第五話 鰹は刺身で

文字数 3,402文字



三味線の教室の稽古が終わっておかねさんは「食事に出よう」と言ったけど、俺はそろそろ話を切り出す口実が欲しかった。つまり、俺の今後について。

今後も何も、俺は未来から来たんだから居場所なんてこの時代にあるはずもなく、昔ちょっと聞きかじった「人別(にんべつ)帳」にも、名前はない。

そんな者を置いてくれる場所がないかどうか、おかねさんからそれとなく聞き出して、お礼を言ってからおかねさんのところを去ろうと俺は思っていた。当然そうなるだろうと思っていたんだ。


「さて、じゃあ出かけようか」

「あ、あの、おかねさん…」

「なんだい」

おかねさんは綺麗な羽織を出してきて、それを着てから俺を振り向く。俺はその時、初めて彼女の顔をまともに見たかもしれない。

おかねさんは、ちょっと見は、俺よりも少し歳が上のようだった。でも、美人だった。

目は少し吊り上がり気味だったけどそれがなんとも言えず涼やかで、それから色の抜けるように白い肌をして、わずかに頬だけに赤みが差していた。そして少し高い鼻と、ちょっと突き出た小さな唇が、さっきまでの彼女の気の強さを思い出させるような、そんな顔だった。

いわゆる美人ではないながらも、美しい人で、とても印象的だった。

そんな美人に連れられていながらなぜそこに気づかなかったかと、後々になっても不思議で仕方なかったが、おそらく俺がこの時まで、驚きと興奮、そして混乱の真っ只中に居たからだろう。

「どうしたい。それとも、出かけたくないのかい?」

「あ、いえ、そうではなくて…」

俺は、急に目の前に居る美人に対して、まともに口が利けなくなってしまった。しかし、これは黙っていていい話題ではない。

「あ、あの…僕、行くところがないので…どこかいい場所を知っていたらと思いまして…」

そう言って、なんとか彼女の目を見つめようとしたが、やっぱり怖くなって途中でうつむいてしまった。


自分の身の振り方を人様に相談していると言うのに、俺は何を考えているんだ!しっかりしろ!


するとちょっとしてから、小さく息を吐く音がした。

「なんだいそんなことかい。じゃあうちに居な。あたしも働き手が欲しかったところさね」

俺はびっくりして顔を上げた。

「えっ!そんな…そんなことをしてもらっては…」

どう考えても彼女に迷惑が掛かってしまう!と俺はそう思って、慌ててこう説明した。

「あ、あの、僕なんか置いても、迷惑を掛けるだけですよ。とにかく、あの…」

「でも、行くところはないんだろ?」

「え、ええ、そうですが…」

「じゃあ決まりだ。こちらがいいと言うんだから、迷惑だってお互い様だよ。さ、行くよ」

おかねさんはあっさりと話を片付けて、小さな提灯を手に、表の戸をがらりと開けた。それがあんまりに自然で、早くに決まってしまったので、俺はあやうくお礼を言いそびれてしまうところだった。


「ありがとうございます!これから、よろしくお願いします!」







おかねさんと道々話したところによると、おかねさんは生まれた時から神田に住んでいたらしい。今よりもっと若い頃、花嫁修業のために始めた三味線がとても上手くできたので、十五歳で両親が亡くなってからは、一度師匠の家に住み込んで芸を学び、今ではお教室を構えて暮らしを立てているのだそうだ。

「それでねえ、あたしもお師匠稼業で忙しいもんだからさ、働き手が欲しかったんだよ。ちょうどよくお前さんが来てくれたもんでよかったくらいさ」

「は、はあ…で、僕は何をすればいいでしょうか?」

「そうねえ、まあ米が炊けて、水汲みと掃除洗濯ができれば、それでいいさね」

「えっ!それだけでいいんですか!?」

俺は驚いた。“そんなの、家で子供が手伝いをすることだってあるじゃないか。そんなことをするだけでいいんだろうか?”と、そう思ったのだ。

「ああ、いいよ。そうしたら小遣いくらいはやるから、それでせいぜい遊びな」

「あ、ありがとうございます。頑張ります!」

この時俺は、江戸時代の炊事や洗濯がどれだけ大変かをすっかり忘れていたのだが、それはあとの話にしよう。



俺たちは、おかねさんが手元にしまった小さな提灯の灯りで足元を照らして、なんとか歩いていた。

江戸時代には街灯なんてものはないから、そこらじゅうほとんど真っ暗で、ぽつぽつと下がっている表通りの大きな店の提灯くらいしか灯りがない。それは心細くなってくるくらいに暗いのに、どこか懐かしいような気がした。

こういうのを風情があるっていうのかな。まあ暗いから見えづらくて困るのは困るけど。

「さっきまであたしたちが歩いてた通りの裏は紺屋(こうや)町さ。ここは鍛冶(かじ)町で、先には鍋町。職人ばかりで昼はうるさいったらないけど、この先にいい料理屋があるんだ。ちょっとしたもんだよ。お前さんは行き倒れだったんだから、たらふく食べないとね」

「す、すみません…ありがとうございます」

「はいはい。さ、着いたよ。ここいらは須田町だ」


俺たちが着いたのは小さめの屋台が並ぶ通りで、赤々とした大きな提灯が夜の中に浮かんで、それぞれの店ののれんの隙間から灯りがわずかに漏れている様子は、どこか幻想的にも思えてくるような侘しい美しさがあった。


「ここはあたしの気に入りの料理を出す店でね、よく来るんだ」

そう言っておかねさんは屋台の前を素通りして、表通りに面したお店に入って行った。行灯には、「元徳」とだけ書かれていた。




のれんをくぐるとすぐに俺たちは、温泉旅館の中居さんのような恰好をした女の人に迎えられた。その人はおかねさんを見てにこにこと笑い、頭を下げて「いらっしゃいまし」と言った。

「よくおいで下さいましたお師匠。今晩はいい(かつお)がございますから、よろしい時でしたよ」

「そうかい、そりゃいいね」

「ではこちらへ…」





案内されたのは、なんと(ふすま)が閉まる、座敷の個室だった。


ぜ、贅沢だ…。これ、もしかしなくても“料亭”ってやつだろ…?三味線の師匠って、そんなに儲かるのかな?


俺は料亭なんて初めて来るし、ましてや今は江戸時代なわけだし、これ以上緊張しようがないくらい緊張していた。

「じゃあまず、熱燗(あつかん)を二本付けておくれ。それから鰹は刺身と、あとは鍋と握り飯をお願いできるかい?」

「はい、かしこまりました」

おかねさんは、“そんな大雑把な言い方でいいのだろうか”と思うくらいに曖昧な注文をして、それを承ると、女の人はすーっと襖を閉めて居なくなってしまった。



しばらくして運ばれてきたのは、温めた日本酒と、それから鰹の刺身、そしてすでにぐつぐつと煮え立った寄せ鍋のような器、あとは大きなおにぎりが二つだった。

さっきも来た女の人は、俺たちのそばにあった火鉢に火の点いた炭を足して、その上に鍋を乗せてから、「ごゆっくりと」と言い、また居なくなった。

「ああ、いいねえ。こりゃいい鰹だよ。さ、食べよう。お前さんも遠慮しないでどんどん食べな」

「す、すみません、では…」

江戸っ子はやっぱり鰹が大好きなんだなあ。俺はそう思って、自分も食べなれた鰹から箸をつけた。

それは確かに、とても美味しかった。刺身のあとは鍋を食べたけど、味は薄味なのに出汁がよく効いて、これもとても美味しかった。具材は白身の魚と、大根、それからがんもどきと豆腐だった。

具材は少ないけど温かくて、いい味で、火鉢で温まった鍋なんてものを食べていると、なんだか格別の贅沢をしているような気がした。

「お前さん、酒が冷めちまうよ。早くおやりな」

どうでもいいけど、さっきからおかねさんはどんどん日本酒を飲んでいる。俺が食べるのに夢中になっている間に、追加の注文も三回して、それを全部飲んでしまったのだ。

江戸っ子はやっぱり大酒飲みが多いんだろうか。

「えっと…僕はあんまり飲めなくて…おかねさん、よろしかったら、飲んで下さい」

正直に言うと、俺は相当の下戸(げこ)だ。少し飲んだだけでも真っ赤になってへろへろに酔っぱらってしまう。美人の前でみっともない真似は避けたい。

しかし、おかねさんは「そうかい、じゃあ有難く頂くよ」なんて言わなかった。

「なんだい、つまらないことお言いでないよ。一人だけ飲むなんて馬鹿な話はないさね。ほら、あたしが酌をしてやるから」

そう言っておかねさんは袖を片手で押さえて俺に向かって徳利を差し出す。

「い、いえ、ほんとに飲めなくて…」

「そんな愛想のないこと言ってないで、男なら一合くらいきゅーっとやんな!」

「わ、わかりました…じゃあ一杯だけ…」







つづく
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