十五 本音と建前

文字数 4,389文字

 午後からの教養科目、歴史概論と基礎経済学の講義に、ハナは来なかった。
 講義を受講する学生のあいだで、教育学部の女子学生が論争して殴りあいになったと噂していた。

『ハナのことだぞ。トラはどう思う?』
あたしはトラに思いを馳せた。
『そんなことより、講義を良く聞くのじゃ。
 そうでなければ、いや、今は講義に集中しておれ。わしはシロに集中するよって・・・』
 お昼に、トラはシロを連れて待ち合わせの場所に帰って来て、シロとともに昼飯を食い、雨は降らぬよといってふたたびシロを連れて出かけていった。

 今、あたしは歴史概論の講義を受けるため、独りで、中講義室の後部から見て右側中ほどの階段席の、右側にいる。
 トラが話すようになる以前も、独りで講義を受けることはよくあった。
 教養科目になると、アキとエッちゃんとママとメグ(瀬田亜紀と松岡悦子と野本雅子と川田恵)は、あたしが講義を受けるのを知り、出席を取らない教養科目を何だかんだ理由をつけて欠席する。
 四人が欠席したら、あたしが講義を聞かなければ四人とも単位を取れなくなる。
 なぜかあたしは使命感に燃えて張り切ってしまう。

「ここに座っていいいかな?」
 あたしが六人掛けの机で歴史概論の教科書を読みだしたら、耳元で誰かがささやいた。いきなり耳元でささやくなんて失礼なヤツだと思って顔を上げずに、
「ああ、いいよ・・・」
 と答えたあとで、聞き覚えがある声に気づいて顔を上げた。
 (いと)しの真介があたしを見てほほえんでいる。
 一瞬に、周囲の目が、特に女たちの目が、あたしと真介にそそがれた。
 いったい何ごとだ・・・。
 あたしは戸惑った。

「驚かせてごめんな。
 昨日が開学記念日で、今日もその続きだ。病院も医学部も休みが多くてね。
 たまには、さなえが受講する講義をいっしょに聞きたいと思って・・・」
 真介はあたしの隣に座った。

 真介は背が高くてちょっと彫りの深い顔で肩幅が広い。
 あたしが縦長の菱形に脚をつけたような体型とすれば、真介は逆三角形に長い脚をつけたような体型だ。真介は立っていると、あたしより頭一つほど背が高いが、椅子に座ったら、頭はあたしと同じくらいの位置になる。
 これってしんちゃんの脚が長いのか?それとも、あたしが胴長か?
 あたしは胴長じゃない。しんちゃんの脚が長いんだ・・・。

 そんなことを思いながら、あたしは真介に訊く。
「もう、今日の研修は終ったの?」
「ああ、午前中で終ったよ。今日はさなえにつきあえる。さなえにくっついている。
 いいだろう?」
 しんちゃんは、なんとうれしいことをいうんだろう!

「ほんとに?そしたら、このあともう一個、授業があるよ。
 それもいっしょに聞ける?」
 あたしは思わず真介の顔を見た。
「ああ、聞くよ。そのあと、生協の販売部で買物して、晩飯をいっしょに作ろう」
 真介もあたしを見つめている。
 ああ、やっぱり、愛しのしんちゃんだ!
あたしはまわりの女たちの目が気にならなくなった。
「よし、わかった!しっかり授業を聞こう!
 ああ、トラはデイトだよ。次の授業が終ったら、図書館裏で待ちあわせるの」
 あたしがそう話すと真介は思いだしたような顔でいう。
「爺ちゃん、シロに夢中か・・・」
 あたしは、エエッ?と思った。
 この前も真介はトラを爺ちゃんと呼んでいた。
 いったい、しんちゃんとトラはどういう関係なんだろう?

 あたしが中三の秋、父が他界して、家で飼っていた三毛猫のミケが子猫のトラを残して他界した。当時、真介はあたしの家庭教師をするといって、週末に我家に来ていた。あたしは何も質問することがなかったので、真介はいつも母と話していた。
 あのころ、トラはいつもあたしの膝の上にいた。
 真介がトラと対面したのは、真介が我家に来るようになったあのころだ。


 昨日、真介があたしの部屋に来たとき、トラは真介のことを、
「ほれ。わしが子猫の時に、真介がいろいろしてくれおっただろう。あれ以来のつきあいじゃよ・・・」
 と話していた。
 しかし、母と話しこんでいた真介に、トラの世話をする時間はなかったはずだ。あたしはトラに近寄る真介を見たことがなかった。

 あたしの思いに気づき、真介がつぶやくように話しはじめた。
 まだ、歴史概論の講義ははじまっていない。
「俺に医学に興味がある神と、医師として人を助けたいと考えている神がシンクロしてると話した。
 子猫のトラには加具土神さんだ。だから爺ちゃんと呼んだんだ・・・」

 そしたら、あたしは婆ちゃんか・・・。と妙な疑問が湧いた。

「そんなことはない。さなえは愛妻だよ」
 真介はまわりを気にせずそういった。
 その瞬間、いっせいにまわりの目があたしを見るのがわかった。
 みんな知らぬふりして、人の話に聞き耳を立ててる・・・。
 トラにシンクロしてる神さんが加具土神さんで爺ちゃんだなんて、変なことを話してると思ってる・・・。

「しんちゃん。話を変えよう。
 春野羽那(はるのはな)のこと、聞いてる?」
 あたしは真介にそうささやいた。すると、まわりの聞き耳が向きを変えたように感じた。
「ああ、爺ちゃんが連絡してきた。部員同士で殴り合いになった・・・」
 真介もささやき返している。

「殴り合い?」
 あたしはギョッとした。あたしが芝生を歩いていたとき、『ふりかえるな!』とトラの声を心に受けとめたあたしは、背後でそんなことが起っていたとは、まったく気づかなかった。
「ハナと部員は、どうしてそこまでに?」

「同じ団体に、自分を有名にしたいと野心丸出しのヤツと、教育という理念にしがみつくヤツがいるんだから、対立して当然だ。
 本来、大学の部活は理念を掲げて行ってるし、部活動の規約にもそう謳ってある。
 規約をないがしろにして、自分の売名を図ろうとする者がまちがってる・・・」
 真介は今年の春からこの大学に来ているはずなのに、ずいぶん大学の部のことにくわしいみたいだ。

「どうってことはない。爺ちゃんが情報をくれたよ。
 それでだ。理念と野心、人にはどっちが必要だと思う?
 本音と建て前でもい。人に必要なのはどっちだ。それとも両方か?」

「理念だけではやってけないな。人間、欲があるから生きてるように思う。
 理念だって、直接的な欲という表現に関連してないだけで、心の欲求を理屈づけたものだと思う。そう考えたら、理念だって野心だぞ」
 あたしは思っていることを真介に話した。
 理念も野心も言葉だけの表現で、どっちも心の欲求であることに変りはない。
「たしかにそうだね。さなえは、例の揉め事をどう思う?」

 ハナは自分も部も有名にしたいと野心丸出しだ。
 部員は、大学の規約にあるように、子どもたちを教育する場として部活動を考えている。
 まさに、本音と建て前の対立だ。どう見たって、建て前が優先だし有利だ。野心の負けだ。
「建て前優先、野心の負けだと思う。
 規約の上で存在している部に居ながら、規約外のことをしようとする方がまちがってる」

「そうだね。規約があるのにそれを無視したら、大学の理念がなくなるね。
 これが、個人のことなら、どう思う?」
「さっき話したみたいに、理念も野心も言葉で分けているだけで、内容は同じだよ。
 世の中からよく思われるのが理念や信念で、よく思われないのが野心だ。
 どっちも、心の欲求に変りはないよ」

「名言だ。合格だね。
 大切なのはその場に応じ、心の欲求をうまく適合させることだ。
 心静かに感覚を研ぎ澄ませれば、人の思いや周囲や未来に、何があるか見えてくる・・・。
 授業開始だ・・・」
 真介がそういうと同時に、講義室の前部のドアが開いて教授が入ってきた。
 しんちゃんは、人の心と先を読めといいたいらしい・・・。


 歴史概論と基礎経済学の講義が終った。
 真介とともに、待ち合わせ場所の図書館裏でトラに会い、トラをリックに入れて背負い、生協の販売部へむかう。

 真介もあたしもジーンズにコットンリネンの生成りジャケットだ。
 春、母からこのシャンプレーの生成りジャケットがとどいたとき、母にしては趣味がいいと思ったが、こうして真介ともに歩くと、真介がジャケットを選んだのが良くわかる。
「そのジャケットにして良かった」
 しんちゃんはあたしのことを考えてた。クソバカじゃなかった・・・。
 真介から、ジャケットを選んだときの記憶が伝わってきた。

 春、地元のデパートで、母はチェックのジャケットを選び、真介はこの生成りのシャンプレーを選んだ。
 母が選んだジャケットを見て、真介は子どもっぽい印象を受けた。
 そこで真介はそんなことを話さず、さなえは大人らしい雰囲気を持っているから、大人のおちついた雰囲気の物を着せたいと話した。
 真介のその一言で、母は緑や赤や黒のギンガムチェックをあきらめた。
 母の頭の中にいるあたしはティーンのままみたいだ。

「娘をいつまでも子どものままにしておきたいのは、どこの親も同じだよ。
 でも、さなえのお母さんは、さなえをそれなりに独立した人として見ているし。そういう風に扱ってきた。
 まあ、シンクロしている存在がそうさせたんだけどね。
 ところで、爺ちゃんはなにを食いたいんだ?」
 真介はあたしが背負っているリュクのトラにそういい、あたしが質問しようとすることから話をそらせた。

トラがリュックのフタから、顔を出したらしい。ゴソゴソ動くのがわかる。
「そうよなあ、鮭の塩焼きを食いたいが、たまには牛肉なんぞもええな・・・。
 そしたら、お子様好みのハンバーグにしてくれんかのう。
 わしは香辛料が苦手ぞね」
 トラは香辛料にひどいアレルギー反応をする。
 胡椒をちょっとなめただけで一時間くらいくしゃみが止まらなかった。
 山椒もだ。辛子をなめたときは飛び跳ねていた。

「香辛料ぬきのハンバーグにしよう。六人分、材料を買うよ。野菜をたくさんだ。
 それと、魚も必要だ。鮭を買おう。鰺もいいね・・・」
 あたしに好き嫌いがないのを知っている真介は、夕飯の食材をどんどん決めてゆく。あたしは大助かりだ。

 生協の販売部に入った。真介はカートを押して冷凍物のコーナーへ行き肉と魚をカートに入れ、野菜のコーナーで野菜をカートに入れた。
「保存食は冷蔵庫と食品棚にあったから買わないよ。
 他にほしい物があるか?」

「牛乳とチーズかな。トラは?」
「そうじゃな。スパゲッティー用に、貝の水煮の缶詰とタラコかな・・・。
 おお、それとアイスクリームじゃな。ハゲダスのアイスじゃ!」
「しんちゃん、ハーゲンダッツ」
 あたしは真介に目配せした。
 トラはあたしよりテレビのCMをよく見ている。

「了解、爺ちゃんらしいな・・・」
 真介は冷凍物のコーナーへもどって商品をカートに入れた。
 すると、真介の横からアイスクリームに手を伸ばした女が手を止めた。
 真介を見つめて呆然としている。
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