序ノ調 現世ノ童歌(ハジマリノシラベ ウツシヨノワラベウタ) 弐

文字数 3,010文字

「久々に来たけど……相変わらずうちの会社とは偉い違いだな」
 蘭子はボヤキながらライバル会社の神馬出版を眺めていた。蘭子が勤務している夢の旅出版が事務所レベルの建物だとしたら、神馬出版はビル一棟分くらいの差である。本当はライバル会社に踏み込みたくはないのだが、目玉記事の可能性を秘めたものであれば仕方ない。蘭子は大きく鼻息を吐いて受付を尋ねる。

 受付嬢に要件を伝えると、ものの数分で目当ての河崎部長と会うことができた。ややでっぷりとした風貌に嫌らしく伸びた髭が特徴的。(一応)奥さんはいるのだが、家庭内別居をしているという噂が流れているらしいのだが、本当かどうかはわからない。
「ほう。これは目黒君ではないか。久しぶり」
「ど、どうも。お久しぶりです。今日は……」
「わかっている。あの祭りに関しての話だろ。ついてきたまえ」
 言わずともこちらが言いたかったことをすでに把握している。そういうところは優れているんだけどねぇ……蘭子はエレベーターの中でそう思った。やがて最上階に着くと心地よいチャイムが鳴った。開くとさすが部長クラスと思える立派な設えの扉が待ち構えていた。豪華でありながらどこか謙遜をしているそんな雰囲気だった。
 中へ入ると秘書が恭しく首を垂れる。背中にむずがゆさを覚えた蘭子は適当に会釈をして河崎部長についていった。応接間で対峙するように座ると、河崎部長が深く溜息を吐いた。
「……本当に行くのかね」
「え? ええ。行くわよ。そりゃもちろん」
「……わかった。なら、いくつか話しておかないといけないことがある。心して聞けよ」
 いつもはふんぞり返りながら「何の用だ。あはぁ?」なんて聞いてくるくせに今日はやけに仰々しいな。不思議に思った蘭子は思わずバッグの中からメモ用紙とペンを取り出した。
「確かに儂と部下の一人はあの村へ行き、祭りに参加した。それもつい先日、帰ってこれた」
「はい。何か不思議な点はありましたか?」
 蘭子も仕事モードに切り替え、河崎部長に質問を投げかける。河崎部長は少し言葉を選びながら質問に応じた。
「不思議な点……か。そうだな。村の雰囲気はおかしくないんだが……まず気になったのは誰も彼もが明るいことだ」
「明るい……というと具体的には?」
「具体的というと……そうだな、心から楽しんでいるといえばわかりやすいか」
 村での生活がそんなに楽しめるものなのか。過去に蘭子は農業体験をしたことがあるのだが、中々に難しい作業ばかりで楽しいと思えるのには時間を要するものだと学習した。でも、その村人はそんな生活を心から楽しんでいるという。
「楽しんでいる……と。他に何か気になったところはありますか」
「そうだな。玄関に必ずといっていい程、風鈴があったこと」
「風鈴が……それのどこが珍しいのですか?」
「だいたいの家庭では、縁側とかに風鈴を飾ると思うのだが、なぜかその村は統一性があるのか玄関に風鈴があった。それもどの家庭も少しずつ違っていたんだ。音もそうだが材質、形と様々だった」
「なるほど……他にはなにかありましたか」
 自分だけがわかる文字を羅列させながら次の質問をする蘭子。すると、途端に河崎部長の顔色が変わる。なにかまずいことでもあったのだろうか……。
「信じる信じないはお前に委ねる。それを踏まえた上で聞いてくれ」
 思わず唾をごくりと飲み込む蘭子。手にしているペンに力が入る。
「最大の不思議な点は、その祭りだ。必ず用意された浴衣に袖を通し、男性は帯に女性はかんざしに風鈴がついた飾り物を付ける。試しに振ってみたがなぜか音が鳴らない不思議なものだったのを覚えている。村長曰く、その風鈴の音色は祭りの中で綺麗な音を出すというのだ。それも自分にしか聞こえない音だそう。最初は儂も信じられなかった。自分にしか聞こえない音なんて存在するのかと。それが、いざ祭りに参加してわかった。確かに儂だけにしか聞こえない風鈴の音が聞こえたんだ……それと、祭りに売っている品物が変わっていた」
「例えば、どんなものがあったのですか? だいたいりんご飴とかやきそばとか綿あめがベターですけど……」
「ああ。確かにそういったものはたくさんあったさ。だが、お金じゃないんだ。お金で交換するんじゃないんだ」
「お金じゃない……となると一体何と交換をするのですか?」
 河崎部長は秘書が運んできた麦茶をぐいと飲み、呼吸を整える。蘭子も気持ちが高ぶってくるのを抑えようと麦茶に口を付ける。冷えた飲み心地が気持ちをゆっくりと冷ましてくれるのを感じながら、河崎部長の言葉に耳を傾ける。
「負の感情や、正の感情。例えば、苦しかったこと1つで交換や楽しかったこと2個で交換といった具合だった。儂は夢を見ているのかと何度も自分の頬を叩いたが何度やっても現実だった。試しに辛かったこと1個とやきそばを交換して食べてみた。ソースがよく絡んでいてとても美味しかった。市販のやきそばが食べられなくくらいに美味しかった。もっと奥まで進むと盆踊りもしていた。みんな楽しそうに踊っているのだが、中には表情がなく踊っている人もいた……。一体どうなっているんだ……儂はもう訳が分からなくなった」
「……」
「そしたら、帯についているはずの風鈴から綺麗な音が聞こえた。それも、耳元でなっているようにちゃんと聞こえたんだ。嘘じゃない。村長の話では、その風鈴の音色が聞こえたら来た道を引き返しなさいというものだった。儂は怖さが先だったからすぐに来た道を戻った。無我夢中で走って気が付いたら、あの村に戻ってきていたんだ」
「……部下の方はどうしました?」
「…………………………」
 河崎部長の長い沈黙。それが意味するものがどういうものなのか、蘭子は想像がつかなかった。意を決した河崎部長はゆっくり口を開いた。
「……もう、ここにはいない」
「……いない?」
「……ああ。祭りの中に閉じ込められたのだ……」
「ちょ、ちょっと待ってください。なんでですか……?」
「さっき話した、苦しかったことや楽しかったことで交換した食べ物を口にすると、確かに高揚感を得られる。それに溺れたら最後、帰る道はおろか風鈴の音色も聞こえなくなるようだ」
「その部下は……その祭りの食べ物に溺れてしまって……?」
「……ああ。儂は……部下を見捨ててしまった……儂が……もっとしっかりしていれば……」
 わあと泣き出してしまった河崎部長を誰も責めることはできない。快楽を覚えてしまったらそこから抜け出すことはできない。そんなお祭りだということは理解できた蘭子は、要点を自分なりにまとめてパタンと閉じた。
「……河崎部長。心中お察しいたします」
「……それでも、お前は行くというのだな」
「はい。行きます」
「……わかった。なら止めることはできないな。それと、もう一つ気を付けなければならない」
 席を立ち、応接間から出ようとした時に、河崎部長が忠告をくれた。
「あの祭りには、過去に亡くした人物も参加している。儂の娘もその中で楽しそうに笑っていた。だから、それにも気を付けるんだぞ。引き込まれたら最後……だということを忘れるな」
「……わかりました。ありがとうございます」
 蘭子は泣きじゃくって腫れぼったい河崎部長を直視することができず、応接間を後にした。
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