第二十一話 面影

文字数 2,408文字




新年が明けて、みんな浮かれ騒いでいる。俺とおかねさんの初詣は、神田明神になった。

元旦早くの参道は物凄い人出で、大賑わいだった。「芋を洗う」とはまさにあのことで、はばかりへ行きたかろうが、もう帰りたがろうが、真ん中に近いところに居た俺たちが出ていくなんて、絶対に無理だっただろう。

押されて揉まれてようやくたどり着いた本堂で、俺たちはお賽銭を箱の中へ落としてちょっと手を合わせた。そしてまた帰りの参道で人込みに潰されそうになって、まだ昼にもならないというのに、もうへとへとだった。

「明神さまは毎年大流行りだねえ。とは言っても、元旦じゃどこも似たようなものだけどさ」

「そうですね」

俺はその日、初めてこう願った。

“ずっとここに居させてください”

それはもちろん、美しいあなたのそばに居たいから。あなただって、僕を下男としてなら有難がってくれる。それなら、ずっとこのままがいい。

ふと、“神様を伝ってなら、届くかもしれない”と俺は思った。だから俺は、敷居をまたぐ時を選び心の中で「元気で」と唱えて、初めて家族に別れを告げた。






お正月は、うちでご馳走を食べ、そして酒を飲み、おかねさんは唄を唄って三味を弾いた。そんなことは初めてだったけど、彼女が俺の前でくつろいで過ごしているんだなとわかり、“正月はいいなあ”と思った。俺はお酒は少ししか飲めないけど、おかねさんは酒屋で買ってきておいた一升瓶二本を、三が日が終わる前に空にしてしまった。

おかねさんが弾き語ってみせたのは、いつもお稽古の時に聴いている常磐津ではなくて、栄さんがたまに俺に聴かせる「都都逸(どどいつ)」などのようだった。

その中で一つだけ、“これはおかねさんの元の恋人との話では”と思う唄があった。それは、三が日最後の日の晩に唄ったものだった。


お前見たさに
遠眼鏡(とおめがね)掛け
会えたと思えば
案山子(かかし)の手


それは、「洒落がきいてるね」と言いたくなるような、陽気な文句ではなかった。それに、おかねさんもそれを唄った切り、「もうごはんの時間だよ」と三味線を置いて、へっついの火を見に行ってしまったのだ。

多分あれが、恋人と会えなかった頃のおかねさんの唄なのだろう。俺は、“今でも彼女は恋人が恋しいのだ”ということが気に掛かり、その日の午後、散歩に出掛けた。





歩いて体を動かしていれば、気持ちもどこかへ逃げていくだろうと思っていた。でも、一人きりで黙って歩いていたって、どこかへ迷い込んで行くだけなのだ。

俺は“帰ろうか”とも思ったけど、帰っておかねさんの顔を見ながら、それでも想いを伝えずにいられる自信がなくて、なかなか帰れなかった。



「少し散歩に出ます」と行った切り俺は暮れ()つまで戻らず、日の暮れ方にやっと長屋の木戸まで来た。

すると、木戸をくぐる前からおかねさんが家の前をうろうろしている姿が見えた。それはとても不安そうな様子だったので、悪いとは思いながら、彼女に心配をしてもらえたことが、俺は嬉しかった。

うつむいたままでおかねさんは表店近くの井戸まで歩き、今度は奥側へと引き返していく。俺はそんなおかねさんに追いつくと、後ろから声を掛けた。

「すみません、ただいま…」

“帰りました”と続けようとして、俺は何も言えなくなってしまった。振り向いたおかねさんは始め驚いたようだったけど、次の瞬間には、まるで俺に恋しているような顔をしたのだ。

彼女の目は大きく見開かれて涙が潤み、あまりの喜びに切なさまで感じているように眉はきゅっと寄っていて、彼女は俺を見て、ため息を漏らすように一瞬笑った。でもそれは、すぐに脇へよけられてしまう。

おかねさんは、その一瞬あとになぜかちょっと悲しそうな顔をしてから、ぷいと横を向く。そして俺に向き直ると、今度は怒った。

「こんな時間まで、どこほっつき歩いてたんだい!お前さんがいなきゃ誰が洗濯をするんだい!誰がお米を炊くのさ!早く仕事に掛かりな!」

「すみません!ごめんなさい!」


俺はその時、一瞬だけとはいえ、なぜおかねさんが俺を見てあんなに喜んだのかがわかってしまったような気がした。だから、その話をいつ彼女に切り出そうか、または黙っているべきなのか考えながら、お釜の下で薪をくべ、洗濯ものを盥の中で洗った。


いつも通り、俺は土間に近い畳にお膳を置き、おかねさんとは離れて晩ごはんを食べた。彼女の様子を窺うと、仏頂面で次々お米を口に運んで下を向いていたけど、彼女は一度も俺を見なかった。

夕食のあとでおかねさんは湯屋に行ったし、俺もついていった。そして家まで帰ってきて俺は後ろ手に扉を閉め、まだ迷いながらも、おかねさんに声を掛ける。

「おかねさん」

「なんだい」

おかねさんは煙草盆から煙管を取り上げ、刻みの葉を取り出して詰めようとしていたところだった。俺は急に唇の渇きが気になって、舌でいくらか湿す。そして、喉が震えそうになるほどの緊張を抱えながらも、彼女が振り返らないうちにこう言った。

「私はそんなに、“あの方”に似ているのですか」

その途端、おかねさんの頭から首筋、爪先に至るまでが、ぴたっと止まった。俺の背中には、ざばっと水を浴びせるような震えが走る。

俺は、胸を苛み始めた後悔の間で返事を待った。今におかねさんが怒鳴り散らして、煙管を俺にぶっつけるんじゃないかとまで思った。

そして、煙管を持ったまま宙に浮いていた腕をおかねさんがようやく動かすと、彼女は火鉢の前にかがみ込んで煙草に火をつけ、煙を向こう側へと吐く。

俺は、おかねさんの亡くした恋人に、似ているのだ。だから彼女はあの時、俺をその人と見間違えて大喜びしてしまい、そして、やっぱり俺だったことに失望させられたから、悲しんだような顔をしたのだろう。

「教えてください」

“俺は、亡くなった恋人の代わりにされているのですか”

しばらくおかねさんはぼんやりとうつむくように煙草を吸っていたけど、やがてこう言った。

「そうさ。あんまりそっくりだよ」







つづく
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