三 かわいい娘たち

文字数 3,753文字

 五月半ば、月曜、晴れ。
 初夏の陽射しと朝の空気が清々しい。
 メグはこんな季節の変化を感じているのだろうか・・・。
 そう思いながら、開いた窓から、外を眺めた。

「目に青葉 山ホトトギス 初鰹 じゃな・・・」
 トラがあたしの足元にすり寄ってきてそう言う。刺身でも食いたくなったんだろうか?
「そう言うわけではないぞ。季節感を感じとるんじゃ。
 しかし、今晩は、刺身もええのおう」
 トラはあたしの脚に絡みついて喉をゴロゴロ鳴らしている。
「ほら、やっぱり食いたいんじゃないの。とりあえず、鮭を焼いて、朝ご飯にしようね」
 あたしはダイニングキッチンへ行って、冷蔵庫から冷凍の塩鮭を取りだし、電子レンジで解凍した。

「なあ、サナ。わしも大学へ行っていいか?」
 クッキングテーブルで味噌汁を作るあたしの足元にトラがすり寄ってきた。つぶやいている。
 大学はすぐ近くだ。歩いて五分もかからない。このアパートに学友を呼ぶと、たまり場になるのがわかっていたから、あたしはここに誰も呼んでいない。
 以前、用があって電車で一時間近く離れた隣県のD市へ行ったことがあり、そのことを話したらそれ以来、あたしはそこから大学へ通学していることになっているらしかった。

「いいけど、学内を歩きまわれないぞ。トラが警備員に見つかれば、捕獲されて保健所送りだ。アウシュビッツのように処刑されるぞ」
 脅しじゃなかった。迷子の猫や犬は保健所に一時的に保護され、引き取り人がいなければ処分される。買主の責任放棄と社会を管理する者の横暴だ。トラ、断固、抗議しろよ。

トラが納得顔であたしを見あげて言う。
「動きまわっても、警備員に見つからねばいいのだな?」
「大学職員やサイコパスな学生に見つかったら、捕まえられて同じ目にあうよ。ここにいた方がいいよ。飯はもうちいっと待ってな」
 あたしはそう言いながら、解凍した鮭をオーブンに入れ、湯が沸騰した鍋に、野菜と味噌と粉末の出汁を入れた。

「なあ、トラ。トラは方向感覚は優れてるか?俯瞰的に学内を理解できるか?」
 味噌汁をお玉ですくって小皿に入れ、味見した。いい味だ。
 もう一度、小皿に味噌汁を入れ、トラの前に床に置いた。
「熱いから、フウフウしろよ・・・」
 鍋をのせているヒーターのスイッチを切りながら、あたしはトラにそう言った。

 トラが、味噌汁の入った小皿をフウフウと吹きながら言う。
「俯瞰的にっちゅうことは、全体を把握することじゃな。部分部分を見て、全体像に当てはめるっちょうことぞね。
 オオ、いい味だぞ!!
 ははあ、サナは、わしが学内で迷子になると思っとるのじゃろう。
 それは絶対にないぞ。なにせ、サナの記憶はすべてお見通しじゃ。わしの記憶じゃよ。
 それに、先週の月曜に、サナが出かけたあと、ちょっくら、大学へ行ってみたんじゃ。シロの家の先ゆえ、シロとちょっと足を伸ばしたんじゃよ。だから、学内はわかっとるちゅうことぞね・・・」
 そう言いながら、トラはピチャピチャ味噌汁を舐めている。

「なんと!シロとデイトしてたんか?」
 さてはトラ、大学の樅の木陰の芝生で、シロとイチャイチャしてたんだろうな・・・。
「何を考えとる。愛の季節は、ふた月前に過ぎおったぞ・・・」
 トラが味噌汁を舐め終ってあたしを見あげてる。
「トラの愛は 実らなかったんか?」
もうすぐ、鮭が焼ける。あたしはトラの小鉢に炊飯器からご飯をよそった。
「いやあ、そのお。まあ、しばらく待っておれば、どうなるかわかるぞ。
 それより、わしも大学へ行くぞ」
「エエッ!ほんとか?どうしよう?」
 あたしはオーブンから鮭を取りだし、トラのご飯にのせた。

「あのお・・」
 トラがなんだか控えめになっている。
「なに?行くのをやめたか?」
 きまり悪そうにトラが言う。
「ちょっと行儀が悪いが、味噌汁もたのむぞ・・・」
「ご飯にかけるんか?鮭を焼いたんだぞ。せっかく皮をパリパリやいたのに・・・。まあ、いいっか!トラの飯だもんな・・・」
 なんだかんだ言いながら、猫マンマねだるなんて、やっぱトラは猫だな・・・。
 そう思いながら、小鉢に味噌汁をかけて、トラの前の床に置いた。
「そう言うな。サナも食ってみな。うまいぞ」
 トラは、喉を鳴らして猫マンマを食いはじめた。

 トラを見ていたら、猫マンマがうまそうに見えた。
 いかん!これはトラの思いだ。トラの味覚だ。あたしじゃないぞ。そう思っていたが、やっぱうまそうだ・・・。
 キッチンテーブルで、あたしは、茶碗によそったご飯に、お碗の味噌汁をかけて、皿にのっている鮭をのせ、箸でつついて、ご飯に味噌汁を馴染ませて鮭をくずし、茶碗を口に寄せてご飯をかき込んだ・・・・。
 うまい!熱い味噌汁の味噌の風味と鮭の味が、炊きたてのご飯の淡泊な味に上乗せされて、うまい!
 おにぎりを食いながら、味噌汁飲んで、焼き鮭、それらをいっきに味わってるようなうまさだ。うまい!ウマイ!美味い!
 そう思っていると、トラが小鉢から顔をあげて、あたしをチラ見した。
「なっ!うめえだろう!なっ!食ってみねえとわかんねえだろう?」
 今度は小鉢から顔をあげて、トラがあたしを見あげてる。

「うん。わかんないもんだね・・・」
 ふっと、あたしは思いついた。
「なあ、トラ。一日のんびり寝てるのは嫌か?ハンモックのようなのに乗って、一日寝てるんだ。一日と言っても。一時間半ごとに、休憩じゃないな。動けるけどな・・・」
 あたしは猫マンマを口にかき込んだ。
「もしかして、リュックサックか?バックパックか?
 とにかく、それに、わしを入れて大学に連れてゆくんじゃな?」
 そう言い、トラも小鉢に顔を突っこんでいる。

「うん。トラは静かにしてられるか?」
 あたしも猫マンマを口にかき込んだ。
「事と場合によるぞ。目の前で何かがチョロチョロしたり、美味そうな匂いがしたら、条件反射する。静かにしておれんからな・・・」
 そう言いながらトラが猫マンマを食ってる。

「排せつはがまんできるか?」
 そう言ったあとで、今はこんなことを訊くタイミングじゃないなと思った。
「ウンとションか。まあ、講義の一時間半はもつから、安心してくれ。
 行きたくなったら、知らせるぞ・・・。
 そしたら、仕度をしようぞ」
 トラは飯を食い終えて顔をなでている。

 あたしも食べ終えて、使った食器をシンクへ入れて洗った。
 大学へ出かけるといっても、特別なことをするわけではない。
 ファッションに興味は無いから、化粧もヘアースタイルも興味は無い。歯を磨いて顔を洗い、そのままだ。あたしの顔はそれだけで、化粧したように見える顔だからふしぎだ。

 クローゼットから大きめのリュックサックをだして、その中にバスタオルを入れ、バスタオルで包んだ、教材が詰まったいつものリュックサックを入れ、横に、簡易トイレを開いて入れたポリ袋を入れた。
「トラ、これ簡易トイレだ。緊急のときはこれにシッコしろ。
 給水ポリマーが、シッコを吸いとってくれるぞ」
 あたしはリュックの中の、ポリ袋の簡易トイレをトラに見せた。

「ウンはどうする?」
 トラが疑問のまなざしであたしを見あげた。
「ウンは、今のうちにしとけ」
「わかった。してくるが、緊急でしたくなったらどうする?」
 トイレへ行きかけて、トラがふりかえった。

「今日は、いっぱい、でそうか?」
 トラの腹はいつもよりふくれている。
「昨日から、たくさん食っておるからな・・・。
 とにかく、だしてくるぞ・・・」
 トラはトイレへ行った。
 トラは産まれて間もないときから、トイレを使っている。自分でトイレの水を流せる。訓練のたまものだ。

「大学の講義中、緊急のときは教えろ。大学のトイレへ連れてくよ」
 あたしはトイレのドア越しに、トラに伝えた。
 今日の大学の講義は、いつでも抜けだせるように、教室のうしろに座って聞こう・・・。
「わかった。もうすぐデルから待ってくれ・・・」
 トイレの中からトラの返事がする。

 デルのはウンか、それともトイレからでてくるトラか?そんなことを思っていたら、
「イッヒ、フンボルト。デル、ウンチ!」
 なんて鼻歌が聞えた。
「トラ。ドイツ語、いつ憶えた?」
 そう思ったとたん、あたしの記憶をトラが共有しているのを感じた。
「サナの記憶を読んだぞ・・・。さて、水を流してっと・・・」
 トイレからトラがでてきた。

「サナはトイレは?」
「ちょっと待ってな・・・」
 あたしはトイレへ入った。便座に座ってアキとエッちゃんとママにチャットした。
「みんなとあたしはクサイ仲・・・」
 すぐさま、三人から(瀬田亜紀と松岡悦子と野本雅子)オッケイと返信が来た。もちろん、トラのことも伝えておいた。
 トラは憶えていないかも知れないが、三人はトラと面識がある。そんなことはどうでもいい。ここからでたら、歯を磨いて顔を洗い、トラをリュックに入れよう・・・。

「オーイ。わしは思いだしたぞ。三人とは会っとったな・・・。
 で、予定を教えとくれ・・・」
「講義の合間にアキとエッちゃんとママの動画を撮るんだ。
 ここからでたら、歯を磨いて出かけるよ。準備しといてね」
「そういわれても、準備なぞ、なんもないぞ・・・」
「わかった・・・・」
 あたしはトイレから出た。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み