第二十三話 彼女の真実

文字数 2,618文字





”いよいよ今度は栄さんのお稽古の番だ”という頃合いだった。いつもなら、前に稽古をしているお弟子さんの後ろで栄さんは一服吸っているところだったのに、彼はまだ来ていない。

「遅いねえ栄さん」

「はい…」

俺は、正直に言えばこう思っていた。

“どうか栄さんが気持ちを打ち明けることに恐れをなして、もう金輪際ここに来ませんように”

もちろん、栄さんがそんな内気なはずはない。それじゃあまるで、恋の病に罹った深窓(しんそう)の令嬢だろう。

そう考えていると早速表の戸が叩かれて、こんな声が聴こえてきた。

「おかねさんや、いるかい」

それはよく俺が店賃(たなちん)を持っていく、大家さんの声に間違いはなかった。だから俺たち二人は動揺したのだ。

「はい!今開けます!」

“大家さんが向こうからやって来るなんてよっぽどのことだ。自分たちは何かしてしまったのか”。そう考えても無理はないだろう。

でもおかねさんが戸を開けると、確かに大家さんは居たけど、その後ろに栄さんも居た。

「今はこの栄吉さんのお稽古の時間だというじゃないか。上がってもかまわないかな?」

「え、ええ…」

おかねさんは戸惑いながらも俺にお茶の支度を言いつけ、訪ねてきた二人を不思議そうに振り返っていた。

でも俺にはわかったのだ。栄さんが、“外堀(そとぼり)から埋めようとしている”のが。






俺は三人分のお茶をちゃぶ台に出して、自分の分は煎れずに、じっと栄さんを見張っていた。栄さんは大家さんの隣で、一歩後ろに座っている。すると大家さんが、「お茶をありがとう」と言って用件を話し出した。


「あたしも驚いたんだがね、おかねさん、お前さんの亭主になりたいから、話を通してくれと言って、この若者が聞かなかったんだよ」

“やっぱりそんなことか”。俺はそう心の内でため息を吐く。そして、おかねさんが簡単には断れない方法を選んだ栄さんを、大家さんの後ろから睨んだ。もちろん彼はこちらを向かない。

「ま、まあ…。でも、あたしが亭主を持つ気はないって、大家さんもご存じじゃありませんか」

「そう言ったんだがね。この人はお前さん以外に考えられないと思い詰めて、あたしの前で泣きながら頭を下げたんだよ。だから一応、あたしの方からも少し意見をさせてもらうがね…」

大家さんはそこでずずっとお茶を啜り、それからちょっと言いにくそうな顔をしてはいたけど、すぐにこう切り出した。

「もちろん、お前さんがかたいのは、みんな知っている。ここにいる秋兵衛さんとも、お前さんなら間違いの起きようがないことも。でもねおかねさん。外から見たらそんなことは初めはわからない。知らない人がここに初めてお稽古に来て、どうやら下男が一つ屋根の下に寝泊まりしているようだとわかれば、人聞きの悪い噂が立つことだってある。だからここは一つ、本物の亭主を持ってみてもいいんじゃあないかい。そうすればお前さんだって、あたしに泣いて頼んでくるような人と一緒になれるし…」

大家さんは、(しま)いまで「意見」を言うことはできなかった。おかねさんはその時、決然と自分の気持ちを言って、話を終わらせてしまったのだ。

「それなら言います。あたしにはもう亭主があるんです。大家さんもご存じの、昔言い交わしたひとです。今はあの世とこの世に別れてはいますが、末には逢えるんですから、心配いりません。世間様から何か言われても、そう言えば済む話です。それに、秋兵衛さんとどうこうなんて、考えられもしません」

大家さんは慌てておかねさんを慰めようとしたが、おかねさんは聞かなかった。

「今は…一人にしておいてください」

「そうかい…すまなかった。じゃあもう私たちは帰るよ。栄さん、今日は帰ろう」

大家さんは謝って、二人はそのまま帰って行った。栄さんはぼーっとあっけにとられたような風でふらふらと出て行き、大家さんは戸を閉める前にもう一度、「すまないね」と言った。

「いいえ」

おかねさんは大家さんをじっと睨んでいたけど、ぴたりと扉が閉まると、ちゃぶ台に顔を伏せて泣き出した。







「うっ…うう…」

「おかねさん…」

彼女は今、面倒な客を追い払うためだけに一番深い傷をえぐられ、悲しみに震えている。俺だってもちろん悲しい気持ちはあったけど、そんなの、おかねさんの心に比べればなんでもないようなものだ。

俺は彼女の肩に触れることもできず、じっとそばについていた。

ずっと泣き続けていたおかねさんだったけど、ふと彼女は伏せた腕から目だけを覗かせ、俺を見る。それは、悔しい思いをしたあとだからなのか、厳しくとがめるような目だった。

そして体を持ち上げ前を睨むと、おかねさんはふうっと鼻息を吹く。

「馬鹿にしてるじゃないかさ…」

「え?」

馬鹿にしてる?どうしてだ?大家さんが?

「あたしがお前さんと「間違いを起こす」なんて言ってちょっと脅せば、慌てて自分の意見を聞くんじゃないかと思ったんだよ…」

“あれは親切で言ったことじゃなかったのか”

俺はそこで初めて意味がわかり、初めて恨めしさが湧いてきた。おかねさんは俺を見て、泣きながらわめき散らす。

「あたしがそんなにふしだらに見えるって、平気で言ったようなもんさね!ふざけるんじゃないよ!ああもう!こんなところ、今すぐにでも出てってやりたいね!」

「お、落ち着いてくださいおかねさん…!」

「じゃあ聞くけどね!お前さんだってそんなことを言われて、悔しくないのかい!あたしとお前さんは(うたぐ)られてるんだよ!」

俺はその時、長屋の住人からそんな目で見られているのかもしれないと思うと、悔しい気持ちもほんの少しはあったけど、やっぱりこう思った。


“どうかそれが真実ならば…”


そう思って俺は下を向いて、「いいや、やめておこう」と心で首を振るまでに、時間が掛かった。

「なんとかお言いよ、どうしたんだいお前さん」

「い、いえ…確かに、悔しいと思いまして…」

「そうだろう?まったく、大家だからってこっちを甘く見てるのさ。おまけにあんな半端者をあたしの亭主にだなんて、冗談じゃないっていうのに!」



そのあともおかねさんはぷりぷり怒り続けていてちょっと大変だったけど、俺はなんとか彼女の気持ちを鎮めるためにお茶を煎れたり話をしたりした。



二升の切手をあげて大家さんに口利きをしてもらっても栄さんには無理だったのはよかったけど、俺はその代わり、「彼女は死ぬまで恋人と離れはしない」という事実を知り、大きなショックを受けた。

俺は眠る前、おかねさんの深い寝息を確かめてから、ちょっとだけ泣いた。






つづく
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