第三十九話 初午

文字数 2,331文字





俺達家族は、秋夫が指南所に通い始めて一年経った初午(はつうま)の日に、王子稲荷を詣でた。

江戸に多い物として、「伊勢屋、稲荷に犬の糞」という言い方がある。江戸っ子が喧嘩腰にこれを語っていると、なんだかスカッとする。

もちろん、江戸は野良犬が多く、それで通りにはいつも犬のフンが落ちているし、「伊勢屋」さんはどれがどれやら分からないほどある。そして、「王子の稲荷」と言えば、初午の日は大賑わいだ。

江戸では、子供が寺子屋、つまり指南所に通い始めるのは初午の日で、その日に稲荷神社に子供の学業について願う人々が多い。俺達も先年に王子の稲荷神社に来た。今年はお礼参り(かたがた)、縁日など、物見(ものみ)に行くという事だ。


「やあ着いた着いた。それにしても、本当に道に迷わず済んだなぁ」

俺がそう言うと、秋夫の手を引いていたおかねは笑う。辺りはすごい人込みで、みんな同じ方向へ向かって歩いている。もしくは、同じ方向から引き返してくる。

「何言ってるのさお前さん。今日この日にここらを歩いてるんだ。みんなここへ行こうってもんだよ」

“王子の狐”という落語が現代まで残っているが、本当に江戸時代は稲荷神社が大流行だったんだなぁ、と、俺は思った。

「秋夫、疲れてないか?」

まだ七つの秋夫に声を掛けると、思った通りに疲れていたのか、「別に」と言って、ぷいと顔を背けた。

「そうかそうか、じゃあほれ」

俺は秋夫の前で後ろを向いて前屈みになり、両手を後ろに回して、ちょっと振った。

「いやだい!もう子供じゃねえ!」

負けず嫌いな秋夫は嫌がっていたけど、いつまでも俺がやめないので、俺の背中に突き当たるように、やけっぱちに俺の背に乗った。

「この方が楽だろ。肩車の方がよかったかい?」

「これでいい。あとで凧を買う時に下ろしてくれな」

「なんだこいつ。もう凧を買った気になってやがる」

俺は、子供らしい拗ね方で凧をねだる秋夫を、ちょっと揺らす。

「アハハハ。凧くらい買ってやるよ。それからお前さん、絵馬も買わなくちゃね」

おかねは笑い、俺の背中に居る秋夫の頭を撫でた。そのまま俺達は王子稲荷の本殿さして歩いた。

王子稲荷は、それはもう大層な騒ぎっぷりで、みんな踊ったり歌ったりして、奉納神楽のきらびやかさに見惚れたり、派手に絵の描かれた灯篭(とうろう)飾りや行灯で目を楽しませたりした。神社の参道にはずらりと行灯が並び、様々な色に染められた(のぼり)が、風にはためいていた。

お参りとお賽銭をして、馬の絵が描かれた絵馬額を奉納し、俺達は願い事をする。

それから、秋夫によく稲荷の事を聞かせてから、俺達は帰り道に凧を買った。秋夫は、どうやって上げるのかずっと聞いてきたが、「ここじゃダメだ。帰ってから、土手に出て上げよう。人に絡まっちまうぞ」と俺は返した。



ところで、俺は書き物をするので、貸本屋で借りた本も、この時代の書物の勉強に読んでいた。

初午の日という事で思い出したので、家に帰ってから俺は、井原西鶴の「日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)」を紐解いていた。

もはや新刊として井原西鶴の著書を読めるだけで有難いのだが、書いてある事がまた有難い。

内容は大体こんなものだ。

“ある年の初午に、大阪の水間寺(みずまでら)という寺へ、二十三、四の逞しい男が訪ね、「金一貫文(いっかんもん)貸してほしい」と頼んだ”

水間寺という寺では、皆、自分の立身出世と金持ちになる事を願い、お金を借りて、翌年には倍にして返すのが風習だったらしい。ちなみに一貫文とは、およそ千文である。

お断りを入れさせて頂くけど、これは「初午」に関する事で、稲荷神社ではなく、観音様を祀っているお寺の話だ。

“男の要求があまりに多額だったので寺の主は驚いたが、とりあえずは貸し付けて、「きっとこのお金は戻ってくることはないから、これからは多額に貸し付けるのはやめよう」と、寺方では話し合いがされた”

ところが、結末は全く違ったものになった。

“水間寺に現れた男の正体は、現代の日本橋にあった、江戸の小網(こあみ)町で船問屋をしている者だった。彼は、お得意の漁師たちに「観音様からの有難い銭だ」と言ってその金を貸し付け、もちろん貸し付けられた人はきちんと倍返しをした”

“やがて、「観音様から銭をお借りして、幸運に恵まれた」と言った噂も聴こえるようになり、貸付先はどんどん増えた”

この辺で俺は、信心深いこの頃の人々を敬う気持ちになった。

“とうとう十三年目に、水間寺にお金を返しに行く時には、金一貫文は八千百九十二貫文にまで増え、船問屋は通し馬でそれを返済しに行った。その話は広く伝わり、男の営む小網町の「網屋(あみや)」は、大層繁盛して、関八州で有数の物持ちになれたそうである”

“しかしその繁盛も、そう長い事は続かず、いつか「網屋」の噂も絶えてしまった…。”

金持ちになりたいとはみんな考えるが、それは一生が潰えてしまえばおしまいだし、身に余るほどの物を望むばかりではいかがなものか、というメッセージが、物語の大きな盛り上がりと、呆気ない終わりで、そのまま伝わってくるような気がした。

俺がそんな事を考えていると、耳元で、低い声がした。

「とうちゃん」

俺が本から顔を上げると、秋夫が憮然と俺を睨みつけているのが見えたが、それをどうと思う暇もなく、秋夫は、俺の顔目がけて凧を押し付けた。

「な、なんだ秋夫!こら!押し付けないでくれよ!」

どうやら秋夫は、俺が本に熱中していて構ってくれなかったのが嫌だったらしく、しばらく俺の顔に、紙で出来た凧をぐいぐい押し付け続けた。

「わ、わかった、凧を上げに行こう!」

堪らなくなって俺がそう言うと、秋夫はこくっと頷き、「よし」と言った。

秋夫にもそんな可愛い時があり、その可愛さは、なんとも言えない形でずっと続いていた。いつになっても自分の子は自分の子。どこか可愛いものである。




つづく
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