんの顔によく似ていたなぁ」
「似ていたのですか」
「ああ、五十嵐の家の男たちは皆、目付きが鷹のように鋭く、鼻が大きくて鉤鼻なのよ」と老人が鼻の先に手を翳し、鼻を曲げるような仕草をして見せた。
「鉤鼻ですか」
「ああ、烏天狗っていうのを知ってるか」
「烏天狗……」
 重ねて、鸚鵡返しのように訊き、軽く頷く私に、
「恐らく御山の神社の御使い、烏天狗の御子孫様じゃろうなぁ」
「御子孫様……」
「ああ」
「烏天狗って、人間なのですか」
 ははは、単純素朴な質問であろうかと私は思う。
「神様だって人間だろ」
 予期せぬ老人の一言に、私は一瞬戸惑いを覚えた。
「仏様だって七福神様だって、畏れ多いが、みんな元は人間だろ。山のお化け、魑魅魍魎だって、みんな人間の成れの果てだよ」
 うーん、言われてみればそれもそうかなぁと、私は老人の言葉に妙に納得するのではあったが、「その夜……」と、私は続きを促すように老人の目を見た。
「おおそうだったな。もう大分暗くなり、そろそろ祭りを始めようかという時分だった、その男が儂の家の前に立って、地響きでも起きそうな大声で叫ぶのよ」
「その男に呼ばれたのですか」
「ああ、いのまたぁーっ、猪俣は居るかぁってな。誰だろうこんな時分にと訝りながら表に出てゆくと、これから一刻、俺たちが祭りをやってやる、祭囃子が聞こえるその間、例え誰であろうと、決して祭りを見てはならぬぞ、と厳しい顔で言うのよ」
「……」
「儂はすぐに合点がいった。いや、昔からの事を知るこの村の男衆であればみんなそうだがな」
「……」
「遠い遠い昔な、この村が大水害に襲われた年があってな、何人もの犠牲者が出た上に、神社まで壊れ、祭りが出来なかったらしいのだが、その時にな、御山の神様の使いが現れ、今夜は決して家から出てはならぬ、これから俺たちが祭りをやってやるから、決して覗いて見たりすることはならぬぞと……」
「……」
「それをすぐに思い出したのさ」
 老人と語り合っているうちに、次第に祭囃子の音が小さくなって、やがてプレハブ小屋の窓を、また松明の灯りが神社の方へ戻っていった。
 その行列のざわつきもやがて止み、祭囃子も途絶え、辺りに山の静けさが戻ってくると、
「終わったようだな」と、老人がぽつりと呟いた。
 今夜は眠れそうも無いなぁと覚悟はしていたが、いつの間にか寝込んでしまったらしく、目が覚めた時は、もう窓の磨りガラスに明るい朝の陽の光が当たっていた。
 起き出して外に出ると、朝の陽光が眩しい。清々しい山の朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで伸びをしていると、「お早う」と、背後から老人の声がした。
「よく眠れたかな」と訊かれ、「はい」と応えると、
「今日は御山の小屋まで登るのか」と訊かれた。
「はい、今日と明日は山小屋で泊まり、それから向こう側の温泉まで下ります」
「そうかい、気をつけてな」
「はい、有難うございます」
 二人で簡単な朝食を済ますと、私は出発の支度を整えた。
 老人は、外に出て名残惜しそうに、まだ話し足りない何かを探しているような感じであった。
 集落を見守るように聳える山に向かい、
「今は木々で覆われて、よぉく見ないと判らないが、あの稜線の下の方が、抉られたように見えるだろ、あれが昔の大水害の時の山崩れの痕だよ」と、指差した。
「かなり広範囲ですね」
「ああ、何でも、火事で丸焼けになった御城や街を作り直すために、あの辺りの大木を伐り出してすぐの年だったという。あんな遠い所から流れ下った土砂や木々が、この村の大部分をひと呑みにして駆け下っていったといい伝えられている」
「……」
「下の方にちょっとこんもりした森があって、大きな杉の木が一本見えるだろ、あれが御神木だが、そこに在った上社も跡形もなく流されていたらしい」
「千何百年の歴史があるにしては小さい杉のようですが……」
「ああ、あの御神木は、村の教育委員会が調べたが、樹齢は二百年くらいだったらしい」
「言い伝えはその以前なのでしょ」
「ああ、よくは判らねぇが、あれは、その大水害の後植えられたんじゃないのかな。余りの荒れように上社の再建は諦め、ここの村にある末社だけを再建したらしいのだが、わざわざあんな所に杉を植えたのは、昔ここに上社が在ったのだということを伝え残すためと、ここから上の木は伐るな、また大水害が来るぞって、儂たちに教えるためにな、植えられたんだと儂は思う」
「それほど酷い水害だったってことですよね」
「ああ、その通りだと思う。その大水害はこの辺り一帯を襲い、あちこちの村が被害に遭ったらしいのだが、ここのように酷くはなかったという」
「……」
「信心が足りなかったなんて言う人もいたらしいが……」
「そんなことはありませんよ、ここは御山に頼って昔から続いてきたところでしょ、神様を蔑ろにするような人はいる訳がありません」
「ははは、儂もそう思うがな」
「そうですよ、人の口とは性ないものです」
「それから、昨夜のことは誰にも話してはならねぇぞ、話せば、またこの山に帰って来ることは出来なくなるし、儂との記憶も消えるだろうからな」
「このこと、絶対に忘れません、大事に心の奥にしまっておきます。何よりも、また一緒にお酒を飲みたいので、きっと約束いたします」
「ありがとう、気を付けて行きなさい」
「ありがとうございます」

 登山道を少し行った高みから、あの集落の全景が望まれた。
 朝の夏空の下、碧々とした緑に包まれ、今日の日まで人の歴史を確かに刻んできたであろうその風景は、やがてこの山の風景からも、人々の心からも消え去り逝くのであろうか。

                      ‐終わり‐
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