(公衆電話十二)夢の丘公園、十一月

文字数 6,972文字

 ねえきこえてる受話器を通して、ねえこっちの音そうあなたの好きだった東京の音、今わたし夢の丘公園前の公衆電話からかけているから、ええ相変わらずよ土曜日の夜だから、ネオン街はすごい人波、でもわたしは仕事だから、これからまた遠回りになるけどわざわざネオン街まで出て、やっぱり何だか物足りないからねえ、ネオン街の空気を肌で感じないと元気出ないから、そしていつものようにイルミネーションの海を人波をかきわけネオン街をよこぎって、オフィスのあるビルにいくから、ええ元気よ。
 もう秋の終わりが近付いてそろそろ空気も冷たくなってきたから、昨日の朝なんて歩道に霜が降りてね子供たちがきゃあきゃあと踏みつけて賑やかだった、早いものねついこの前まで暑い暑いってふうふう言ってたのに、いつのまにか季節は駆け抜けていって、東京新宿の街ももうすぐ冬。
 そんなふうに季節が足早に流れ去ってゆくように、人もまた確かに去ってゆくものだと丸で夢幻のように一瞬の風あるいはネオンライトの明滅のように去りゆくことを、わたしたちに教えてくれた夢の丘公園のおっちゃん。
 だから少しだけ足を止めて、あんまり急ぎ過ぎないように急いで年を取り過ぎないようにね、ゆっくりゆっくり歩いてゆこうと思ってちょっと一休みしたくて、それで御免なさい電話してみたの。
 五年前の秋十一月の新宿、あの日も昼間はまだ暖かい小春日和の陽気、そんな土曜日の夜だったね。
 シクラメンの方はもう福森のおばちゃんはいないからわたしもひとり立ち、困った時は美樹ちゃんに聞いたり相談に乗ってもらったりしながら何とかトラブル解決、余裕が出てくると一歩前進、お付き合いを始めた会員さんたちのことを気に掛け見守りながら一喜一憂の日々。
 男性会員は割と年配の人が多かったけど、女性会員の方はわたしと同年代の人が多くてね、何だか他人事のように思えなくてついつい親身に相談に乗っているうちに、人生相談になったり友だちのように仲良くなって一緒に食事したりなんてこともしてね、その分忙しくてプライベートの時間も減ったけど、そのうち彼女たちが素敵な人とめぐり会って結婚し幸せになってくれたらいいなあ、その時はどんなに嬉しいだろう、きっと自分のことみたいに喜べそう、誰かの幸福のお手伝いをしていると思ったら凄くやり甲斐を覚えてね、何だかこの仕事わたし向いてるみたいなんて思えてきたの。
 そんなことで土曜日の夜は、相変わらず仕事が終わってからそのままあなたのところに直行だったから、アカシアの雨の看板持ちは終わっててあなたはもう時計台の広場でポローンポローンと弾き語り、わたしはあんまり唄も唄わず、じっとあなたの横であなたの唄を聴いているばかりだったね。
 それに疲れているのか居眠りしてしまって、いつのまにかあなたの肩にもたれていたり、でもあなたは黙ってそのまま唄い続けギター弾いていてくれたから、わたしはその間ずっと眠りの中、夢の中であなたの唄聴いていた気がする、きっとだからあなたの唄う声、あなたの唄、あなたのギターの音色、みんなわたしの中にしみついてしまった、だから多分もうどんなことあっても忘れること出来ないくらい、どれだけ時が流れ去り、たとえどれだけあなたから離れてもね。
 そんな日々の中でわたしたち、そしてあの土曜日の夜を迎えたね、その夜わたしはいつもより早く仕事が終わり、ゆっくりとあなたのもとへ向かった、まだあなたがアカシアの雨の看板を持ってネオン街の通りに突っ立っている筈の時刻、ところがそこにいたのは健ちゃん。わたしを見るなり寄ってきて、
「大変、大変」
「どうしたの?」
「公園のおっさんが危篤だって」
「え?」
「だからやっちゃん、今日はずっと公園にいる」
「分かった、有難う」
 そのままわたしも夢の丘公園へ。
 夏の終わり頃からおっちゃんはずっと具合が悪くて、いつもダンボールハウスの中で寝込んでいたね、野良猫の名無しのにゃんちゃんも心配そうにおっちゃんの枕元に付きっ切り、あなたもわたしも支援団体の人たちもみんなで病院に行くよう説得したけど、おっちゃんは頑なに拒否。
「寝てりゃ治るし、もし治らなきゃ治らないで、それが俺の寿命ってやつだ」
 以前ならそう言い放った後豪快に笑ってみせたおっちゃんもさすがにもう力が出ないのか、弱々しく頷くだけだったね。
 落葉に埋もれたような夢の丘公園に着いておっちゃんのダンボールハウスに向かうと、横になったままのおっちゃんの枕元には支援団体の人たちとあなた。あなたはわたしを見るなり手招きしたね。
「よかった、ずっと待ってたんだ」
「えっ、なぜ?」
「ああ、おっちゃんが俺たちの唄聴きたいって、さっきからずっとそればっか言ってんだ」
「わたしたちの唄?」
 支援団体の人たちが気を利かせてくれて、おっちゃんの枕元にはあなたとわたしのふたりだけ、早速ギター弾き出すあなたと一緒に『ネオン街をよこぎって』を唄うわたし、わたしの声緊張で震えていたけどおっちゃんが少しでも良くなるようにと祈りながら夢中で、おっちゃんはじっとわたしたちを見ていてくれたからわたし泣きたいのこらえながら唄い続けたね。
 唄が終わって、おっちゃんは弱々しく拍手してくれた。
「あゝいい唄だ、本当泣けてくるね」
 かすれたその声も弱々しかった、わたしあなたの隣りに座ったままあなたと一緒におっちゃんを見守っていた。
「これでもう何も、思い残すこたねえな」
「なに、言うんだよ」
「そうよ、おっちゃん」
 おっちゃんの言葉は続いたね。
「だからさ、みんな死ぬっていうと直ぐに怖がるけど、死は大地みたいなものなんだ。そいで俺は一本の草でさ。だから死んだらそれですべてが終わりじゃなくて、俺はこの星の中に帰ってゆくんだよ」
「うん」
 静かに頷くあなた。
「そいで大地の中でぐっすりと眠ってな、いろんな夢見て過ごすんだ」
「死んだ後にかい?」
「そうさ。その夢はな、空気や水分や微生物や木や花や草やそれから夜空に瞬く星の栄養になるんだ」
「栄養?」
「あゝ、そしていつかまた時が訪れたら、ある日俺は目を覚ます」
「目を覚ます?」
「そう。そして俺はまた、夢を追いかけるのさ」
「夢を?」
「ああ。どんな夢かはちゃんと、空気や水や微生物や木や花や草や星が教えてくれるから、なんにも心配いらない」
「あゝ、なるほどねえ」
「だからいいか?死ぬったって、何も怖いことなんかないんだ。そんなことを言い出したのは坊主と医者さ」
「坊主と医者か」
「でなきゃやつら、商売上がったりだろ?」
「あゝ、まあ、そうかもね」
「だけどそんなことは俺たちには何の関係もねえ。俺たちは死んだ後も、のんびりと大地の中で夢を見ていればいいのさ」
「ああ」
「そうだ、坊主で思い出したから最後にいいこと教えるから、覚えておけ」
「最後って言うなよ、おっちゃん」
「まあそう怒るな。やつらが言った言葉で、生者必滅、会者定離っていう言葉があるけど知ってるか?」
「あ、ああ聞いたことはあるよ」
「本当か?まあ、いい。確かにそれも真理かもしれんがな、実はなその逆もまた真なりなのさ」
「逆も?」
「ああ、いいか。逆ってことはつまり、滅者必生、離者定会ってことさ」
「滅者必生、離者定会?」
「ま、意味は後で考えろ」
 話し終わると、ほっとため息を吐いたおっちゃん。
「良し、ふたりへの話はこれで終わりだ。やすお、ちょっと何処か、行っててくれ」
「何でだよ?」
「この人と、ふたりだけで話があるんだよ」
「あっ、そうか?じゃ、わかったよ」
 ギター持って渋々あなたがいなくなって、わたしはおっちゃんとふたりだけになった。といっても野良猫がおっちゃんのそばにいたけど。
「なあ、あんた、あいつとは上手くいってるのかい?」
 いきなり尋ねられ、
「え?」
 顔をまっ赤にしながら無言のわたし。だけどおっちゃんは真剣に、
「俺は、あいつのことだけが気掛かりなんだよ」
 だからわたしも正直に、
「良く分からないんです」
「そうだろうな、あいつ不器用だから。でもね、あいつ強がってるけど、本当は寂しがりやなんだ。だから俺としちゃ、あんたに宜しく頼みたいんだよ、あいつのこと」
「でもやっちゃん、わたしのことどう思ってるか、分からなくて」
 不安げに打ち明けるわたしに、おっちゃんは、
「大丈夫。だってあいつ俺んとこ来るといつも、あんたのことばっかり嬉しそうに話してるんだから」
 え、ほんと?ちっとも知らなかった。その時わたし心の中で、
「やっちゃん」
 って何度も呟いていた。
「あいつはね自分が人と違う生い立ちだから、それを気にしているんだよ。だからさ、何て言うのかな上手く言えないけど、自分と一緒にいるとあんたまで不幸にしちまうんじゃないかって、考えちまうんだな」
「わたしまで不幸に?」
「あゝ、そういうやつなんだよ、あいつは。だから分かってあげてよ、愛さん」
 愛さん。おっちゃんはわたしの手を握り締め、だからわたしも握り返して真剣に、
「はい」
 と答えた。するとおっちゃんは嬉しそうに、
「良かった良かった、有難う」
 安心したようにわたしから手を離すと、おっちゃんはそのまま目を瞑った。
「にゃあおう」
 びっくりした野良猫の大きな鳴き声で、直ぐに戻ってきたあなた。
「おっちゃん、しっかりしろよ、おっちゃん……」
 けれどおっちゃんは目を瞑ったまま、もう返事はなかったね。
 支援団体の人たちと共におっちゃんを見守りながら一晩を過ごし、そして夜明け前おっちゃんは静かに息を引き取った、とても穏やかな大往生だったね、その時あなたとふたりで見上げたまだ空に残る星々がきれいだった、ふっと一陣の風が、わたしの頬を濡らす涙を撫でるように吹き過ぎていったから、それがとてもやさしかったから、きっとおっちゃんは風になってこの星の中に帰っていったのだと、わたしは素直にそう思えた。
 夢の丘公園のおっちゃんのダンボールハウスは直ぐに片付けられ、『キリギリスとアリ』の本はわたしが預かった、野良猫の名無しのにゃんちゃんも本当はわたしが引き取って世話すれば良かったのだけれどマンションはペット不可で諦めるしかなく、健ちゃんがアカシアの雨で飼えばいいって言ってくれたけど、野良猫自身が夢の丘公園から離れたがらないから結局公園の住人たちが世話することで落ち着いたね。
「ちっとも死んだ気がしないよ。おっちゃん今もネオン街の何処かをうろちょろしてて、ちゃんと俺たちの唄聴いていてくれる、そんな気がするんだ」
「そうだね、わたしも何だかおっちゃん、ふらっとまたある日風みたいに、何処からかこの街に舞い戻ってくる気がするの」
 しばらくはおっちゃんが死んだことをなかなか実感出来ないわたしたちだったね、特にあなたはそう、あなたにとってはお父さんみたいな存在だったから。
 六十年の人生を風のように駆け抜け、大往生を遂げ大地へと帰っていったおっちゃん、今頃ぐっすりと眠りながら次に目を覚ました時に追いかける夢を見ているのかしら、そしてその夢は東京の空気や水分や微生物や木や花や草や夜空に瞬く星の栄養となって、今この東京の街を動かしているのかしら、東京で生きるわたしたちのことも見守っていてくれたらいいのに、夢は風に姿を変え今ものん気にぶらぶらとネオン街を行ったり来たりしていたらいいのに。
 おっちゃんの死に接したあなたは、急に自分の死について考えるようになったね。いきなりわたしに、
「はい、これ」
 って一枚のメモ用紙手渡して。そこには走り書きで、住所と電話番号と女の人の氏名が記されてあったね。
「何、これ?」
 きょとんとした顔で尋ねるわたしに、
「ああ、それ、田舎のおふくろの連絡先」
「え、どうして急に?」
「うん、だからさ」
 頭かきながらあなた。
「俺にもしものことあった時」
 珍しく神妙な顔つきで、
「迷惑でなかったら、ちょっと連絡してもらえると有難いかなって、ちょっと遠距離で電話代かかるけど」
 わたしびっくりして、
「いいけど、そんなこと全然迷惑でも何でもないし」
 だってあなたとわたしの仲じゃないって言いたかったけど、そこまでは口に出来なかった。
「でも」
 続けて尋ねようとして躊躇うわたし。
「でも、何?」
 促すあなたに、
「うん、だから、もしものことって何?」
 思い切って聞いたね。そしたらあなた、
「いや、なんかあるってわけじゃないけど。人なんていつ死ぬか分からないだろ、おっちゃんみたいに。だからさ」
 ってなんか誤魔化すみたいな答え方だったから、わたし気になってね。
 その時わたしなぜかぴんときて、女の直感かな、あ、もしかしてって思い出したのはあの少女。八月時計台の広場で弾き語りしていたわたしたちの前に突然現れ、
「たすけて」
 って一言言い残し暴力団ふうの男たちに連れ去られたあの子。あの後あなたは警察に話をするって言ってたけど、その後どうなったのかしら?警察はちゃんと動いてくれたのかな?
 気になったわたしは、あなたに思い切って確かめたね。
「ねえ、あの子のこと覚えてる?」
「あの子?」
「ほら八月に会った裸足の」
 そしたら、さあっとあなたの顔色が変わって、
「えっ」
「警察に話したんでしょ、動いてくれたのかな?」
「いや、警察なんてあてにならないから」
「でも、じゃあの子今頃どうしてるの?」
「分からない、でも助けたいなあ、何とかして」
 あなたは唇を噛み締めながら、悲しそうに言ったね。
 でもわたしはあなたのことが心配で、ついこう言ったよね。
「わたしたちの力じゃ無理よ、だって相手が悪過ぎるでしょ?ね、警察に頼んで任せた方がいいよ、絶対」
 そしたらあなた、
「ああ、そんなことは分かってる。でも俺、東京出てきた時おっちゃんに物凄く世話になったろ、だから俺も可哀そうな子見るとつい助けて上げたくなっちゃうんだ、おっちゃんに恩返しがしたいんだよ」
 そんなふうに言われたら何も言い返せなくてわたし。あなたの顔じっと見つめながら、
「危ないことだけは、しないでね」
 って懇願するのが精一杯だった。そしたらあなたもじっとわたしの顔を見つめ返しながら、黙って頷いたね。
 そんなまだおっちゃんの死を引きずったわたしたちの前を季節は足早に駆けてゆき、いつのまにか冬の足音が近付いていたね。
 ねえきこえてる、ねえこっちの音受話器を通して、あなたの好きだった夢の丘公園の音、枯葉、落葉に風の音、晩秋の音、そろそろ聴こえてきそうな冬の足音、ひとりまたひとり季節と共に人もまた去ってゆくから、ネオン街の人の波、人の流れにしてもいつ絶えるとも知れず続いているけれど、流れの中のひとりひとりのその顔だって確かに少しずつ移り変わっているのだから。
 早いもので、ねえ、あれからもうすぐ五年が経って、月が変わったらもう六年目になるのね、わたしたちが出会ってからもうそんなに時が経ってしまったなんて。
 え、おっちゃんの猫どうしてるって元気かって、それが実はね最近急に見かけなくなって、公園の人たちもあれこの前までいたんだけどなあって、どうやら冬が来る前に何処かへ行ってしまったみたい、おっちゃんが死んだ後もずっとみんなから可愛がられて元気でいたのに、やっぱりおっちゃんが言ったように、猫は直ぐ何処か遠くへいなくなってしまうものなのね。
 だけど人間だって同じじゃない、いきなり何処か遠くへふらっと行ってしまうんだからみんな、だから人間も同じよねって、そんなことをあなたに思い切り愚痴りたくなってね、それでつい今夜もわたしあなたに電話してしまったの、御免なさい。
 お月様がとってもきれいよ、夜空もそろそろ冬の星座になってゆくから、ねえ、この公園もあなたとの思い出がいっぱい、おっちゃんの思い出が、うん、おっちゃんのあの本まだ持ってるよ、何年でもわたしずっと大事に持ってるから、目印、そう目印に、だっておっちゃん言ったじゃない、死んで大地に眠ったおっちゃんは、またいつか目を覚まし夢を追いかけるんだって、滅者必生、離者定会だって。
 だからまたいつふらっとおっちゃんがわたしたちの目の前に、このネオン街に現れるか分からないじゃない、だからその時の目印としてわたしの本棚にちゃんと取っておくからねえ、それにあなただって。
 そうよ、あなただってまたいつふらっと東京に、この新宿ネオン街に帰ってくるか帰ってきたくなるか分からないでしょ、また不意に夢追いかけたくなって、ねえ、だからわたしこの唄を、わたしたちの夢だった『ネオン街をよこぎって』をいつまでも唄っているから、ひとりでも唄い続けるから。
 風の中で、風に向かって、あなたに聴こえるように、遠いあなたの耳に届くように、人込みの中で、ネオン街の中で、ネオン街を離れオフィスに向かう時もひとり静かに、だってこの唄はネオン街で生まれた唄だから、そしていつまでも変わることなくわたしたちふたりの夢なのだから、それにわたしこの唄以外もう唄える唄など他に何ひとつないから、ねえそうでしょ。

 御免なさい、また無言電話になっちゃったね、思い切り愚痴にもなってしまって、じゃ今夜はもうこれくらいにしておかないと、カードだってもう切れそうだから、もしもし、じゃおやすみ、やっちゃん。
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