十二 幼なじみ

文字数 5,221文字

「いきなり殴るな・・・」
「なんだよ。また鍛えたのか。腹筋?」
「ああ、水泳でな」
 クソバカはあたしより五歳上だ。クソバカは忘れたかも知れないが、あたしはクソバカとのことを思いだしている・・・。あたしとクソバカは、ある面、幼なじみだ。


 あたしの家はM県R市にある。母の実家はN県N市、旧姓は二階堂だ。
 そしてこのクソバカ・二階堂真介の実家もN県N市だ。
 あたしが幼いころから、あたしたち家族は、病弱な父の静養を兼ねて、なにかにつけて母の実家のN県N市に帰省していた。そして、遠縁に当たるクソバカとは、その時からの付き合いだ。

 あたしが中三の秋、父が亡くなった。
「さなえ・・・。
 俺がこれから話すことを聞いても、気を悪くしないでくれ・・・」
 二階堂真介は、酒を注ぎにいったあたしにこっそり話した。真介は酒を飲める年齢にわずかに足らないが、あたしの父の葬儀後のお(とき)の席だ。親戚同士、暗黙の了解めいたものがある。

 当時、この真介が通学していたのはM県R市のM大医学部で、あたしの家の近所に下宿していた。

「なに?」
 みんながあたしとしんちゃんを見ている気がする・・・。
 あたしはまわりにいる親戚の目が気になった。
 真介はあたしの顔が曇るのを見逃さず、笑顔であたしを見つめてささやく。
「今後の話だよ。これがすんでからにしよう。なあに、気にするな」
 今後の話となら、気にするなといわれても気になる。
 あたしは中三、真介はM大医学部進学課程の二年だ。

 お斎が終り、二階の会場から葬儀の参列者が去っていった。
「しんちゃん。さっきの話、何?」
 一階ロビーであたしはラウンジのソファーに真介を座らせて尋ねた。
 すると、真介がささやくようにいう。
「おじさんが亡くなって大変だろうが、高校はもちろん、大学も行けよ。
 さなえは成績がいいから、高校も大学も推薦で行けるだろう。
 二階堂の家系は頭脳だけは優秀だからな。
 あと五年たてば俺は働ける。そのとき、さなえは大学三年になる。
 俺がさなえとおばさんの支えになるようにする・・・」

 真介にそういわれると、あたしはなんとなく安心した。
「うん・・・」
 あたしは小顔で童顔。身長が百六十センチ以上ある。真介はあたしより頭一つ分は背が高い。真介は母方の遠縁だ。好青年。二階堂の一族は背が高い。

 身体が弱かった父に代り、いつも真介はあたしを見守るように傍にいた。病院生活が長かった父が亡くなっても、真介がいるから、あたしは父を亡くした悲しみに耐えられた。
 でも母から、
「父さんには悪いけど、これで父さんの入院費の負担がなくなった」
 すまなそうに話すのを聞いている。父さんの両親、祖父母も近所に住んでいる。母は祖父母とともに不動産関連の仕事をしている。経済的にはなんとかなるはずだ。


「では約束どおり、将来、俺の嫁さんになるということで交渉成立だね」
 真介はあたしを見て笑っている。
「ええっ?あたしがしんちゃんのお嫁さんになるんか?」
 あたしはうつむいた。顔がほてってぽっと赤くなるのがわかった。
 しんちゃんのことは大好きだ。だいすきなお兄ちゃんだ。だけど父の葬儀の日に話すことだろうか・・・。
 ああ、あたしが将来のことを考えて落ちこまないように、お兄ちゃんはあたしをなぐさめてるんだ・・・。

「嫌か?」
 真介があたしを見てささやいた。
「嫌じゃないよ。子どもの時の約束、忘れてた・・・」
 あたしは顔を上げた。小さいときから、あたしは、なにかにつけて大きくなったら真介兄ちゃんのお嫁さんになると話していた。
「そしたら考えてくれ。交換条件でおまえとおばさんのことを考えてるんじゃないよ。
 俺、お前が好きだ。こんなこと、おおっぴらにいったら、捕まっちゃうな」
 真介はうつむきながら苦笑した。

 お兄ちゃん、無理してる・・・。
 あたしは吹き出すように笑いながらいう。
「むむむ?未成年者ナントカか?」
 思わず真介は声をひそめた。
「オイ、まだ、何もしてないぞ」
「そんなことないよ。手も握ったし、おんぶも、ダッコもしたし・・・」
 そういいながら、あたしはいたずらっぽく真介の反応を見ている。
「それは、子どものころのことだろう?」
 思わず真介はまわりを見た。ラウンジにいるのはあたしと真介だけだ。

「こどもでも・・・」
 子どもでも、うれしかったなあ・・・。あの頃のしんちゃんは、足長おじさんじゃなくって、胴長お兄ちゃんだった・・・。
 父が母の実家で倒れて地元の病院に入院し、父の病室を訪ねたあと、眠くなってしんちゃんにおんぶされたときのことは忘れない。
 父を訪ねたあとは、いつも眠くなってしんちゃんにおんぶされた・・・。

「さあ、帰ろう。家まで送る。
 おばさんに、さなえを家まで送ると話しといた」
 真介はソファーから立ちあがってあたしの手を引いた。
 あたしは手を引かれてソファーから立った。


 ラウンジから玄関へ歩きながら真介がいう。
「ついでに、さなえを嫁さんにほしいと話しといた」
「うん・・・。ええっ?ほんとなの?」
 あたしは真介を見つめた。真介があたしを見つめかえす。
「嫌か?」

 この目、しんちゃんは本気だぞ・・・。
「嫌じゃないよ。お母さん、なんといってた?」
「本人が承知したら、まかせるといってた」
「ほんとに!信じていいんだね!」
「本当だ」
「うん。信じる。これで、恋人を探す必要がなくなった。いっきに奧さんだ。うふふっ・・・」
 真介の言葉を聞いて、あたしは安心した。父が亡くなって、真介も大学に行ったまま会えなくなったら、こんなに寂しいことはない。でもこれで、真介は今までよりもっと身近な存在になった。あたしはうれしかった。父が真介を導いたような気がした。

「そう来たか。そのほうが、さなえらしいな」
 あたしの言葉に真介がほっとしているのがわかる。葬儀の日にこんな話をしたら、いったいどうなるだろうと思っていたらしい。話して良かったと真介は思っているらしかった。

 
 車があたしの家に着いた。玄関に入ると奥から母が出てきた。
「しんちゃん。あがってね。咲恵さんもきてるわよ。ゆっくりしてってね。
 今日はもう誰も訪ねてこないと思うわ」
 咲恵は真介の母だ。
「はい・・・」と真介。

 あたしは一足先に上り框にあがり、真介の前にスリッパを置いて真介を待った。真介がスリッパを履くと、真介の靴を自分の靴とそろえておいた。
 あたしを見て母が笑顔でうなずいている。
「ありがとう。しんちゃん。よろしくね・・・」
「はい。よろしくお願いします」
 真介は母に深々とおじぎしている。

 仏間の襖が開け放たれた座敷に親戚の皆が座った。あたしは真介の隣りに座った。それだけで、ふたりのあいだでどういう約束が成されたのか、その場に居る者たちは納得して、よけいな事は話さずにいた。


 真介があたしを未来の妻にすると話して以来、真介の存在は、父を亡くしたあたしの気持ちを変えた。単に真介が以前より身近になっただけではない。
 真介はここR市のM大医学部へ通い、週末になると、あたしに会いに来た。真介は、あたしの高校受験の家庭教師をしている気らしかったが、勉強でわからないところがないあたしは、真介から教えてもらうことは何もなかった。

 あたしが幼いときから、真介はあたしの家や母の実家に来ていた。
 真介が訪ねてくると、父も母も我家の兄が帰ったかのようにふるまっていた。
 その当時、あたしの未来の旦那さんなんて印象はどこにもなかった。

 真介が今まで以上に身近な存在になっただけで、あたしは父が亡くなった悲しみから抜けだせたのに、毎週会うようになって、あたしはさらにおちついた。
 母も祖父母も、あたしと同じように、真介のことを思っていたのかも知れない。

 あたしはM大医学部に通っているしんちゃんの許嫁、しんちゃんは未来の夫だ・・・。
 まわりの同級生が受験であたふたしているあいだ、あたしはどっしりと構えて受験に取り組んだ。

 翌春。
 何事もなく地元のR高校に入学した。R高校は旧女子校の流れをくむ進学校で女子が多い。あたしは弓道部に入った。勉強と弓道と週末は真介に会う日々が続いた。あたしは真介に、
「毎週、会いにこなくても、あたしは元気だよ」
 と伝えた。会えなくてもスマホで話ができる。あたしは弓道に没頭したが、真介が話したとおり、母方の二階堂の血筋なのだろう。高校の成績はずっとトップだった。
 高校の成績が優秀だったから、真介が話したとおり、推薦で大学に入った。そして運がいいことに、大学のすぐ近くにペットと同居可のアパートが見つかった。

 というのも、中三の秋、父が他界したあと、家で飼っていた三毛猫のミケが、子猫のトラを残して他界した。あたしと祖父で、あたしが幼いころに遊んだ庭の、柿の木の下の、祠のそばにミケを埋葬してあげた。
「トラ。あたしがいるから安心しろ。あたしにはしんちゃんがいるから、安心してる。トラもあたしがいるから、安心しろよ・・・」
 あたしはピイピイ鳴くトラにミルクを飲ませながら、トラを育てる決意をした。
 そして、大学に入ったあたしは、三歳になったトラをアパートへ連れていった。

 入学と同時に、小顔で童顔、身長が伸びて百七十センチになったあたしは目立っていた。男女を問わず、あたしの周囲に学生が集ってきた。それでヒールの高い靴を履いて大学へ行った。
 トラを子育てするあたしには、未来の夫のしんちゃんがいる・・・。男はじゃまだ・・・。
 男たちはあたしを見あげ、あたしは男たちを見さげて話す。
 しだいに、あたしは男たちから敬遠されるようになった。思ったとおりだった。
 そんな状況を見ていたのが、親しくなったあの瀬田亜紀と松岡悦子と野本雅子と川田恵だ。彼女たちはあたしの魂胆を見抜いていた。あたしは周囲に近寄る男をいっさい相手にしなかった。

 あたしが大学に入ると、真介は引っ越しの手伝いに一度だけアパートに来たが、その後はあたしに会いに来なかった。そればかりか、勉学で多忙だといって音信不通になっていた。
「なあ、トラ。あたしのしんちゃんはどうしてるんだろうね・・・」
 あたしはミルクを飲むトラを見ながら、真介のことを考えていた。

 高校のとき弓道に夢中で、しんちゃんを無視していたせいかもしれない・・・。
 そう思って、母に真介のことを尋ねても、
「しんちゃんは、将来のことを考えていろいろ忙しいのよ。
 あなたのことは忘れていないから、安心なさい」
 というだけで、それ以上のことは教えてくれない。

 まあ、あたしとしんちゃんの関係は、親戚も認めた深い仲だから、心配しなくていいか・・・。
 深い仲といえば、気持ちの部分だけで、小さいときに抱きしめられただけだなあ・・・。
 もっと、ロマンチックにギュッと抱きしめられて、しんちゃんの脳裡に、この若いあたしを印象づけておくべきだったか・・・。
 しんちゃんのことだ。ぼんくらな所がある。そんなことでは変らないか・・・。
 そうだな。変ったら、しんちゃんらしさがなくなる・・・。

 そうこうするあいだに、あたしは大学二年の初夏になった。
 その間、真介は音信不通のクソバカになった。
 その後の母によれば、クソバカは医学部を卒業して、大学院へ進学するといっていた。
 そして、今、そのクソバカの真介は目の前にいる。

 真介の腕が伸びた。一瞬にあたしは真介に抱きしめられていた。
「クソバカな未来の夫が、未来の愛妻を迎えに来た・・・」
「むむむっ・・・」
 あたしの唇は真介によって塞がれている。

 真介の唇が離れた。 
「おばさんが、俺のあだ名をクソバカといってたよ。さなえがつけたと・・・」
「うっ・・・」
 またまた、あたしの唇は真介によって塞がれている。しっかり抱きしめられて・・・。
 こうなると、メグの気持ちが良くわかる。抱きしめられるのも、口づけされるのも、とっても気持ちがいいもんだ。心が安らぐ。ああ・・・、愛しのしんちゃん・・・。
 一瞬にして、真介をクソバカと思っていたあたしも、今日まですっかり真介を忘れていたあたしも、どこかへ消えた。

 あたしは顔を離して真介を見た。
「ねえ、部屋に入ってね。トラを紹介するよ」
「ああ、ミケの子どもだね・・・」
 真介はあたしを抱きしめたまま、ドアの隙間から中をのぞいて会釈した。

「爺ちゃん。元気か?」
「ああ、元気ぞね。まあ、あがれ・・・」
 その様子は、まさに祖父と孫のようだ。あたしは真介に抱きしめられたまま、呆気にとられた。
「しんちゃんはトラと顔見知りか?」
 あたしは部屋に入った真介にそういった。
「ああ、顔見知りだよ。なあ、トラ」
 真介は、尻尾を立てて真介にすり寄っているトラの背を撫でている。

「ほれ。わしが子猫の時に、真介がいろいろしてくれおっただろう。あれ以来のつきあいじゃよ・・・」
 トラは今までずっと真介とともにいるような口ぶりだ。
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