第十話 湯屋と男とやせがまん

文字数 2,877文字





俺とおかねさんは湯屋、今で言う銭湯に向かって歩いていたけど、すぐ着いた。

「近くにあるならいいですね。覚えておきます」

「なに言ってんだい。湯屋なんて一町に一軒はあるもんだよ。じゃあ行くよ」

おかねさんがそう言って、俺たちはのれんをくぐる。その時、俺はびっくりして叫びそうになってしまった。


もちろん銭湯だから番台(ばんだい)はある。でも、俺の居た時代には、番台の前を通り過ぎてのれんをくぐると、男女別の脱衣所があったはずだった。

でもそこは、番台の向こう側にある脱衣所と洗い場がまるっきり丸見えで、しかも脱衣所では、男女が入り乱れてみんな服を脱いでいた。

それに、男性も女性も全然恥ずかしがるふうでもなく、普通にさっさと服を脱いで洗い場に向かったり、さらにちょっとした喧嘩まで起きていたのだ。しかも、喧嘩をしているのは女性二人だ。


なんだこれ!混浴なんてレベルのものじゃないじゃないか!今からこの中で服を脱いで、お風呂に入れって言うのか!?


俺がパニックを起こしそうになりながらもなんとか番台の前に行くと、おかねさんは「はい十文。それからぬか袋を一つもらっていくから、あと六文だね」と、番台に座っているお姉さんにお金を渡していた。

俺はよっぽど帰りたかったけど、体を汚くしていてはおかねさんが嫌がるかもしれないし、仕方なく番台で同じように湯銭を払って「ぬか袋」というものをもらった。

ところで、この「ぬか袋」って何に使うんだ?



俺とおかねさんはもちろん同時に服を脱いだけど、俺は意地でも彼女の方は向かなかった。でも、男性はふんどしまでは脱がないみたいだし、女性も下半身は布を巻きつけている。俺はうつむいていることしかできなかった。

洗い場では、なぜか普通に着物を着て、裸の誰かの体をゴシゴシと洗ってあげている人が居た。あれも職業なのかな?なんか大変そうだ。


俺はとにかく緊張していたけど、途中であることに気づいた。湯舟が見当たらないのだ。

“もしかしてこの頃はまだ蒸し風呂なのかな?”と思っていたら、奥に向かってお客が入っていく、背の低い入口があるのを俺は見つけた。

綺麗な絵が描かれた壁があるなあと思っていたものの下を、全員がくぐって、薄暗い中へ入っていく。

もしかして、あの向こうに湯舟があるかも!

俺がそう思ってその中へ行ってみようと洗い場で立ち上がると、隣に居た男の人から声を掛けられた。

「おいおめえ、ぬか袋があるんなら洗ってから湯へ入れよ」

「え、あ、ありがとうございます。忘れてました」

「へっ、粗忽(そこつ)な野郎だ」

こ、怖い…。なんか見たところ職人さんみたいな感じのする若い男の人だけど、怒ってるみたいだし、目なんかぎらぎらしてて、怖い…!

とにかく俺はぬか袋が体を洗うものだと知ったので、まずはそれを体にこすりつけてみた。するとまた隣の男の人が怒り出す。

「ええい、じれってえ野郎だな!水で湿(しめ)すんだよ!あっちにかけ湯がある!それぇ汲んで来い!」

「は、はい!すみません!」

俺は怒鳴りつけられたので、逃げるようにかけ湯を汲むらしき場所へ、手桶を持って急いだ。

親切で教えてくれるのはありがたいんだけど、いちいち怒らないでください!

そして俺はぬか袋を水に浸して、くしゅくしゅと揉んでみた。すると中から白い粉が溶け出してくるようだったので、それを十分に体へこすりつけて、かけ湯のお湯で体を流した。

へえ…なんか、皮膚がつるつるになった気がする…心なしか、色も白くなったような?ぬか袋ってすごいなあ。

隣に居て、何やら毛抜きのようなもので頭の手入れをしていたらしい男の人にお礼を言い、俺は奥に続く低い入口をくぐった。


どうでもいいけど、髪を洗っている人が一人も居なかったな。まあ、こんなふうに結い上げられた髪をほどいて洗うのも、もう一度結うのも面倒だもんなあ…。




奥に続く入口を抜けると、中は薄暗くて、人が居てもどんな人なのか見分けるのも難しかった。それに、すごく蒸し暑い。蒸気に取り巻かれているようだ。でも、そこにはやっぱり背の低い浴槽があって、みんながお風呂に浸かっている。

うんうん。やっぱり日本人はゆったりお風呂に浸からなくちゃなあ。

俺が入った時には浴槽はいくぶんすいていたみたいだったので、小声で「すみません、失礼します」と声を掛け、お風呂に足を入れる。

「いっ!?」

思わず俺は叫んで、湯に入れた足を慌ててひっこめた。


なにこれ!すんごい熱い!ありえない温度だ!こんなのお風呂じゃない!罰ゲームだぞ!?


でも、俺意外の人はみんな黙ってお湯に浸かっていたし、俺が熱くて入れなかったことがわかったんだろう、お風呂の中で誰か女の人が笑っていた。

俺はそこで、ここぞという負けん気を出した。笑われっぱなしでたまるか!

もう一度おそるおそる入ったお湯はやっぱりとてつもなく熱くて、ゆうに四十五度は超えているんじゃないかと思った。でもなんとかそこへ体を沈めて座ってみると、幸い、お湯の深さは膝のあたりまでしかなかった。

しばらくがまんをしてみたけど、やっぱり途中でたまらなくなって、俺はへろへろになりながら、なんとか湯から上がって、すぐに脱衣所に戻ろうとした。すると、また後ろから誰かが叫ぶ。

「おい!おめえさんよ!」

振り返ると、さっきの男の人だった。でも、さっきもちょっと思ったけど、この人どこかで見たことがあるな。その人は俺に近寄ってきて、肩に手を置くとにかっと笑った。

「おめえ、師匠のところにいた行き倒れだろう。秋兵衛さんって言ったかい。ところで、上がるんなら上がり湯を掛けてけよ」

「え、は、はい。すみません…」

俺は、熱すぎる湯からやっと解放されたばかりで頭がくらくらしていて、「ああ、この人は「栄さん」だったか」と思っても、まともに話もできなかった。



俺も栄さんも上がり湯を浴びて、それから脱衣所に戻ると、服を着る。おかねさんはまだ居なかったけど、他にもたくさん女性は居るので、その人たちを見ないようにするので俺は精一杯だった。

栄さんとちょっと目が合った時、栄さんは俺が女性たちを気にしているのをからかいたがるように、にやにやしていたように見えた。




「ああ~いいお湯だった。すっかり温まったよ」

俺が湯屋の表で待っていて、そろそろおなかがすいてきたなと思っていると、おかねさんがやっと湯屋ののれんから出てきた。そして俺を見ると、彼女は急に笑い出す。

「ど、どうしたんですか?」

「いやいや悪いね笑っちまって。でもさ、おっかしいねえ。あたしゃ思い出しちまったよ。お湯に足を入れた時のお前さんの声ったらさあ」

「えっ…!」

じゃああの時笑っていた女の人は、おかねさんだったのか!

俺は恥ずかしいから顔が熱くて、それからちょっと複雑な気分になった。


俺はすごく気にしていたのに、彼女にとって俺は、同じ風呂に入ろうが何をしようが、どうでもいいんだろうな、と思って。


「何も笑わなくてもいいじゃないですか…」

「いやあ、すまない、悪かったね。ま、でも江戸の男なら、「ちょっとぬるいんじゃねえのかい」くらいは言えるようになっておくれよ」



江戸の男は、大変だ。





つづく
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