第二十二話 恋敵

文字数 3,010文字




俺とおかねさんは黙って布団を敷き、そしておかねさんはいつものように行灯の火を吹き消して、俺たちはそのまま眠った。


俺は、何かを言えば、たちまちそれは彼女への想いにまで行き着いてしまうと知っていた。

おかねさんはおそらく、俺に黙って隠していたことをこれ以上聞き出されたくないから黙っていた。



そして次に目を開ければ、あっという間に朝になっていた。


“あんまり寝た感じがしないな。それにしても、おかねさんとどんな顔をして朝の挨拶をすればいいんだ…”


俺が起き上がると、おかねさんの布団はもう畳まれていて、彼女は居なかった。それで俺は何を考えたわけでもないのに、慌てて戸口から出る。その時右に三歩の井戸端から水音がしたので、急いで振り向いた。

そこではおかねさんが盥に水を汲み、顔を洗っていた。彼女は手拭いで水気を払って振り向く。それは昨日の朝と同じ笑い顔だった。

「おはよう。お前さんも使うかい?」

俺は一瞬、時が逆戻りしたのではないかと感じた。でもすぐに、“彼女は昨日知れたことにもう触れてほしくなくて、普段を装ったのか”とわかった。

「はい、そうします」


その時、俺の耳元で誰かがこう囁いた。

“これじゃあ、そっくりさんの立場を利用して想いを打ち明けるわけにもいかないな?”

うるさい。

俺はその囁きを押しのけ、彼女と井戸端ですれ違った。盥の中に満ちた水には、とても彼女に似合うとは思えないような、うすぼやけた顔の男が映った。










裏長屋はいくつかの棟に分けられていて、俺たちは表店に一番近い場所を陣取る一棟の、真ん中あたりの部屋に住んでいる。

五つほどある棟の住人はみんな俺たちの家の前を通り、表通りと自分の家を行き来するのだ。


「はいはいわかったよ。独楽(こま)は買うけどお前さん、先年みたいにお武家様にぶつけたりするんじゃないよ」

「ありがと、おっかちゃん!」


「ねえ銀さん、探してるものがあるんですよ。どこに行ってもないもんだからね、あなたならご存じでないかと…」

「へいへい、どういったものでしょう?」

「花魁と似た簪が欲しくてね。でも高くちゃあいけませんよ」

「まあまあ、じゃあ探してみます。どの花魁でしょう?錦絵なんか見なすったんで?」

「ええ、これなんですよ、ほら…」


「なあ新よ、昨日の客ぁどこで下したっけなぁ」

「千住だったんじゃねえか」

「するってえと千住にお前の財布もあるかもしれねえぜ」

「バカ言え、てめえの懐探りゃすぐ出てくるんだよ。早く出しゃあがれってんでい」

「おいお前さんたち、喧嘩かい」

「大家さん!」


まあなんとも騒々しいことだ。独楽を欲しがる子供と母親、簪の相談を小間物屋にするおかみさん、篭屋の無駄話…。

大家さんが来てくれてよかった。奥の棟の篭屋さんは、二人していつも喧嘩ばかりなんだ。なんで一緒に商売をしてるのか不思議なくらいに。まあたまに居るよな。そういう二人組って。


俺はそれらを背中越しに聴きながら、俺とおかねさんの、綿を抜いた袷の布を洗っていた。

今日は衣替えの日だ。ところで皆さん、「四月一日(わたぬき)」という苗字はなぜそう読むのか、ご存じだろうか。

知っている人も多いかもしれないが、四月一日は古くは春の衣替えの日で、冬から着ていた綿入りの袷から中の綿を抜き、暖かい季節に備えるのだ。それで、「四月一日」を「わたぬき」と読むようになった。

でも、この時代でも実際に「四月一日(わたぬき)さん」に会うことはない。「苗字としては、もう少し先に増えるのかな?」などと俺は思っている。


というわけで、布一枚になってしまった着物は、これから干して、おかねさんの手でもう一度縫い合わされる。おかねさんは清潔好きなので、「一度洗ったほうがいいよ。お前さんそうしとくれ」と言い、夏用の浴衣を着て家にこもってしまった。

俺は夏物は持っていなかったので、ふんどし一枚の姿で、ほかの洗濯物と一緒に自分の着物を洗っている。これぞ「江戸の長屋住い」という、なんとも言えない感覚だ。

「ふーっ。できた」

物干しは今日は混んでいたけど、今日干さなくちゃおかねさんが明日着るものがないし、俺は場所を探していた。

その時、後ろから「秋兵衛さん、秋兵衛さんよ」と、誰かが小さく俺を呼ぶ声がしたので、俺は振り向く。

見てみると、物干しの真ん前にある長屋の影に、栄さんがかがんでいて、俺を手招きしていた。

「どうしました栄さん、今日はお稽古はお休みですよ?」

そう言いながら俺が近づいていくと、栄さんは「しーっ!」と歯の間から息を吹き、人差し指を立てた。俺はとりあえず、干そうと思っていた洗濯物を盥に戻し、彼の前に自分もかがみ込んでみる。

「なんです。何かご相談ですか?」

そう言ってみると、栄さんは途端に顔を赤くして、緊張したように目を見開いたまま、ちょっとうつむく。

「どうしたんです、何かあったんですか?」

ざりっと裸足で地面をこすり、栄さんは後ろに隠していたのだろうものを、俺にいきなり突きつけた。

それは紙に書いた書きつけのようなもので、始めはよく読めなかったけど、読んでみると酒屋の「切手(きって)」だった。切手には、代金の支払いが済んだことと、「酒二升」と書いてある。

「二升の切手ですね。もしや、お師匠にですか?」

「ほかに誰がいるんでい」

栄さんはなぜか、怒っているような顔をして、顔を真っ赤にしていた。

「いえいえ、では有難くちょうだいをいたします。お師匠にお会いにならなくてよろしいんですか?」

真っ赤な仏頂面のままで栄さんは立ち上がると、「稽古の日に会うだろ。別にいらねえやな」と言いながら、さっさと振り向いて歩いていってしまった。







「まあ!二升の切手!そうかいそうかい、あとでお礼をしなくちゃならないねえ!」

おかねさんは大喜びでお酒の切手を受け取り、うきうきとしばらく栄さんの話をしていた。

「顔を見せてくださいとは言ったんですが…」

俺がそう言いかけると、彼女はふふふと笑う。

「あの人はそういう人なんだよ。人になんかやるってえと恥ずかしくなってさ。そのくせ「いらない」なんて言っても、もう自分じゃ受け取りやしないのさ。そういうところが好きでねえ」

話が済んだらすぐに酒屋に向かおうとでも思っているのか、おかねさんは膝の上に切手を置いたままだった。

「江戸っ子はやっぱりああじゃなくちゃならないよ。唄は得意じゃないかもしれないけど、気の利いたことが言えるときもあるんだよ。この間なんか、あたしが切れた弦の張り直しをしてやったときにねえ、「按摩(あんま)療治(りょうじ)かいお師匠」なあんて言うんだよ。「貼り直す」と「針、なおす」を引っ掛けたのさ。まあまあってとこじゃないかねえ…」


俺はしゃべり続けるおかねさんに相槌を返しながらも、心の中で危機感を感じていた。

多分、栄さんはこれを機におかねさんを口説こうという算段なのだろう。

もちろん贈り物なんかで言い寄られてもおかねさんがなびくとは思えないけど、万一に彼女が、「江戸っ子同士で気が合うじゃないか」なんて言い出したりしたら。

俺には高い贈り物なんてできないし、それに多分、今彼女は、俺と距離を置きたいと思っているだろう。

俺たちのここ数カ月の会話と言えば、「あったかくなったねえ」、「うまいねえ」と、「そうですね」くらいのもので、以前からの焼き直しだ。


さあどうしよう。俺はびくびくしながら見守っていることしかできないらしいぞ。




そしていよいよ栄さんが稽古に出てきた。でも、まず現れたのは栄さんではなかった。







つづく
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