序ノ調 現世ノ童歌(ハジマリノシラベ ウツシヨノワラベウタ) 壱

文字数 2,369文字

 季節は夏。外は太陽から降り注ぐ熱線で油断をしていると、あっという間に熱中症になってしまいそうな陽気だ。目を細めなくても見える陽炎がそう物語っている。
 それに反して、小さなオフィスの中は冷房が効いていて、仕事はもとより昼寝にも最適な空間となっている。その快適空間の中で一人、パソコン画面に向かってひたすら文字入力をしている女性がいる。その女性は一つの誤入力もしないまま一気に書き進めていた。とそこへ、その女性の集中力を欠かせるためか、少しはまばたきもしなさいというためなのかはわからないが電話が鳴った。
「はい。こちら旅の夢出版の目黒です。あー、みっちゃん。どったの?」
「どったのって……挨拶ねぇ。最近、連絡ないから心配してかけてみたら……」
「ごめんごめん。今、夏休みの記事を書いてる最中だったからさ」
「あぁ……逆にごめん」
「謝らなくてもいいよ。んで、なにかあったの?」
「あー、特にないよ。あんたの声聞けたから満足」
「えー、そんだけぇ?」
「それだけ。あんまり無理しないでね」
「はいよ」
 某所にて働く目黒 蘭子(メグロ ランコ)は、さっきのセリフの通り夏休みの企画としておすすめの記事を作成していた。プールやテーマパークはもちろんのこと、さらには田舎での過ごし方やちょっとリッチなペンションでの休日はどうかなど様々な目線から攻めていた。現地での取材はもちろん、実際に自分が体験してみた感想などを交えて紹介している記事は女性のみならず男性にも人気。その声こそが蘭子の励みであり活力でもある。
 仕事が大好きで家に帰ることは滅多になく、携帯端末の充電が消えているのは日常茶飯事でちょくちょく仕事場にまで知り合いなどが電話をしてくる始末。ついさっきあった電話もそのうちの一人だ。本人は何にも気にしていないのだが、周りはそうはいかない。机の上には何かしらの栄養ドリンクや固形食品、大きなデスクトップパソコンにはこれでもかといわんばかりの付箋、いつ洗ったかわからないマグカップが置かれている。卓上カレンダーも何か月前というのも何度もあり、取引先から電話がかかってきたときいつも慌てているのを同僚は目撃している。そんなに慌てるなら変えればいいのにと何度も言っているが本人はすぐに忘れてまた慌てるの繰り返し。
 そこへ、後輩の高垣 充(タカガキ ミツル)が取材地から帰ってきた。外は暑いのか全身汗まみれだった。
「あー、外あっつー。あ、先輩。お疲れ様です」
「おっつー。んで、成果はどうだった」
「んー、ちょっと反応は薄かったですね。なんか事情があるかもしれない様子でしたね」
「そうなんだ。ありがと」
 充が行っていた場所は、今回の目玉である田舎暮らし特集。農家の一日を体験できるという企画を計画しており、その取材等を行っていた。結果、いい返事は貰えなかったようだ。
「仕方ない。もうちょっと考えてみるか」
「ところで先輩、取材先で聞いた妙な噂があるんですよ」
「噂? どんな?」
 蘭子はすっかり冷えたコーヒーをすすりながら聞いた。
「お祭り……なんですけど、人がいなくなるお祭りらしいんです」
「人がいなくなるお祭り? どういうこと?」
 充はメモ帳を取り出し、書いてある内容を蘭子に伝える。
「えっと、とある村で一年に一回行われるらしいんです。時期はちょうど今あたりなんですけど、そのお祭りがちょっと変わってるんですって」
「……変わってるってどんな?」
「あの、出店でお菓子とか買うじゃないですか。それがお金じゃないみたいなんです」
「お金じゃなきゃ……一体何で買うのよ?」
「”思い出”らしいんです」
「お、思い出?」
「苦しかった思い出や楽しかった思い出……それらと交換できるみたいなんです」
「みたい……ってことは、それを経験した人がいるってことよね」
「はい。神馬出版の河崎部長です。眉唾ものだとかいって実際に確認しに行ったらしいんです。そしたら、本当だったらしいです」
「じ、神馬出版のあのカタブツが行ったの? へぇ、興味なさそうなものだけど……」
「カタブツって……とにかく、その部長は戻ってくることができたようですが、他の出版社の人間は何人か帰ってこなかったらしいです……」
 蘭子はビジネスチェアをくるくると回しながら何かを考えていた。それはもしやいい記事になるのではないかとかとか……。そう思うと蘭子の口の端が嫌らしく曲線を描く。
「よっし。じゃあその取材、あたしが引き受けるわ。行った場所の地図貸して頂戴」
「え? 先輩、僕の話聞いてました?」
「はいはい聞いてた聞いてた。でも、その前に、カタブツから話を聞いていった方がよさそうね。んじゃ早速電話しなきゃ。えーっと……」
「先輩! 危ないですよ!」
「ちょっと静かに……お世話になってます。旅の夢出版の目黒と申します。お世話になってます。河崎部長はお手すきですか?」
 さっきまで口調が嘘のよう、一気に営業ボイスに変える蘭子にああとため息を吐きながら充は電話が切れるまで団扇を仰いだ。
「あ、はい。はい。では、お伺いいたします。失礼します」
 最後まで営業ボイスを貫き、充に話掛けると声色がひっくり返りちょっとガサツなものへとなった。
「充! 地図の用意できた? あたし、そのまま現場へ行ってくるからタイムカードよろしく」
「え! 先輩。もう行くんですか?」
「善は急げっていうでしょ? そんじゃ! あ、充。きっちり17時でタイムカード切るのよ。それと、村長に今度取材に行くからって伝えておいて。忘れないでよ」
 そういうと蘭子は充が用意した地図と自分のバッグを持ち、まずはその祭りを体験したというライバル会社の神馬出版の河崎部長に話を聞くことにした。
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