第六話 竈の火

文字数 3,142文字



「お前さん。ちょっと。ねえったらさ」

ぺちぺちと、また誰かが俺の頬を叩いている。ああ、数時間前みたいだ。

そうか。俺はまた時空の壁でも突き抜けて、きっと現代に戻ってきたんだ。だからこんなに頭がふわふわして、気持ち悪くて…。

すると、俺の胸元まで激しい悪心が込み上げ、俺は急いで起き上がった。

見ると目の前にまたおかねさんが居て、俺は戻ってなんかいなかった。でも、今はそんなことはどうでもいい。

とにかくトイレに!えーっと、なんて言うんだっけ…。

「あっ!むかむかするのかい?そりゃいけないね。さ、(かわや)はこっちだよ」

おかねさんが慌てて俺を廊下に連れ出す。俺はそれになんとかついていき、吐き気はなんとか厠までこらえられた。




「それにしても、お前さんはお銚子一本しか飲んでないじゃないかさ。まったく、張り合いがないねえ」

そう言いながらも、おかねさんはたくさん並んだうちの最後の徳利を一気に傾けてぐい飲みに出してしまうと、それを一息に飲み干す。

俺は日本酒を徳利一本飲み干したところで酔っぱらって眠り込んでしまい、そして目が覚めて、食事を戻してしまったらしい。

「でもさ、加減を悪くしたんなら早く帰らないとね。ほら、立てるかい?」

おかねさんはそう言ってすぐに俺に手を差し出してくれた。

ああ、やっぱり綺麗な人だな。俺の前に居るなんて、もったいないくらいだ。

俺はもう気持ちが悪い感じはなかったけど、その時彼女が俺を気遣うために微笑んでいたから、黙ってその手を取り、大人しくあとについて歩いた。







翌朝も俺は、おかねさんに叩き起こされた。

「ちょっと!いつまで寝てるのさ!秋兵衛さん!ちょいと!起きとくれよ!」

「あ、はい…はい…起きます…」

「やっと起きた。さあさ、お前さんは今日からうちの下男(げなん)だよ。まずはごはんを炊いておくれな。お米は水を測ってあるから、早く火を起こしとくれ!」

俺はおかねさんの羽織を体からどけて、どっこいしょと起き上がる。布団は一組しかないし、一緒に寝るわけにはいかないと俺が断ったので、俺は畳の上に寝て、羽織をかぶって丸まっていた。うう、あちこち体が痛い。

起きたばかりだし、二日酔いを起こしていたので、俺はちょっと水が飲みたかった。でも水を得るには井戸から汲まないといけないことくらいはもうわかっていたので、それはあとにしようと思った。

そして、俺には強みがあった。俺はキャンプに一人で行くことがたまにあったので、炭や薪の扱いなら慣れている。これなら、教わらなくても怪しまれずに火を起こせるかもしれないぞ!

そこで俺は改めておかねさんに「おはようございます」と言ってから、台所とおぼしき場所に立った。

そこには、おそらく「へっつい」と呼ばれるのだろう(かまど)が一つだけあった。一口しかないのか。これじゃお米を炊くことしかできなさそうだ。

「おかねさん、おかずはどうするんですか?」

「たくあんがあるよ。昨日ちょうどお前さんが倒れてたとこの漬物屋で買ったものさ。あたしはちょっと厠に行くから。帰るまでに頼むよ」

ええっ!?おかずがたくあんだけ!?それはおなかがすいてたまらないんじゃないか!?

俺はそう思いはしたが、「今日から下男」と言われたからには、おかずくらいで文句は言えないので、黙っていた。


さて、火を起こすならまずライターかマッチを…と、そこまで考えて俺は気づいた。


江戸時代って…ライターもマッチもないじゃないか!


俺は即座に混乱し始め、へっついの前で両手を揺らしている恰好でしばらくあたふたとしていた。そこへ、おかねさんが厠から戻ってくる。

「なんだい、まだ何もしてないのかい?何ぼーっとしてんだい!早くしとくれな!」

俺はもう泣きそうだった。だから、その時の俺はよほど困っている顔をしていただろう。そのことにおかねさんも気づいてくれたのか、急に体をかがめ、心配そうに俺を覗き込んだ。

「お前さん…もしかして、火の起こし方まで知らないのかい…?」

俺は、「いいえ」と言いたかった。だってそう言わなければ、ややもすれば「無用者」として追い出されてしまうことだってありうるからだ。

しかし俺が無言でしばらく悩んでいたからおかねさんは察したのか、大きくため息を吐く。俺は申し訳なくて、うつむくしかできなかった。

すると、不意に俺の右手がむずと掴まれ、へっついの上にあった小さな石のようなものへ向けられた。

おかねさんは俺の手を取ってその石を握らせ、こう言った。

「これだよ。これが火打石(ひうちいし)

「えっ…これが…」

俺は、火打石を見るのは初めてだった。それは、黒くてすべすべとしているけど、割られた面の端は鋭い。確かにこれなら打ち合わせたら火が出そうだ。

そしておかねさんは今度は俺の左手を取って、そばにあった刃の付いた木片のようなものを取らせた。


どうでもいいけど近い!近いですおかねさん!もう肩なんかくっついてるし!いい匂いするし!いや、冷静になれ、俺!


「それでね、これが火打ち(がね)。これとこれを打ち合わせるんだよ。できるかい?やってごらん」

「あ、は、はい…」

おかねさんは手を放したので、俺はちょっと緊張したけど、火打ち金の刃物のようなところに、石を叩きつけてみた。すると、ぱちっと小さな火花が散る。

「あっ…!」

「できた!そうだよ、それでね…こっちにある火口(ほくち)。これにその火花を移すんだよ。もう一度やってごらんなね」

おかねさんはもう怒っていなくて、俺に優しく火の点け方を教えてくれた。


火口(ほくち)」はガサガサとした黒い塊で、俺はそれに火花を移し、そしておかねさんの教える通りにその小さな火に息を吹きかけてから、「付木(つけぎ)」という小さな木片にその火を移してさらに大きくした。


「そうそう。できたじゃないかさ。それを竈に入れるんだよ。…あっと、いけない。薪を入れてないじゃないか!」

「す、すみません!」


慌てておかねさんが薪を持ってきて、それをへっついの中にくべて、俺はそこに付木を入れて火が起きた。

「さあ、これで覚えたろ?明日からは一人でできるね?」

おかねさんはそう言って得意げに、愉快そうに笑っていた。

「はい。ありがとうございます」

「そうそう、窓を開けなけりゃ。煙たくってしかたないよまったく…」

「えっ?窓?」

俺が見渡しても窓なんか見当たらなかったけど、おかねさんはへっついの脇にあった紐を引っ張る。すると、紐がするすると引かれていくにつれて、上から朝日が差してきた。

顔を上げると、天窓があった。

「わあ…」

俺は感心して思わず声を漏らした。

そうか、こうして煙を逃がすのか。確かにこうしないと、家じゅうに煙が充満してしまう。

「よく考えられてるなあ…」

俺がぼーっと突っ立っていると、おかねさんは「お米が炊けるまでお茶でも飲もう」と、俺を火鉢のそばに誘った。






「それにしても、火の起こし方まで知らないなんて、お前さんどっかの御大尽(おだいじん)の家の生まれなんじゃないかい?」

「さあ…何せ、何もおぼえてなくて…」

俺はなるべくゆっくりと、悩んでいるふうにそう言った。ここで「未来から来た」なんて言っても、通じないだろうと思ったからだ。

おかねさんはそう言った俺をまた気の毒そうに見つめていたけど、しばらくして二度三度頷く。

「そうかい、そうかい…それじゃあ心細いだろうに…いいかい?安心おしよ?お前さんはちゃーんとあたしが面倒見るからさ」

俺はそれを聞いて、うつむいた格好だったところから顔を上げた。おかねさんは火鉢の横でちゃぶ台に向かって肘をつき、不安そうな顔で俺を見ている。

「はい、大丈夫です。ありがとうございます、おかねさん」

騙すような真似になるのが少しだけ心苦しかったけど、俺はおかねさんがもう一度元気を出して、お湯が沸いた鉄瓶を取ろうと火鉢に向かっている姿を見つめていて、満足だった。






つづく
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