第二十七話 傷痕

文字数 3,038文字





おかねさんの顔には、幸いにも痘痕の痕は残らなかった。でも、耳の後ろと、それから額の横のこめかみに、少しだけ残ってしまった。

「命をもうけたんだ。仕方ないさね」

そう言って淋しそうに笑う彼女に、俺は何も言えなかった。







それから、元通りの毎日が少しだけ帰ってきた。でもそれもすぐに消えてしまったのだ。

おかねさんは病が治ってから数日は、のびのびと色々な物を食べたし、お稽古も元のようにしていた。

でも、その後彼女は、だんだんと塞いでいるように見えることが増えて、黙って煙草を吸っていることが多かった。

俺は、“まだ具合が良くない日もあるのかもしれない”と思って、「どうしました」と声を掛けたこともあった。でもおかねさんは「なんでもないよ。煙草を吸ってるのさ」と言うばかりだったし、俺は日々の家事や買い物で忙しくて、あまりそばについていてあげられない時もあった。





そんな日々のある朝、おかねさんは起き上がって井戸端で洗面と歯磨きを済ませてくると、唐突にこう言った。

「今から出てくるよ。帰りは夕になるから、あとを頼んだよ」

「え、急じゃありませんか。確かに今日はお休みですが…朝ごはんも食べずに…。どちらへお出かけですか?」

俺が火を起こしたへっついのそばからは離れられずにそう聞くと、おかねさんは財布だけを懐にしまい、化粧もせずにそのまま戸口へ向かう。

「お前さんに話すことじゃないよ。必ず帰ってくるから、「よしかわ」の豆腐を買って待っておいで」

「よしかわ」は、おかねさんが気に入って二町先まで買いに行っている豆腐屋だ。俺は出かける事情がわからなくて不安だったけど、おかねさんがそうまで言うなら、本当に大したことじゃないのかもしれないと思った。

「ええ、わかりました。では、お気をつけて行ってください」

俺がうつむけていた顔を上げながらそう言った時、彼女はもう玄関口から居なくなっていた。






その晩、おかねさんは遅かった。そして、ずいぶんとお酒を飲んで帰ってきた。

「おかねさん!どうしたんですこんなに酔っぱらって!」

土間から上がる時に彼女は上がり(かまち)に足を突っかけてしまい、その場にどたーっと倒れてしまった。俺が慌てて駆け寄ると、彼女からは深酒をしたらしい匂いがしていたのだ。

俺は、顔をべたっと畳に引っ付けていたおかねさんの体を起こして、手を引いて肩にかつぐと、とにかく壁に彼女の背中をもたせて座らせ、急いで布団を敷いた。

「…布団はまだいいよ」

「何を言ってるんです!早く休まないといけませんよ!」

するとおかねさんは息を吐くだけのようにふっと笑い、座ったままで下を向いた。

「いいから。話をしよう…」

俺は、彼女がどこか自暴自棄になっているような気がして不安になって、下を向いたままの彼女が話し始めるのを、じっと待っていた。

こんなに飲んで遅くに帰るほどのことが、今日、あったのだろうか。何かあったのなら、俺はまず彼女を慰めないと。

そう思っていたのに、おかねさんがいつまで経ってもしゃべり始めなかったので、俺はおそるおそる下から覗き込んで様子を窺った。

彼女は、やっぱり眠ってしまっていた。それに、すごく疲れたように、眉間にしわを作ったまま。

俺は、理由はわからないけどすごく疲れて、それからここ数日何かに悩んでいたのだろうおかねさんを布団にそっと横たえさせ、少しため息を吐いた。

彼女のこめかみには、熱病の傷跡が残ってしまっている。


女性である彼女にとっては、顔に傷が残るなんて、やっぱり耐えられないものなのかもしれない。その辛い気持ちが、日々を過ごすことで収まってくれるといいけど…。


俺は、彼女のために取っておいた豆腐をとりあえず棚にしまい、自分は遅い晩ごはんを食べて、くうくうと寝息を立てる彼女の姿を確かめてから眠った。






翌朝、おかねさんはまたも急なことを言い出した。

「今日の稽古はあたしは休むから、お前さんはこの(ふみ)をお弟子の家まで届けておくれ。道は人に聞けばすぐにわかるから」

「えっ…!」

今まで、おかねさんが当日になってから、しかもなんの理由もなしに稽古を休むなんてことはなかった。だから俺は“やっぱり昨日何かあったんだ”と思い、彼女のそばに寄って詳しくいきさつを聞こうとした。

でもおかねさんは三通の手紙を俺の鼻先に突きつけると、「早くしとくれ!一番目のお弟子はあと一刻で来ちまうんだよ!」と急かした。仕方なく、俺は「わかりました!」と言って家を飛び出す。





最後に回った家はかなりの大店(おおだな)で、“そういえばここは綺麗な娘さんが来ていたな”と、俺は店先で人を待っていた。すると、なんと誰も居ない店の奥から、年始の挨拶をしに来てくれた時に会ったその家のおかみさんが出てきたのだ。

「はいはい、すみませんね、今、奉公人が出払っていまして。私で伺えれば、ご用件をお聞きして…あら!あなた、お師匠様のお宅の…」

「秋兵衛です。実は今日…お師匠は稽古をつけられないので、おことわりの文をお届けにあがりました」

おかみさんは、ちりめんの着物の衿を合わせ直しながら心配そうな顔をした。

「まあ…お師匠は、またご病気ですか?大丈夫なんですか?」

「そんなに悪くはないんですが、ふせっておりまして…お師匠の元に戻らなければいけませんし、申し訳ございませんが、これで失礼いたします」

「いいえ、「お大事にしてください」とお伝えしてくださいね、くれぐれも…」

「ありがとうございます、では」






俺は、道々考えていた。

“おかねさんは、俺に何かを隠している。何か、とてもとても大事なことを。家に帰ったら必ず聞き出そう”

でも、帰宅した俺がまさかあんなことを言われるとは、俺は全然考えていなかった。






「おかえり。ごはんはお前さん一人で食べておくれ。あたしはちょっと寝るからさ」

「おかねさん」

「なんだい」

おかねさんはその時、床をのべて布団に包まっていて、また俺に背を向けて、壁に向いて横になっていた。

「何か、私に話すことがあるんじゃないですか」

そう言うと、おかねさんの肩はぴたっと上下するのをやめ、ずいぶん経ってから彼女は長いため息を吐き出した。それから起き上がって、「煙草盆を」と言った。

俺は反対の壁に寄せてあったそれを取り、おかねさんの布団の横に据えた。






「お前さんは…善さん…つまりあたしの言い交わした相手に、よく似ているんだよ。もちろん、顔や背格好だけだけどね…」

おかねさんがしゃべっている間、俺は決して口をはさまなかった。彼女はもう煙草を吸い終わり、煙管は元の場所に戻っていた。

「今まで、いけないことだと知りながらもお前さんを手元に置いたのは…恋しい気持ちをまぎらすためだったのさ…許しておくれ。でもね…」

俺は彼女がだんだんと目に涙を溜めて語る様子を見守っていて、“彼女が俺を気にして話をやめることだけはないように”と、強く祈っていた。

そこで彼女は目頭を押さえて涙を流し、目の前に何かを放り投げるように、腕を投げ出した。

「今はもう…違うんだよ!あたしは…秋兵衛さん、お前さんがしゃにむにあたしにかじりついて看病してくれて、命が助かってから…この、残った痘痕をね…お前さんに嫌がられたらどうしようと思って、つらくてしょうがないんだよ…!」

彼女は引きちぎるような悲痛な叫びを上げた。俺はそれに体を貫かれたかのように胸が痛み、嬉しいのか悲しいのかもさっぱりわからなかった。


「だから今日、善さんの墓参りをして、謝ったのさ…あたしは、あたしはどうしたらいいんだい、秋兵衛さん…」








つづく
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