(公衆電話五)新宿駅地下道、四月

文字数 4,782文字

 ねえきこえてる受話器を通して、ねえこっちの音そうあなたの好きだった東京の音、今わたし新宿駅の公衆電話からかけているから、ええ相変わらずよ土曜日の夜だからすごい人波、でもわたしは仕事だから、これから駅の地下道を抜け表に出てイルミネーションの海を人波をかきわけネオン街をよこぎって、オフィスのあるビルにいくの。
 ええ元気よ、もうすっかり春らしくなって、新宿の街もあちらこちらで桜吹雪が舞っている、夢の丘公園の桜も今が満開だから、そっちもそろそろどうかしら桜の蕾が顔を出してる頃じゃないかと思って、それで電話してみたの。
 五年前の春四月の新宿、あの日も桜吹雪の舞う暖かな土曜日の夜だったね。
 探していた部屋は結局、中野坂上駅近くの女性専用マンションに決めた、初めてのひとり暮らしでしかも東京だからやっぱり怖くてね、でもここなら新宿駅から歩いても帰れる距離、ネオン街からだって新宿駅、ビル街、夢の丘公園を通って後は青梅街道沿いに歩けば帰り着ける、引っ越しはゴールデンウィークを予定して準備開始。
 わたしにとっては一大決心だったけど、不安より早くひとり暮らしを始めたいっていう気持ちの方が強くてね、あなたの影響かしら、きざな言い方をすれば東京のひとり暮らしの寂しさを体験したかったから、あなたが唄にした寂しさを知りたくて、あなたの寂しさが理解出来たらあなたの唄ももっと好きになれそうなそんな気がして、なんてね、でも引っ越しのこと上手く伝えられなくて、あなたにはまだ黙っていたね、御免なさい。
 おっちゃんは夢の丘公園に桜が舞う頃から段々と体調を崩していったね、わたしもあなたに付いておっちゃんの所何度か顔を出した。
「もう俺も年だからな」
 おっちゃんは豪快に笑ってみせたけど、年っていってもまだ六十、心配で仕方のないあなたの気持ちがわたしには手に取るように分かった、だってあなたにとっては父親以上の存在だったものね。
「小さい頃おふくろ、お前はわたしひとりで産んだの、だからお父さんはいないなんて下手な嘘吐いて。笑っちゃうだろ、あんた聖母マリアかよって」
 あなたが看病して、その間わたしは野良猫を撫でていたね、わたしだって何度も顔を合わせるうちおっちゃんのこと他人のように思えなくなっていたから、ふたりで一生懸命医者行った方がいいって説得したけど、おっちゃんは頑として聞いてくれなかったね。
「俺は医者と薬は大嫌い」
 なんて、確かにおっちゃんいい人だけど変わり者だなあって実感した、野良猫が心配そうにおっちゃんの隣りに寄り添っているのが不憫でならなかったね。
「おっちゃん食べ物が少ない時は、自分は食べずに野良猫にばかり食べさすんだ。だからほっとけない」
 ネオン街で弾き語りを終えたあなたはアパートに帰る前必ず毎日おっちゃんの所に寄ったそうね、でももう深夜でおっちゃんは寝息を立てているから、そっと食べ物を置いて寝顔だけ見て帰る、そんなおっちゃんとあなたとのやさしい日々が続いたね。
 あなたのアパートは夢の丘公園の近くだって教えてくれたけど、それ以上のことはお互いに触れなかったね。
「風呂もないしトイレも共同で、だからとても女の来る所じゃない」
 なんて、もしわたしがこっちに引っ越してきたらそんなふたりの関係にも少しは変化があるかしら、引っ越し準備をしながらついついそんなことも考えてしまう、不味いシクラメンの会員だってことすっかり忘れてるわたし。
 それからおっちゃんの「都会は海」っていう言葉がずっとわたし心の中に引っかかっていたの、あなたがネオン街で聴いたっていう海の音わたしも聴きたくて、一度でいいから聴いてみたくてね、だってあなたが東京を好きになれた、ネオン街で唄おうって決めたっていう海の音だから。
 あの夜のネオン街も、夜風が連れてくるのか桜が舞っていたね、やっと暖かくなってアカシアの雨の看板持ちのバイトも時計台の広場での弾き語りも楽になって、足を止め唄に耳を傾ける人も現れ、拍手を浴びたりアンコールされたり、冬の街角とは違う雰囲気であなたも楽しんでいたね。
「上手いね、にいちゃん。プロなの?」
「そんなんじゃないすよ」
「泣けるねあんた、絶対プロなんなよ」
「いえ無理無理、俺なんか」
 半分は酔っ払いの冷やかしだったけど熱心に言ってくれる人もいたから、わたしもついつい尋ねてみたね。
「プロになろうって、思ったことないの?」
 そしたらあなた照れ臭そうに、
「あるよ、今だってそうさ」
「そっか、御免」
 ポローンとギター爪弾きながらあなた、
「一度いい線行きかけたこと、あったんだけどな」
「へえ、凄い」
「デビューの一歩手前、だけどおじゃん」
「何で?」
「聞いて驚くなよ」
「もう驚かないよ」
 だってあなたのことはもう何も驚かない、ただ静かに受け入れるだけ、わたしそう決めたから。
「ある晩唄ってたら、ひとりのおっさんに声掛けられたんだ」
「おっさん?」
「スカウトってやつ」
「ほんと?」
「どっかの有名なレコード会社の重役って人」
「それで?」
「関係者の前でオーデション受けて、反応はいまいちだったけど、なぜかその人が強力にプッシュしてくれてさ。とんとん拍子に事が運んで、丸で夢見てるようだった」
「だけど、駄目だった?」
「ああ」
「何で、どうして?」
 ポロローン、ギターの音色も哀しくあなた苦笑い。
「そのおっさん凄くいい人でさ、何もかも面倒見てくれて、すっかり信じちまったんだ、俺ほんと馬鹿だから」
 ってまた裏切られたのねきっと、あなたが信じた人はみんなあなたを裏切って、夢の丘公園のおっちゃんを除いて。
「でもいい勉強になったから、今じゃいい笑い話だし」
 笑い話ってだからどんな?でも聞くのが怖かった。
「デビューが決まった途端、その人ころっと態度変わっちゃってさ」
「え」
「俺がデビューさせてやるんだから、俺の言う事聞けって」
「嫌、何それ」
「お、話ここまでにしとくか。これ以上聞いたら泣くかも」
「泣く?何で、泣かないよ、大丈夫」
 あなたの顔見つめながらわたし唇噛み締めて。だからあなた、
「じゃ」
 って話を続けたね。
「ネオン街のホテル連れて行かれて、いきなり裸になって抱き付かれた」
「ええ、嘘?」
 って言いながら、その時わたしもう目から涙がにじんでいたね。
「何で、ひどい」
「ったく、だから泣くんじゃないかって心配したのに」
「だって」
「気にしない気にしない、お嬢さんネオン街じゃ良くある話」
「良くなんか、ないよ」
 その時初めてあなた、わたしの頬に指あててくれたね、わたしの涙にあなたの指は冷たかった、冷たいのにでも不思議にやさしかったね。

「この夜の何処かで、今もきみが眠っているなら、この夜の何処かに、今きみはひとりぼっち寒そうに身を隠しているから、今宵も降り頻る銀河の雨の中を、宛てもなくさがしている、今もこの夜の都会の片隅、ネオンの雨にずぶ濡れに打たれながら、膝抱えさがしているのは」

 冬の寒さが恋しかった、ネオン街で初めてあなたの唄聴いた夜、がたがた震えながらあなたの横顔見ていた冬のネオン街の寒さが無性に恋しくて……。

「この夜の何処かに、今もきみが眠っているなら、この夜の何処かで、今きみが見ている夢見つけ出すため、この夜の無限の闇の中で唄っている、今はただ唄っているだけ、きみの夢に届くまで」

「それで、どうしたの?」
「冗談じゃねえって突き飛ばしたら、目の色変えていいのかデビュー出来なくなるぞって。ああ結構そこまでしてデビューなんぞしたかねえ、俺は唄いたいから唄ってんだ、寂しさを唄にしたいからそういう唄が唄いたいから、東京が大好きだから唄っているだけだからって。捨て台詞でホテル飛び出して、それで全部パー」
「あああ」
「しょうがないさ、そういや昔おふくろが言ってたこと思い出したよ。お前は男にもてるタイプだから、気を付けろって」
「何、それ?」
 笑いながらでもわたし思った、もしその時あなたがデビューしていたら今頃どうなっていたんだろうって、そしたらわたしたち出会うことさえなかったかもね。
「でもさすがにショックで、その夜は一晩中ネオン街をただ宛てもなく彷徨っていたよ。深刻そうな顔してさ何度も何度もおんなじ通りを行ったり来たりしていたから、俺のこと心配して声掛けてくれた人がいたんだ。大丈夫か、あんちゃん?変なこと、考えてんじゃねえだろな?って」
「誰?」
「それが風俗店の看板持ち」
「へえ」
「だからそん時初めて看板持たせてもらったんだ、俺にもやらしてって。看板持ってネオン街のまん中に立って、そしたら」
「そしたら?」
「また海の音が、聴こえてきたんだよ」
 海の音、都会は海……。
「あ、それでもしかしてアカシアの雨のバイト始めたの?」
 黙って頷いたあなた、そんなあなたの肩にあなたのギターにあの夜、桜が舞い落ちていたね。
 気付いたらもう終電近い時刻で、いつものように新宿駅まで送ってくれたね、でもあの時わたしあなたには内緒でひとりでしんみりしていたの、だってもしかしたらこれで最後になるかも知れないから、新宿駅まで送ってもらうのも新宿駅地下道の改札越しに手を振って見送ってくれるのも。
 何も知らず手を振るあなたの背中をもう深夜だというのに、まだたくさんの人が歩いていたね、うわあやっぱり凄いなあ新宿ってそう改めて思い直して、実はねその時ほんの一瞬だけわたしにも海の音が聴こえたの御免ね黙ってて、だけど本当に真夜中の新宿駅のざわめきの中ほんのちょっとだけ聴こえたから、だからわたしも信じられる、おっちゃんの「都会は海」の言葉、そんな気がした。
「じゃね」
「ああ、またな」
「今夜は有難う」
「何だよ、急に」
「何でもない」
「気になるな」
「ばいばい」
 あなたはいつものようにずっと手を振ってくれていたね、新宿駅の土曜日の深夜の都会という名の海の中で、だけどわたしには、あなたが海なんだよって言いたかった。
 ねえきこえてる、ねえこっちの音受話器を通して、あなたの好きだった新宿駅地下道のざわめき、わたしにも聴かせてくれた海の音、今もおんなじよ今夜も新宿の街は相変わらずの賑わいで、それに四月だから新入社員とか新入生だとか上京してきたばかりの人たちもいっぱいいそうよ。
 でも不思議よね、毎年毎年東京にはどんどん人がやって来るのに、それでも東京が人でいっぱいにならないのは、やっぱりその分誰かがこの街からいなくなっているからなのかしら、ねえ毎年毎年東京が人の夢でいっぱいになってふくらんでふくらんで、それでも風船みたいに破裂してしまわないのは、やっぱりその分誰かの夢がしおれたり、誰かが夢を諦めたりしているからなのかしらねえ。
 そんな諦めてしまった夢、しぼんだ夢の亡骸はねえ一体何処にゆくのだろう、何処へ帰ってゆくのかしら、夢が生まれた誰かの心の中か、それとも風になって持ち主の誰かと一緒に生まれ故郷へと帰っていって、今は田舎の大地の下で雪に埋もれながらゆっくりゆっくり眠っているのだろうか、再び生まれくる時を待って。
 ねえそんな夢の欠片が桜吹雪に舞いながら、この東京の灰色の大気中をただ宛てもなく流離っているから、花見宴に興じる人々のざわめきには上手く馴染めなくて、ネオン街の片隅で風俗店の看板持ってギター抱えて海の音聴いていた、そんなあなたの背中恋しがっているから、ついわたしは今夜もこうしてあなたに電話かけてしまいました。
 ねえきこえるでしょ、東京の桜の音が、東京の夢の音が、そしてほらあなたが聴いたネオン街の海の音、海の音が。

 ね、実はさっきからずっと公衆電話空くの待っている人がいるから、今夜はもうこれくらいで切るわね、愚痴なんか言わなかったかしら有難う、またかけ直すから、もしもし、じゃおやすみ、やっちゃん。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み