十六 心の逃亡
文字数 6,382文字
「もう他に、必要な物はないね?」
真介は女に気づかないままそういい、レジへ行こうとした。
「しんすけ・・・」
女が真介を見つめている。
「ああ、なんだ?」
真介が女を見た。
「・・・」
真介は言葉を無くしている。
女は背が低い。身長は真介の胸くらいだ。百五十センチくらいだろう。中肉で髪が長く、平均的日本人の容貌をしている。いや、それより、ちょっと・・・。
「あたし、探したのよ。
その女は誰?あたしに隠れてそんな女と会ってたの?」
女は言葉ではそういっているが、態度はよそよそしい。
明らかに意識と深層意識のバランスが崩れ、精神にもその影響が現れつつあった。
「この人は俺の愛妻だ。アンタこそ病院を抜けだしたのか?」
「あたしを病院に閉じこめたのは・・・」
女はそこまで話して、自分の言葉を確かめるように、何かを思いだそうとしている。
『さなえ、ここから離れて、大学病院の精神科へ連絡し、隔離入院患者の浅野美子 が病棟を抜けだしてここにいる、と連絡してくれ』
『了解』
あたしは真介からカートを受けとり、レジへむって押しながら、
『トラ、あの女を見張っててよ』
『わかっとるぞ。真介も、えらい者に好かれたもんぞね』
『トラは知ってたのか?』
そんなことはあとだ。あたしはすぐさま大学病院へ連絡した。
すると、五分もしないうちに、ここ生協の販売部に三人の病院職員が現れ、冷凍物のコーナーへ走った。職員たちは逃亡した患者を学内で探していたようだった。
「何するんだ!あたしは家に帰るんだ!
夫が迎えに来てる。
いっしょに買い物をしにここに来たんだ。
あたしは愛妻だ!」
販売部のフロアに女の叫び声がひびいた。
異常な叫び声と病院職員のユニフォームから、病棟患者の脱走がわかるらしく、レジの店員が会計しながら、
「また抜けだしたのね。
凶暴じゃないからって、病棟の管理や警備がずさんすぎるわよね。
コレが感染症患者ならどうするのよ。
患者が動きまわった区域すべてが隔離されるわ。
まったく、あのアサノチビックには困ったものね。
とんだ営業妨だわ・・・」
と、ぼやいている。
「そんなに何度も逃亡してるのか?」
真介がレジに走ってきて、店員にそういった。
「月に一度くらいかな・・・。
いつもは講義の時間帯だったから、こうした状況を知ってる学生は少ないわ。
でもこれで知れわたったから、アサノチビックが逃亡すれば、いつでも病院へ通報がゆくわね・・・」
店員は淡々と話しながら商品のバーコードを機械に読み取らせている。
「会計は一万・・・です。
レジ袋をお買いになりますか?」
「いや、いらない」
店員は真介とあたしを見て、妙な顔をしている。
あたしのリュックはトラと教科書などが入っていて、買ったものを詰められるほどの余裕はない。
真介は買い物バッグのようなものは持っていない。
店員はどうしますかとあたしたちを見ている。
「では現金で・・・」
真介は支払いをすませ、ジャケットの内ポケットから大きな風呂敷を取り出し、トートバック風に結わえて食材を中に入れ、風呂敷の取っ手になった部分を肩にかけた。
「さあ、帰ろう。今日はお仲間がいないから安心していい。
ハナは自宅待機処分になってるから、さなえに近づかない。
アパートを知られることもない」
真介は、これまであたしがあの四人の仲間にアパートを教えなかったことを、見ていたかのように話している。
すべて、トラが教えているのだろう・・・、
「まあ、そんなとこよな。実際は加具土神さんじゃよ。
はよう帰ってハンバーグじゃな。
タマネギをたくさん入れとくれ」
リュックからトラの声が聞える。聞えるのはあたしと真介だけらしい。レジの店員はあたしたちを見ていない。
「ハナのことがあったよって、対策を講じたぞ」
「もしかして四人にも対策した?」
アキとエッちゃんとママとメグ(瀬田亜紀と松岡悦子と野本雅子と川田恵)にはトラの能力を披露している。
「さっき、加具土神さんがピカッと光を発した。
トラに関係した者たちの記憶から、トラは全て忘却の彼方になったよ」
真介がトラに代ってそう説明した。
あたしは、映画の一シーンのような、そんな光を見ていなかった。
「そしたら、さっきの女の人のことを話しても、平気だね?」
「ああ、だいじょうぶだぞね。
のう、真介」
「まわりの人たちに、我々の話はさなえと俺の世間話としか聞えてないよ」
「そしたら・・・」
あたしはあの女、浅野美子 について質問した。
販売部から外へ出ると、あたしの質問に真介が説明する。
「あの人は、自分の思いが強すぎで、現実が見えていないんだ。
すべて、自分の思い通りになっていると思ってる。
空想の世界ならそれでいいが、現実世界にそれを持ち出すから、ああなってしまうんだ。
だから、まわりの人たちは大変だ。
ここの学生だったので、家族が手を焼いて、大学病院に相談した。
そして、入院した」
「学年は?」
「入学して三年目のはずだ。さなえより一つ上だが、病状が安定しているときだけ病棟から大学へ通っているから、学年はわからない。教育学部のはずだ。
ここに来て二か月の情報はそれくらいだ」
「ハナ(春野羽那 )といい、チビック(浅野美子 )といい、本音だけを通そうとするのは、こまりもんだね・・・」
大学の正門へ歩きながらあたしは真介の手を握り、そういった。
本音や理想がそのまま現実になるとか、すでになっていると思いこんだら、大変なことになる。
ハナは売れっ子の指人形師になるし、選挙立候補者は確実に当選して、公約を実行せずにでかい顔をするだろう。なぜなら、立候補者は必ずといっていいほど、公約を実行した試しがない。口先だけで、公約を実行しないのが本音だからだ。
「まあ、日本人は、他人に迷惑をかけないように、本音と建て前をうまく使い分けてるってことだね。
これって、これまでの教育の結果だよ」
真介が考えているのは日本人の教養のことだ。
「教養って、難しい課題だね・・・・」
あたしは「教養」について、考えたことがない・・・。
「さなえ・・・。見ろよ」
大学正門の手前で、真介が立ち止まってあたしの手を握り締めた。
目の前に、あのチビック(浅野美子 )が立っていた。
チビックの周囲に親らしい二人と病院の職員三人がいる。
「先ほどは迷惑かけてすみませんでした。
奧さんに不快な思いさせたことおわびします」
父親らしい人がそういうと、母親らしい人とともに、真介とあたしに深々とおじぎした。
チビックが知らぬふりしていたので、父親らしい人がチビックの頭に右手を当て、おじぎさせた。
チビックはその手を振りはらおうとしたが、父親らしき人はチビックの頭から右手を放さなかった。左手はチビックのジーンズのベルトをつかんでいる。
真介とあたしはなにもいわず、チビックを見ていた。
チビックはあたしたちを見ようとしなかった。
この場になって、現実と想像のちがいに気づいたらしい。
父親らしい人が説明した。
チビックが大学に入る前、チビックと親しかった男があおり運転された挙句、交通事故で即死した。それ以来、チビックの情緒は不安定になり、親しかった男が亡くなったこの季節になると、さらに精神不安定になるというのだ。
それがわかっているなら、しっかり監視しておけよといいそうなったあたしの手を、真介が握りしめた。
真介はあたしの思いを感じている。
『サナ。おちついて最後まで聞くのじゃよ』
リュックのトラも、父親らしい人に聞き耳を立ている。
あたしは父親らしい人の話を聞いた。
両親らしい人たちはチビックの叔父夫婦だった。
事故の時、親しい男の車にはチビックの両親も乗っていた。
チビックは親しい男だけでなく両親が亡くなったのも、認めていなかった。
『あの女の心が完全にドアを閉じおったんじゃ。開くのには時間がかかるぞね』
『その線がつよいね・・』
あたしはトラと真介の話から、人の心が現実から逃避するばかりか、無視するのを知った。現実を無視した心は、まったく別な心として生きるみたいだ。それまでの過去を捨てて・・・。
これってメロドラマみたいだ。
あたしの思いを知って真介がいう。
『現実はそんなものだよ。
人は周囲に支えられて生きている。だから、人間だね』
あたしの父がなくなったとき、真介があたしの支えになった。
その後も、あたしには真介がいる、という思いがあった。
日常で真介のことを忘れることがあっても、あたしには真介がいるという安心はつづいていたから、あたしは安定した気持ちのまま、今日まで生きてきた。
チビックみたいに、突然、両親と真介が亡くなったら、あたしはどうしていただろう。
『まあ、サナに関してそんなことはなかよ。
埴山比売神さんがついておるでな』
『それはそうだけど、もしもの話だよ』
トラと話していると、真介があたしにあいさつするよう、促した。
チビックの義親とチビックが、真介とあたしにおじぎしている。
あたしはあわてて三人におじぎした。
チビックたちと病院職員たちは正門を出ず、学内から付属病院へむかった。
「あの人たち、なんで、ここにいたのかな?」
正門を出ながら、あたしはそうつぶやいていた。
「俺たちに事情を話して謝罪したかった・・・。
あの親なら、チビックも回復する・・・」
真介は義理の両親となった叔父夫妻の心を感じているらしかった。
あたしは、過去を白い何かで包んだまま心にしまいこんでいるチビックを、さらに大きな暖かい透明な物で包みこんでいる義親たちを見たような気がした。
義親はチビックの全てを認めて受入れて見守っている。
これって本当の親だ。そして・・・。
「そうだよ。埴山比売神さんが知りたかったことの一つだよ。
神さんは親子関係を知りたかったんだね・・・」
真介は、真介が思っている親子関係の定義がハニーに認められた、と思っている。
あたしは真介が話したように、埴山比売神さんが親子関係を知りたかっただけと思った。
真介は埴山比売神さんをハニーと呼んでるのか・・・。
だけど、アクセントは蜂蜜とはちがい二にある。ハニーより、ハニイに表現するのがあってる気がする・・・。
「わしは母を思いだしたぞ。それとサナじゃな。
母が亡くなって以来、サナはわしの母代わりじゃった・・・」
「むむむっ。あたし今もトラの母が?」
「今は娘かのう。いや、孫じゃな。
まあ、子孫ゆえ、孫のようなもんじゃろ・・・」
そういったトラから、ああ、正体をばらしてしもた、と気にする思いが伝わってきた。
なるほど、真介がトラを爺ちゃんと呼ぶはずだ。トラも神さんも、けっこうおっちょこちょいだ。おもしろいところがある・・・。
「正体なんかわかってるんだから、気にしなくっていいよ。
あたしたちは神さんじゃない。
神さんを身近に感じて連絡し合っている、そう思ってるよ」
「そういうことだ。
さてと・・・」
真介は何気なくいう。
「今日、さなえのお母さんにも許可を得たから、頃合いをみて、さなえの部屋に引っ越したいが、いいかな?」
「うん、いいよ・・・」
二部屋借りて、ふたりで一部屋に住んで、もう一部屋を真介の勉強だけに使うなんて不経済だ。それにあたしの部屋は2LDK。真介の部屋は1LDKだ。
「その前に、婚姻届を出そう。
さなえのお母さんと祖父ちゃんは、祖母ちゃんの許可は取った。
三人とも、大喜びだったよ」
「うん・・・。えっ?エエッ!?」
「どうする?届けが先か?指輪を買いに行くのが先か?」
そうこうしている間にアパートに着いた。
「・・・」
あたしはドアの前で呆然としていた。
「まだ、入居したばかりだけど、契約から十二日過ぎてる。
あと二日以内なら、クーリングオフできる」
真介の言葉であたしは我に返った。土日は不動産屋は休み・・・、ではなかった。水曜が休みだ。
それでも、日曜までに荷物を移動するのだからクーリングオフは今すぐのほうがいい。
「オフが先!それで、即、荷物を運ぶ!
オフできなくても後悔しない。
しんちゃんの決断が遅かったんだからね」
「了解!」
真介は家に入ってすぐさま不動産屋へ連絡した。が事情を説明すると不動産屋は快く、
「部屋の中を新規契約の人に見せていいなら、来週中に荷物を運べばいいですよ」
クーリングオフを認めてくれた。
「というのも、二階堂さんの部屋は、学生のモデルルームとして見栄えするんですよ。
あれなら、部屋を借りたいという人がすぐに決ります。
明日、正午前、新規の顧客を案内したいので二階堂さんの立ち会いで部屋を見せてください」
「わかりました。立ち会います。よろしくお願いします」
電話を切った真介はほっとしている。何ごとも、早くすませたほうが気楽だ。
「さなえのいうとおりにして良かった。
さあ、ハンバーグを作るぞ!」
「あたし、荷物をどこに置くか、考える・・・」
「頼むよ。トラ、手伝え」
「わしはネコじゃ。真介のようにはゆかぬよ」
「そういうな。味見くらいはできる・・・」
「うむ・・・」
あたしは調理を真介とトラにまかせ、リビングのソファーで真介の荷物をどうするか考えることにした。
本棚、机、ベッド、テレビは真介の部屋に置けばいい。
衣類は備え付けのクロゼットに入る。
小さな冷蔵はリビングだ。
電子レンジと洗濯機、掃除機はどうしよう。
いざとなったら、真介の部屋を物置にして、ベッドと机をあたしの部屋に入れればいい。
そうじゃないな。
ベッドをあたしの部屋に入れて、真介の部屋に机と本棚と家電を入れればいい。
たしか荷電は新品だ。真介は梱包箱をたたんで取っていたはずだ。
これでいい・・・。
そう思ってリビングからキッチンを見た。真介とトラがハンバーグの味見をしている。
えっ!テレビ台の時計を見ると六時半だ。帰宅して一時間も経っている。
あたしは一時間も何してた?
「心が散歩しとったぞ。あの女のところへ・・・」
「チビックの病室へか?
あたしは病室どころか病院にも行ったことないよ・・・」
トラの言葉にそういった後で、あたしは真介の研修している病院を見ていないことに気づいた。
これっていけないことだろうか?
しんちゃんは今日、あたしの講義を見に来た。
まあ、食材の買い出しのついでではあるが・・・。
しんちゃんは、本当は何しに来たのだろう?
あたしに会いに来たんだな!愛妻のあたしに・・・。
あたしは、チビックの前であたしを愛妻といった真介を思いだした。
まわりには買物客がいた。全て学生だ。
ウワッ、あしたから、学内の噂の的になってしまう!
あたしの思いに気づき、トラがあたしを見ている。
「心配いらぬよ。さっき、加具土神さんがピカッと光を発した。
記憶に残っておらぬよ・・・。
おお、完成したぞ!
どこで食うかいのう?」
「ダイニングで食べる。そっちへ行くよ・・・」
あたしは、あたしの意識の他に、別な存在があたしの中にいるのを感じた。
それはソファーに座って、オンになっていないテレビに見入っている。
そんな者の前に、トラと真介を座らせたくなかった。
「だいじょうぶ、心配ない。心に残った残像みたいなものだ。
チビックのことが強烈だったんだね。
爺ちゃん、そうだな?」
真介はダイニングのテーブルにハンバーグを並べながら話している。
「いずれ、サナも自分で、心の記憶を整理できるようになりおる。
今は過渡期ぞね。心配はなかよ」
トラはのんきにそういい、ダイニングのテーブルに箸を並べている。器用になったものだが、手を洗ったのだろうか?
「うむ、さっき洗面所で洗ったぞ。それくらいはわきまえとるよ」
そういってトラは、オッホンと咳払いした。
真介は女に気づかないままそういい、レジへ行こうとした。
「しんすけ・・・」
女が真介を見つめている。
「ああ、なんだ?」
真介が女を見た。
「・・・」
真介は言葉を無くしている。
女は背が低い。身長は真介の胸くらいだ。百五十センチくらいだろう。中肉で髪が長く、平均的日本人の容貌をしている。いや、それより、ちょっと・・・。
「あたし、探したのよ。
その女は誰?あたしに隠れてそんな女と会ってたの?」
女は言葉ではそういっているが、態度はよそよそしい。
明らかに意識と深層意識のバランスが崩れ、精神にもその影響が現れつつあった。
「この人は俺の愛妻だ。アンタこそ病院を抜けだしたのか?」
「あたしを病院に閉じこめたのは・・・」
女はそこまで話して、自分の言葉を確かめるように、何かを思いだそうとしている。
『さなえ、ここから離れて、大学病院の精神科へ連絡し、隔離入院患者の
『了解』
あたしは真介からカートを受けとり、レジへむって押しながら、
『トラ、あの女を見張っててよ』
『わかっとるぞ。真介も、えらい者に好かれたもんぞね』
『トラは知ってたのか?』
そんなことはあとだ。あたしはすぐさま大学病院へ連絡した。
すると、五分もしないうちに、ここ生協の販売部に三人の病院職員が現れ、冷凍物のコーナーへ走った。職員たちは逃亡した患者を学内で探していたようだった。
「何するんだ!あたしは家に帰るんだ!
夫が迎えに来てる。
いっしょに買い物をしにここに来たんだ。
あたしは愛妻だ!」
販売部のフロアに女の叫び声がひびいた。
異常な叫び声と病院職員のユニフォームから、病棟患者の脱走がわかるらしく、レジの店員が会計しながら、
「また抜けだしたのね。
凶暴じゃないからって、病棟の管理や警備がずさんすぎるわよね。
コレが感染症患者ならどうするのよ。
患者が動きまわった区域すべてが隔離されるわ。
まったく、あのアサノチビックには困ったものね。
とんだ営業妨だわ・・・」
と、ぼやいている。
「そんなに何度も逃亡してるのか?」
真介がレジに走ってきて、店員にそういった。
「月に一度くらいかな・・・。
いつもは講義の時間帯だったから、こうした状況を知ってる学生は少ないわ。
でもこれで知れわたったから、アサノチビックが逃亡すれば、いつでも病院へ通報がゆくわね・・・」
店員は淡々と話しながら商品のバーコードを機械に読み取らせている。
「会計は一万・・・です。
レジ袋をお買いになりますか?」
「いや、いらない」
店員は真介とあたしを見て、妙な顔をしている。
あたしのリュックはトラと教科書などが入っていて、買ったものを詰められるほどの余裕はない。
真介は買い物バッグのようなものは持っていない。
店員はどうしますかとあたしたちを見ている。
「では現金で・・・」
真介は支払いをすませ、ジャケットの内ポケットから大きな風呂敷を取り出し、トートバック風に結わえて食材を中に入れ、風呂敷の取っ手になった部分を肩にかけた。
「さあ、帰ろう。今日はお仲間がいないから安心していい。
ハナは自宅待機処分になってるから、さなえに近づかない。
アパートを知られることもない」
真介は、これまであたしがあの四人の仲間にアパートを教えなかったことを、見ていたかのように話している。
すべて、トラが教えているのだろう・・・、
「まあ、そんなとこよな。実際は加具土神さんじゃよ。
はよう帰ってハンバーグじゃな。
タマネギをたくさん入れとくれ」
リュックからトラの声が聞える。聞えるのはあたしと真介だけらしい。レジの店員はあたしたちを見ていない。
「ハナのことがあったよって、対策を講じたぞ」
「もしかして四人にも対策した?」
アキとエッちゃんとママとメグ(瀬田亜紀と松岡悦子と野本雅子と川田恵)にはトラの能力を披露している。
「さっき、加具土神さんがピカッと光を発した。
トラに関係した者たちの記憶から、トラは全て忘却の彼方になったよ」
真介がトラに代ってそう説明した。
あたしは、映画の一シーンのような、そんな光を見ていなかった。
「そしたら、さっきの女の人のことを話しても、平気だね?」
「ああ、だいじょうぶだぞね。
のう、真介」
「まわりの人たちに、我々の話はさなえと俺の世間話としか聞えてないよ」
「そしたら・・・」
あたしはあの女、
販売部から外へ出ると、あたしの質問に真介が説明する。
「あの人は、自分の思いが強すぎで、現実が見えていないんだ。
すべて、自分の思い通りになっていると思ってる。
空想の世界ならそれでいいが、現実世界にそれを持ち出すから、ああなってしまうんだ。
だから、まわりの人たちは大変だ。
ここの学生だったので、家族が手を焼いて、大学病院に相談した。
そして、入院した」
「学年は?」
「入学して三年目のはずだ。さなえより一つ上だが、病状が安定しているときだけ病棟から大学へ通っているから、学年はわからない。教育学部のはずだ。
ここに来て二か月の情報はそれくらいだ」
「ハナ(
大学の正門へ歩きながらあたしは真介の手を握り、そういった。
本音や理想がそのまま現実になるとか、すでになっていると思いこんだら、大変なことになる。
ハナは売れっ子の指人形師になるし、選挙立候補者は確実に当選して、公約を実行せずにでかい顔をするだろう。なぜなら、立候補者は必ずといっていいほど、公約を実行した試しがない。口先だけで、公約を実行しないのが本音だからだ。
「まあ、日本人は、他人に迷惑をかけないように、本音と建て前をうまく使い分けてるってことだね。
これって、これまでの教育の結果だよ」
真介が考えているのは日本人の教養のことだ。
「教養って、難しい課題だね・・・・」
あたしは「教養」について、考えたことがない・・・。
「さなえ・・・。見ろよ」
大学正門の手前で、真介が立ち止まってあたしの手を握り締めた。
目の前に、あのチビック(
チビックの周囲に親らしい二人と病院の職員三人がいる。
「先ほどは迷惑かけてすみませんでした。
奧さんに不快な思いさせたことおわびします」
父親らしい人がそういうと、母親らしい人とともに、真介とあたしに深々とおじぎした。
チビックが知らぬふりしていたので、父親らしい人がチビックの頭に右手を当て、おじぎさせた。
チビックはその手を振りはらおうとしたが、父親らしき人はチビックの頭から右手を放さなかった。左手はチビックのジーンズのベルトをつかんでいる。
真介とあたしはなにもいわず、チビックを見ていた。
チビックはあたしたちを見ようとしなかった。
この場になって、現実と想像のちがいに気づいたらしい。
父親らしい人が説明した。
チビックが大学に入る前、チビックと親しかった男があおり運転された挙句、交通事故で即死した。それ以来、チビックの情緒は不安定になり、親しかった男が亡くなったこの季節になると、さらに精神不安定になるというのだ。
それがわかっているなら、しっかり監視しておけよといいそうなったあたしの手を、真介が握りしめた。
真介はあたしの思いを感じている。
『サナ。おちついて最後まで聞くのじゃよ』
リュックのトラも、父親らしい人に聞き耳を立ている。
あたしは父親らしい人の話を聞いた。
両親らしい人たちはチビックの叔父夫婦だった。
事故の時、親しい男の車にはチビックの両親も乗っていた。
チビックは親しい男だけでなく両親が亡くなったのも、認めていなかった。
『あの女の心が完全にドアを閉じおったんじゃ。開くのには時間がかかるぞね』
『その線がつよいね・・』
あたしはトラと真介の話から、人の心が現実から逃避するばかりか、無視するのを知った。現実を無視した心は、まったく別な心として生きるみたいだ。それまでの過去を捨てて・・・。
これってメロドラマみたいだ。
あたしの思いを知って真介がいう。
『現実はそんなものだよ。
人は周囲に支えられて生きている。だから、人間だね』
あたしの父がなくなったとき、真介があたしの支えになった。
その後も、あたしには真介がいる、という思いがあった。
日常で真介のことを忘れることがあっても、あたしには真介がいるという安心はつづいていたから、あたしは安定した気持ちのまま、今日まで生きてきた。
チビックみたいに、突然、両親と真介が亡くなったら、あたしはどうしていただろう。
『まあ、サナに関してそんなことはなかよ。
埴山比売神さんがついておるでな』
『それはそうだけど、もしもの話だよ』
トラと話していると、真介があたしにあいさつするよう、促した。
チビックの義親とチビックが、真介とあたしにおじぎしている。
あたしはあわてて三人におじぎした。
チビックたちと病院職員たちは正門を出ず、学内から付属病院へむかった。
「あの人たち、なんで、ここにいたのかな?」
正門を出ながら、あたしはそうつぶやいていた。
「俺たちに事情を話して謝罪したかった・・・。
あの親なら、チビックも回復する・・・」
真介は義理の両親となった叔父夫妻の心を感じているらしかった。
あたしは、過去を白い何かで包んだまま心にしまいこんでいるチビックを、さらに大きな暖かい透明な物で包みこんでいる義親たちを見たような気がした。
義親はチビックの全てを認めて受入れて見守っている。
これって本当の親だ。そして・・・。
「そうだよ。埴山比売神さんが知りたかったことの一つだよ。
神さんは親子関係を知りたかったんだね・・・」
真介は、真介が思っている親子関係の定義がハニーに認められた、と思っている。
あたしは真介が話したように、埴山比売神さんが親子関係を知りたかっただけと思った。
真介は埴山比売神さんをハニーと呼んでるのか・・・。
だけど、アクセントは蜂蜜とはちがい二にある。ハニーより、ハニイに表現するのがあってる気がする・・・。
「わしは母を思いだしたぞ。それとサナじゃな。
母が亡くなって以来、サナはわしの母代わりじゃった・・・」
「むむむっ。あたし今もトラの母が?」
「今は娘かのう。いや、孫じゃな。
まあ、子孫ゆえ、孫のようなもんじゃろ・・・」
そういったトラから、ああ、正体をばらしてしもた、と気にする思いが伝わってきた。
なるほど、真介がトラを爺ちゃんと呼ぶはずだ。トラも神さんも、けっこうおっちょこちょいだ。おもしろいところがある・・・。
「正体なんかわかってるんだから、気にしなくっていいよ。
あたしたちは神さんじゃない。
神さんを身近に感じて連絡し合っている、そう思ってるよ」
「そういうことだ。
さてと・・・」
真介は何気なくいう。
「今日、さなえのお母さんにも許可を得たから、頃合いをみて、さなえの部屋に引っ越したいが、いいかな?」
「うん、いいよ・・・」
二部屋借りて、ふたりで一部屋に住んで、もう一部屋を真介の勉強だけに使うなんて不経済だ。それにあたしの部屋は2LDK。真介の部屋は1LDKだ。
「その前に、婚姻届を出そう。
さなえのお母さんと祖父ちゃんは、祖母ちゃんの許可は取った。
三人とも、大喜びだったよ」
「うん・・・。えっ?エエッ!?」
「どうする?届けが先か?指輪を買いに行くのが先か?」
そうこうしている間にアパートに着いた。
「・・・」
あたしはドアの前で呆然としていた。
「まだ、入居したばかりだけど、契約から十二日過ぎてる。
あと二日以内なら、クーリングオフできる」
真介の言葉であたしは我に返った。土日は不動産屋は休み・・・、ではなかった。水曜が休みだ。
それでも、日曜までに荷物を移動するのだからクーリングオフは今すぐのほうがいい。
「オフが先!それで、即、荷物を運ぶ!
オフできなくても後悔しない。
しんちゃんの決断が遅かったんだからね」
「了解!」
真介は家に入ってすぐさま不動産屋へ連絡した。が事情を説明すると不動産屋は快く、
「部屋の中を新規契約の人に見せていいなら、来週中に荷物を運べばいいですよ」
クーリングオフを認めてくれた。
「というのも、二階堂さんの部屋は、学生のモデルルームとして見栄えするんですよ。
あれなら、部屋を借りたいという人がすぐに決ります。
明日、正午前、新規の顧客を案内したいので二階堂さんの立ち会いで部屋を見せてください」
「わかりました。立ち会います。よろしくお願いします」
電話を切った真介はほっとしている。何ごとも、早くすませたほうが気楽だ。
「さなえのいうとおりにして良かった。
さあ、ハンバーグを作るぞ!」
「あたし、荷物をどこに置くか、考える・・・」
「頼むよ。トラ、手伝え」
「わしはネコじゃ。真介のようにはゆかぬよ」
「そういうな。味見くらいはできる・・・」
「うむ・・・」
あたしは調理を真介とトラにまかせ、リビングのソファーで真介の荷物をどうするか考えることにした。
本棚、机、ベッド、テレビは真介の部屋に置けばいい。
衣類は備え付けのクロゼットに入る。
小さな冷蔵はリビングだ。
電子レンジと洗濯機、掃除機はどうしよう。
いざとなったら、真介の部屋を物置にして、ベッドと机をあたしの部屋に入れればいい。
そうじゃないな。
ベッドをあたしの部屋に入れて、真介の部屋に机と本棚と家電を入れればいい。
たしか荷電は新品だ。真介は梱包箱をたたんで取っていたはずだ。
これでいい・・・。
そう思ってリビングからキッチンを見た。真介とトラがハンバーグの味見をしている。
えっ!テレビ台の時計を見ると六時半だ。帰宅して一時間も経っている。
あたしは一時間も何してた?
「心が散歩しとったぞ。あの女のところへ・・・」
「チビックの病室へか?
あたしは病室どころか病院にも行ったことないよ・・・」
トラの言葉にそういった後で、あたしは真介の研修している病院を見ていないことに気づいた。
これっていけないことだろうか?
しんちゃんは今日、あたしの講義を見に来た。
まあ、食材の買い出しのついでではあるが・・・。
しんちゃんは、本当は何しに来たのだろう?
あたしに会いに来たんだな!愛妻のあたしに・・・。
あたしは、チビックの前であたしを愛妻といった真介を思いだした。
まわりには買物客がいた。全て学生だ。
ウワッ、あしたから、学内の噂の的になってしまう!
あたしの思いに気づき、トラがあたしを見ている。
「心配いらぬよ。さっき、加具土神さんがピカッと光を発した。
記憶に残っておらぬよ・・・。
おお、完成したぞ!
どこで食うかいのう?」
「ダイニングで食べる。そっちへ行くよ・・・」
あたしは、あたしの意識の他に、別な存在があたしの中にいるのを感じた。
それはソファーに座って、オンになっていないテレビに見入っている。
そんな者の前に、トラと真介を座らせたくなかった。
「だいじょうぶ、心配ない。心に残った残像みたいなものだ。
チビックのことが強烈だったんだね。
爺ちゃん、そうだな?」
真介はダイニングのテーブルにハンバーグを並べながら話している。
「いずれ、サナも自分で、心の記憶を整理できるようになりおる。
今は過渡期ぞね。心配はなかよ」
トラはのんきにそういい、ダイニングのテーブルに箸を並べている。器用になったものだが、手を洗ったのだろうか?
「うむ、さっき洗面所で洗ったぞ。それくらいはわきまえとるよ」
そういってトラは、オッホンと咳払いした。