(公衆電話十四)東京摩天楼ビル屋上、一月
文字数 7,810文字
もしもし、ねえきこえてる、ねえこっちの音そうあなたの好きだった東京の音、今夜は東京の空も星がきれいだから雪は降りそうにないけれど、冬の星座がきらきらと瞬いて丸で星が雪になって舞い降りてきそうなほど、いつ見ても変わらない冬の星空、思えばこの場所でこんな東京の空が見れるのもあなたのお陰だから。
今夜はこうしてこの東京摩天楼ビルの屋上から夜空を見上げながら、あなたに向かって話しかけているの、ねえきこえてる受話器も公衆電話もないけれど、銀河という名の公衆電話を通して、この夜空の星の何処かで今眠っているあなた、今あなたが見ている夢へと届くように。
この無数の星の中の何処かにあなたがいるような気がする、それともこの星の上を駆け回る風の中に、どっちにしてもこの東京、新宿ネオン街にはもういないあなたへ、今はただ有難うだけが言いたくて、そうあの夜のように。
五年前の冬一月の新宿、あの土曜日の夜、あなたはあんなに大好きだったネオン街、この新宿の街から風のようにふらっといなくなったね。
あの夜わたしはいつものようにシクラメンの仕事を片付けあなたのもとへ向かうところだった、けれどオフィスに突然の電話、わたしが担当する例の女性会員けい子さんからの電話だった。
「死にたいの」
彼女はいきなり深刻そうな声でそう告げたから、
「どうしたの?」
びっくりしたわたしは相談に乗り何とか彼女の気持ちを落ち着かせた、それであなたのところへゆくのがすっかり遅くなってね。
急いでネオン街にゆくと、もうアカシアの雨の看板を持っていたのは健ちゃん、健ちゃんに挨拶してわたしはそのまま時計台の広場へと駆け足、いつもそこにいる筈のあなた、けれどわたしがそこに辿り着いてもあなたの姿はなかった。しかもあなたはいないのに、なぜかギターだけはブロック塀の端に置かれたまんま。なぜ?わたしは直ぐに胸騒ぎを覚えた、あなたは何処へ行ってしまったの?
置き去りにされたあなたの白いギターを見ると、弦が切れていた。不吉な予感、両端の二本の弦が切れていたから、もしかして弦を取りに家に戻ったのかしら?でもギターだけ置いて行くかしら?わたしはあなたのギターを抱きかかえながら、しばらくじっとあなたが帰ってくるのを待っていた。
けれどあなたは戻ってこなかった。胸騒ぎがして落ち着かなくてギター抱えたまま、健ちゃんとこ引き返して、
「やっちゃん、何処行ったか知らない?」
って尋ねたけれど、答えはノー。
「ここには、いたのね?」
その問いへの答えはイエス、じゃ何処行ったんだろう、でも健ちゃんも答えに困った様子、仕方なくわたしはまた時計台の広場に戻ることに、今度はあなたがいることを祈りながら、けれどあなたはいなかった。
わたしはここで待っていた、ただひたすらじっとここで待ち続けた、あなたを待つのはこの場所しかないと思ったから、あなたのギターと一緒にここで、結局ここで待つこと以外他に何も思いつかなかったわたし、寒さこらえ震える唇に唄を口遊みながら、あなたの唄を、わたしたちの『ネオン街をよこぎって』を、何度も何度も繰り返し唄いながら、白い息吐き吐きただひとりぼっちで待っていた、木枯らしが吹き荒れ風俗店の看板のネオンライトの文字が寒そうに揺れていた。
けれどいつまで経ってもあなたは帰ってこなかった、土曜日の夜なのに、土曜日の夜にあなたがここにいないなんて、ここに来ないなんて、わたしに黙って何処か別の場所に行くなんて、大事な白いギター置き去りにしたままで、そんなこと出会ってから今まで一度もなかった、だから有り得ない、有るとしたらおっちゃんがいた夢の丘公園、でもおっちゃんはもういないから、わたしは諦めず待ち続けた、寒さも忘れただじっと待ち続けるしかなかった、あなたのギター抱き締めながら、あなたがここに帰ってくるのを。
とうとう日付けが変わり日曜日の午前零時、それでもあなたは帰ってこなかった、どうしたんだろう、何か事故でもあったのかしら、事故、それとも事件、まさか何か重大な事件に巻き込まれてしまったのでは、事件、もしかしてあのこと、待っている間ずっとわたしの心の奥に抱いていた不安がとうとうわたしをとらえ、わたしは手帳にはさんでおいたあなたから手渡されたあのメモ用紙を急いで取り出した、あなたの田舎のお母さんの連絡先のメモ。
「俺にもしものことあった時」
あの時あなたそう言ったね、俺にもしものこと、俺にもしもの、だからもしものことって何よ?
「人なんていつ死ぬか分からないだろ、おっちゃんみたいに。だからさ」
だからさって。
泣き出しそうになりながらわたしは、あの裸足の少女がわたしたちの前に現れた八月の晩のことや、あなたがわたしにこのメモを渡した時のことを繰り返し思い出していた。あの時あなたが言った言葉を何度も何度も……。
「警察なんてあてにならないから」
「でも助けたいなあ、何とかして」
「だから俺も可哀そうな子見るとつい助けて上げたくなっちゃうんだ、おっちゃんに恩返しがしたいんだよ」
あの時わたしが危ないことだけはしないでって懇願したら、あなたはわたしの顔見つめながら頷いてくれたじゃない?そうだったよね、嘘じゃないよね、あなた危ないことなんかしてないよね、何にもなかったようにけろっとした顔でここに戻ってくるよね、やっちゃんって祈るようにギターと一緒にやっぱりわたしは待ち続けた、真冬のネオン街にひとりぼっちで、わたしこの風景をこの寒さと震えを一生忘れることはないと思った。
そしていつだったかしら、あなたがここに帰ってきたのは、わたしがそのことに気付いたのは、もうすっかり人通りも途絶えた真夜中のネオン街、辺りは凍り付いたようにしーんとしていたね。
いつのまにかわたしは眠気のためうとうとしていて、それとも寒さのために意識が薄れていたのかしら、どっちか分からないけれど、あなたのギター抱き締め路上に突っ立ったまま頭が朦朧としていたその時、かすかな物音に気付いてはっと音のする方角に目を向けると、道端に人がうつ伏せになって倒れていた、それが誰だかわたしには直ぐに分かった、それは、やっちゃん、あなただったから。
あなたはここに帰ってきた、ネオン街、あなたのそしてわたしたちの夢の場所へと。
「やっちゃん」
わたしは急いで駆け寄りしゃがみ込んであなたを呼んだ。あなたは顔を上げわたしに気付いて微笑もうとしたけれど、その顔は殴られた跡で痛々しく切れたり腫れ上がっていたね。
「大丈夫?しっかりして」
けれどあなたは体中血だらけ、何とか起き上がろうとするけれど腕も足も思うように動かなかったね、わたしに弱々しい声で、
「手伝ってくれ」
あなたの白い息が震えるように空気中に消えていった。
「駄目よ無理しちゃ、じっとしてて。救急車呼んでくるから」
なのにあなたは首を横に振って拒んだね。
「でも急がないと」
「頼む」
「だって」
「唄いたいんだ……」
「え」
その言葉にわたしじっとあなたの顔を見つめてた、以前確かあなたこう言ったね。
「俺は死ぬまでここでこのネオン街で唄っているから、それが俺の夢だから」
夢、あなたの夢。
わたしはあなたの言う通りあなたの上体を起こし、そのままわたしの腕であなたの肩を抱き寄せながらあなたを支え続けた、あなたの息が伝わってきたね。
「ギターは?」
「ここ」
近くに置いていたギターを手繰り寄せ、あなたの胸に。あなたはギターを構え満足そうに、
「有難う」
そのあなたの一呼吸一呼吸、今を生きるあなたの命の一瞬一瞬が感じられた。丸であなたと一心同体で生きているみたいにね、わたしその瞬間をあなたと生きていた、確かに生きていた、わたしたち本当にひとつだったじゃない?
「じゃ唄うよ」
「うん」
「俺たちの、ネオン街をよこぎって」
その言葉と共にそのままあなたは目を瞑った。唄うように夢見るように、幸せそうに……。
「やっちゃん……。誰か来て、だれか、おねがーーーい」
泣き叫ぶわたしの声が路上に響き渡っていた。わたしの白い息が大気中へと昇っていった、けれど人影は現れなかった、わたしはただあなたをじっと抱き締めていた、ずっと抱き締めていた、もう動かないあなたを、あなたとあなたのギターを、凍り付く路上にしゃがんだままじっとそうしていたね。
そんなわたしたちへと気付いたら何かが舞い落ちてきた。星の見えない東京の空から何かが、震えるような空気の中を、震えるような空気の中で、音もなく舞っていたね、白い白い、ゆき。雪、粉雪が舞っていた。
雪はこのネオン街の通りに、ネオンライトに、新宿の街に、寝静まった東京の夜に、まだ走り出さない始発電車の屋根に舞い落ちていた。そしてあなたのギターにやさしく舞い落ちていた、白い雪が白いあなたのギターへと、ふとあなたが笑ったような気がした。あなたがわたしに向かって、こんなふうに語りかけているそんな気がした。
「だからここで唄っていたいんだ、だっていつ誰が俺の唄を聴きにくるか分からないだろ?だから俺はいつもここで唄っているから。だからあんたも寂しくなったら、いつでもここに来なよ。俺ならいつでもここであんたのこと待っているから」
雪が舞い落ちていた、ふたりへと舞い落ちていた、ふたりを包むように、ただ白い雪が、ネオン街の路上に残ったあなたの血をかばうように、雪が舞い降りて、降り積もった、幾重にも幾重にも、白いギターに付いた赤い血を洗い流すように、わたし、おっちゃんの童話『キリギリスとアリ』を思い出していた、わたしあなたに、
「有難う」
って呟いていた。ただその言葉しか思いつかなかったから、有難う、やっちゃん……。
救急車で病院に運ばれる頃にはもう雪は止んでいたね、病院であなたの死が確認されると、わたしはシクラメンとアカシアの雨の人たちに連絡し、福森のおばちゃんが飛んで来てくれた、おばちゃんはわたしを強く抱き締め共に泣いてくれた。
あなたのメモをおばちゃんに見せ、あなたのお母さんに連絡すべきか相談し、わたしから電話することにした、遠い北の寂れた港町、公衆電話のテレホンカードは直ぐに減っていったね。
「もしもし、渡辺です」
電話に出たのは中年女性、きっとこの人だとはやる気持ちを抑えつつ、
「もしもし、わたくし杉村愛と申します、幸子さんはご在宅でしょうか」
「幸子なら、わたしですけど」
やっぱり。
「突然ですが、実は海野保雄さんのことで」
「保雄」
一瞬の沈黙の後、囁くような小さな声で、
「あの子が何か?」
その時あなたの死を伝えるつもりだったけれど、その声を聴いた途端もう何も言えなくなってね、だってお母さんの声緊張で震えていたから、咄嗟にわたしこう答えていた。
「あの、大したことじゃないんです、わたし今やっちゃん、いえ保雄さんとお付き合いしてまして」
そしたらお母さんの声ぱっと明るくなって、
「あらそうですか、今どちらから?」
「東京からです」
「東京、まあそんな遠い所からわざわざ」
「東京、新宿ネオン町三丁目からです」
「まあ都会ですね、それであの子元気にしてますか?」
そう尋ねられ、ついわたし。
「はい、元気です」
って嘘吐いたね。だからそれから後のわたしの会話はみんなお芝居。
「そりゃ良かった、いろいろお世話になりますね、すいません」
「いいえ、こちらこそ」
「あの子は小さい時からいつもふらっと何処かへ行ってしまう子でしたから」
「そうですか」
「そりゃもう丸で風みたいにふらっと」
「風、ですか」
「ええ、でもまたいつのまにかふらっと舞い戻ってきてましたね」
楽しそうに笑っていたお母さん。
「でも東京行ってからは、とうとう戻ってきませんでしたけど」
ふたりで笑ったその後、
「わたしが、あの子を田舎から追い出したようなもんです」
「お、幸子さん」
「あの子やさしい子だから、わたしが渡辺と結婚する時自分はいない方がいいって変に気利かせて、突然東京出て夢追いかけるからって、ふらっと出ていってしまいました」
「そうでしたか」
本当はもっとお母さんと話していたかったけれど、こらえ切れずに涙が出そうだったし、それにお芝居を続けているのが辛くなってね、電話切ることにしたの。
「それじゃ長電話もなんですから、そろそろこれで」
「そうですね、それじゃ保雄のこと宜しくお願いします」
「いいえ、こちらこそ」
「こっちに来ることがあったら、是非寄って下さいね」
「はい、それじゃ、お元気で」
「そちらこそ、お元気で」
公衆電話の受話器を置いて、しばらくぼんやりとネオン街を見ていた。涙で滲んだわたしの瞼に灯るネオン、映るネオンの波また波を……。
その後、わたしが伝えられなかったことを知った福森のおばちゃんがあなたのお母さんに電話しあなたの死を伝え、あなたの遺体はお母さんに引き取られ、あなたはふるさと北の寂れた港町へと帰っていったね。
わたしには白いギターだけが残された、切れた弦を張替え、時間を見つけてはギターを練習した、あなたの唄は楽譜も録音テープもなかったから、あなたの死と共にみんな失われたけれど、ギターのコードを覚えたわたしは『ネオン街をよこぎって』だけは完璧とまではいかなくても、何とかギターの弾き語りで唄えるようになったよ。
あなたがいなくなった後、毎日が静かに流れていった、わたしの前をただ時が穏やかに過ぎていった、わたしは淡々とシクラメンの仕事をこなし、休日は横浜の実家に帰って海や港を見て過ごした、相変わらず父母は帰ってきたらって誘ったけど、わたしはやっぱり中野坂上のマンションでひとり暮らしを続けた、だってやっぱり新宿から離れられなかったから、だけどやっぱり土曜日には新宿に、この街の片隅に身を置いていたかったから。
だってねえ、あなたは、あなたって、ほらあなたのお母さんが電話で「いつのまにかふらっと舞い戻ってきてましたね」って話してくれたように、だからあなたは風、そう風だから、いつまたふらっとここに戻ってくるか分からないじゃない、だからわたしはここでいつあなたが帰ってきてもいいように待っていたいから、ここでこうしてあなたのギター抱えて待っているから。
だから土曜日の夜は、シクラメンの仕事を終え夜の新宿に出るとついネオン街へと足が向いてしまってね、でもネオン街までは出てゆけなくて、結局途中で引き返し青梅街道沿いをとぼとぼと歩いて帰る、しばらくはそんな土曜日の夜が続いた。
でもある土曜日の夜雪が降り出したから、そしたら無性にネオン街が恋しくなって、さっさとシクラメンの仕事を切り上げ、ネオン街へと急いだの、そこは相変わらずの凄い人波で人込みに身を任せ歩いていると、通りのまん中に見慣れたアカシアの雨の看板、それは健ちゃん、雪に降られながら寒そうに突っ立っていた。
わたしふと思い立って健ちゃんに頼んだの。
「ねえ、看板持たせてくれない?」
って、健ちゃん直ぐに頷いて、わたしアカシアの雨の看板を握り締めた、そしたら、そしたらね聴こえてきたの、そう海の音が、降り頻る雪の中で、人々のざわめき、絶え間なく続く人波の足音の中に、やっぱりザヴザヴシュワーって海の音が聴こえてきたから、そして直ぐに海の音は止み。
ふと何処からか聴き覚えのある唄が聴こえてきたの、ネオン街の人込みの中から誰かが唄うその声が、それは、それはね紛れもなくわたしたちの『ネオン街をよこぎって』、わたしびっくりしてきょろきょろ辺りを見回しながら急いで唄っている人を探すと、確かにいた、一組のカップルの女の子の方が口遊んでいたの、その途端涙がこみ上げてきてね、そうあなたが死んだあの日以来初めて流した涙だった、しばらくわたし通りを歩く人込みの中にぼんやりと突っ立っていた、アカシアの雨の看板を握り締めたままでね。
そんなわたしへと雪が舞い落ち、そして風が吹き過ぎていった、風、ネオン街を吹き過ぎる風はその時わたしを抱き締めてくれた、やさしく暖かくぎゅっとわたしの涙を、確かに抱き締めてくれたから、そして風はやっちゃん、あなたのにおいがしていたから、あなたのぬくもり、あなたの鼓動、あなたの息がわたしを思い切り抱き締めてくれたから。
わたしは、あなたもおっちゃんも今この街にいると感じられた、ふたりとも生きていると自然にそう思えたの、だから大丈夫、心配しないで、わたしもちゃんと夢を追いかけて生きてゆくから。
ねえきこえてる、ねえこっちの音あなたの好きだった東京の音そしてネオン街のざわめき、ネオン街はお店も女の子の顔もどんどん変わってゆくから、丸で季節が移り変わってゆくみたいに河が流れてゆくように、いろんな風俗が流行っては廃れ、あなたが愛したアカシアの雨もとうとう潰れてね、ネオン街の通りからあのアカシアの雨の看板も消えてしまったの。
それから、そうそうついでにひとつあなたに報告したいことがあって、うん実はね今度わたし、ある人とお付き合いすることにしたの、え、そうシクラメンの会員さん、真面目な、うんあなたと全然違うタイプの人、本当に全然、全然違うから。
御免なさい、また無言電話みたいになっちゃったね、わたしうんがんばってみるから、応援して、嬉しい、有難う。
じゃこれで最後にするね電話、今夜この星空の公衆電話、これで最後にするから、でないとあなた、ゆっくりと夢も見れないでしょ、だから、ね、じゃ最後にこの唄、わたしたちの『ネオン街をよこぎって』。あなたの白いギターで今夜はわたしひとりで唄うから、聴いて、聴いていて下さい。
「ねえきこえてる受話器を通して、ねえこっちの音そうあなたの好きだった東京の音、今わたし新宿駅の公衆電話からかけているから、ええ相変わらずよ土曜日の夜だからすごい人波、でもわたしは仕事だから、これから駅の地下道を抜け表に出てイルミネーションの海を人波をかきわけネオン街をよこぎって、オフィスのあるビルにいくの。
ええ元気よビルのエレベータをまっすぐに上がりオフィスに辿りつくと、そこは人影もなくしずかで暗闇の中にてさぐりで照明のスイッチをさがす、パソコンの電源を入れコーヒーを沸かしそうして窓から見おろす新宿の街を眺めながら、春が過ぎ夏が訪れ秋が去り冬がやって来るそのしずかなくりかえしの中で、きのうきゅうにあなたの唄を忘れてしまっていることに気付いてね、なんだかおかしくてわたしの詞にあなたがつけてくれたメロディだったのに、どうしても思い出せなくてそれで電話してみたの。
わたしたちの夢だったあの唄の東京が大好きだったあなたのいつか世界中をふるわせてみせると語り明かした若かりしわたしたちの、そして今はただ新宿のかたすみ深夜人影のないオフィスでひとりたたずむ女の唇をふるわせているだけの唄なのだけれど、今もネオン街をよこぎる時、風俗店の看板を持ったあなたが、そこにいるような気がする」
え?今まで土曜日の夜、いつも何処に電話してたんだって?
何処だと思う?
01644177。
そう、旭川地方気象台の流す気象情報は、今夜もやっぱり大雪かしら、ねえ北の寂れた港町に、あなたの夢に、今夜も雪が降り積もっているかしら、もしもし、じゃおやすみなさい、やっちゃん。
(了)
今夜はこうしてこの東京摩天楼ビルの屋上から夜空を見上げながら、あなたに向かって話しかけているの、ねえきこえてる受話器も公衆電話もないけれど、銀河という名の公衆電話を通して、この夜空の星の何処かで今眠っているあなた、今あなたが見ている夢へと届くように。
この無数の星の中の何処かにあなたがいるような気がする、それともこの星の上を駆け回る風の中に、どっちにしてもこの東京、新宿ネオン街にはもういないあなたへ、今はただ有難うだけが言いたくて、そうあの夜のように。
五年前の冬一月の新宿、あの土曜日の夜、あなたはあんなに大好きだったネオン街、この新宿の街から風のようにふらっといなくなったね。
あの夜わたしはいつものようにシクラメンの仕事を片付けあなたのもとへ向かうところだった、けれどオフィスに突然の電話、わたしが担当する例の女性会員けい子さんからの電話だった。
「死にたいの」
彼女はいきなり深刻そうな声でそう告げたから、
「どうしたの?」
びっくりしたわたしは相談に乗り何とか彼女の気持ちを落ち着かせた、それであなたのところへゆくのがすっかり遅くなってね。
急いでネオン街にゆくと、もうアカシアの雨の看板を持っていたのは健ちゃん、健ちゃんに挨拶してわたしはそのまま時計台の広場へと駆け足、いつもそこにいる筈のあなた、けれどわたしがそこに辿り着いてもあなたの姿はなかった。しかもあなたはいないのに、なぜかギターだけはブロック塀の端に置かれたまんま。なぜ?わたしは直ぐに胸騒ぎを覚えた、あなたは何処へ行ってしまったの?
置き去りにされたあなたの白いギターを見ると、弦が切れていた。不吉な予感、両端の二本の弦が切れていたから、もしかして弦を取りに家に戻ったのかしら?でもギターだけ置いて行くかしら?わたしはあなたのギターを抱きかかえながら、しばらくじっとあなたが帰ってくるのを待っていた。
けれどあなたは戻ってこなかった。胸騒ぎがして落ち着かなくてギター抱えたまま、健ちゃんとこ引き返して、
「やっちゃん、何処行ったか知らない?」
って尋ねたけれど、答えはノー。
「ここには、いたのね?」
その問いへの答えはイエス、じゃ何処行ったんだろう、でも健ちゃんも答えに困った様子、仕方なくわたしはまた時計台の広場に戻ることに、今度はあなたがいることを祈りながら、けれどあなたはいなかった。
わたしはここで待っていた、ただひたすらじっとここで待ち続けた、あなたを待つのはこの場所しかないと思ったから、あなたのギターと一緒にここで、結局ここで待つこと以外他に何も思いつかなかったわたし、寒さこらえ震える唇に唄を口遊みながら、あなたの唄を、わたしたちの『ネオン街をよこぎって』を、何度も何度も繰り返し唄いながら、白い息吐き吐きただひとりぼっちで待っていた、木枯らしが吹き荒れ風俗店の看板のネオンライトの文字が寒そうに揺れていた。
けれどいつまで経ってもあなたは帰ってこなかった、土曜日の夜なのに、土曜日の夜にあなたがここにいないなんて、ここに来ないなんて、わたしに黙って何処か別の場所に行くなんて、大事な白いギター置き去りにしたままで、そんなこと出会ってから今まで一度もなかった、だから有り得ない、有るとしたらおっちゃんがいた夢の丘公園、でもおっちゃんはもういないから、わたしは諦めず待ち続けた、寒さも忘れただじっと待ち続けるしかなかった、あなたのギター抱き締めながら、あなたがここに帰ってくるのを。
とうとう日付けが変わり日曜日の午前零時、それでもあなたは帰ってこなかった、どうしたんだろう、何か事故でもあったのかしら、事故、それとも事件、まさか何か重大な事件に巻き込まれてしまったのでは、事件、もしかしてあのこと、待っている間ずっとわたしの心の奥に抱いていた不安がとうとうわたしをとらえ、わたしは手帳にはさんでおいたあなたから手渡されたあのメモ用紙を急いで取り出した、あなたの田舎のお母さんの連絡先のメモ。
「俺にもしものことあった時」
あの時あなたそう言ったね、俺にもしものこと、俺にもしもの、だからもしものことって何よ?
「人なんていつ死ぬか分からないだろ、おっちゃんみたいに。だからさ」
だからさって。
泣き出しそうになりながらわたしは、あの裸足の少女がわたしたちの前に現れた八月の晩のことや、あなたがわたしにこのメモを渡した時のことを繰り返し思い出していた。あの時あなたが言った言葉を何度も何度も……。
「警察なんてあてにならないから」
「でも助けたいなあ、何とかして」
「だから俺も可哀そうな子見るとつい助けて上げたくなっちゃうんだ、おっちゃんに恩返しがしたいんだよ」
あの時わたしが危ないことだけはしないでって懇願したら、あなたはわたしの顔見つめながら頷いてくれたじゃない?そうだったよね、嘘じゃないよね、あなた危ないことなんかしてないよね、何にもなかったようにけろっとした顔でここに戻ってくるよね、やっちゃんって祈るようにギターと一緒にやっぱりわたしは待ち続けた、真冬のネオン街にひとりぼっちで、わたしこの風景をこの寒さと震えを一生忘れることはないと思った。
そしていつだったかしら、あなたがここに帰ってきたのは、わたしがそのことに気付いたのは、もうすっかり人通りも途絶えた真夜中のネオン街、辺りは凍り付いたようにしーんとしていたね。
いつのまにかわたしは眠気のためうとうとしていて、それとも寒さのために意識が薄れていたのかしら、どっちか分からないけれど、あなたのギター抱き締め路上に突っ立ったまま頭が朦朧としていたその時、かすかな物音に気付いてはっと音のする方角に目を向けると、道端に人がうつ伏せになって倒れていた、それが誰だかわたしには直ぐに分かった、それは、やっちゃん、あなただったから。
あなたはここに帰ってきた、ネオン街、あなたのそしてわたしたちの夢の場所へと。
「やっちゃん」
わたしは急いで駆け寄りしゃがみ込んであなたを呼んだ。あなたは顔を上げわたしに気付いて微笑もうとしたけれど、その顔は殴られた跡で痛々しく切れたり腫れ上がっていたね。
「大丈夫?しっかりして」
けれどあなたは体中血だらけ、何とか起き上がろうとするけれど腕も足も思うように動かなかったね、わたしに弱々しい声で、
「手伝ってくれ」
あなたの白い息が震えるように空気中に消えていった。
「駄目よ無理しちゃ、じっとしてて。救急車呼んでくるから」
なのにあなたは首を横に振って拒んだね。
「でも急がないと」
「頼む」
「だって」
「唄いたいんだ……」
「え」
その言葉にわたしじっとあなたの顔を見つめてた、以前確かあなたこう言ったね。
「俺は死ぬまでここでこのネオン街で唄っているから、それが俺の夢だから」
夢、あなたの夢。
わたしはあなたの言う通りあなたの上体を起こし、そのままわたしの腕であなたの肩を抱き寄せながらあなたを支え続けた、あなたの息が伝わってきたね。
「ギターは?」
「ここ」
近くに置いていたギターを手繰り寄せ、あなたの胸に。あなたはギターを構え満足そうに、
「有難う」
そのあなたの一呼吸一呼吸、今を生きるあなたの命の一瞬一瞬が感じられた。丸であなたと一心同体で生きているみたいにね、わたしその瞬間をあなたと生きていた、確かに生きていた、わたしたち本当にひとつだったじゃない?
「じゃ唄うよ」
「うん」
「俺たちの、ネオン街をよこぎって」
その言葉と共にそのままあなたは目を瞑った。唄うように夢見るように、幸せそうに……。
「やっちゃん……。誰か来て、だれか、おねがーーーい」
泣き叫ぶわたしの声が路上に響き渡っていた。わたしの白い息が大気中へと昇っていった、けれど人影は現れなかった、わたしはただあなたをじっと抱き締めていた、ずっと抱き締めていた、もう動かないあなたを、あなたとあなたのギターを、凍り付く路上にしゃがんだままじっとそうしていたね。
そんなわたしたちへと気付いたら何かが舞い落ちてきた。星の見えない東京の空から何かが、震えるような空気の中を、震えるような空気の中で、音もなく舞っていたね、白い白い、ゆき。雪、粉雪が舞っていた。
雪はこのネオン街の通りに、ネオンライトに、新宿の街に、寝静まった東京の夜に、まだ走り出さない始発電車の屋根に舞い落ちていた。そしてあなたのギターにやさしく舞い落ちていた、白い雪が白いあなたのギターへと、ふとあなたが笑ったような気がした。あなたがわたしに向かって、こんなふうに語りかけているそんな気がした。
「だからここで唄っていたいんだ、だっていつ誰が俺の唄を聴きにくるか分からないだろ?だから俺はいつもここで唄っているから。だからあんたも寂しくなったら、いつでもここに来なよ。俺ならいつでもここであんたのこと待っているから」
雪が舞い落ちていた、ふたりへと舞い落ちていた、ふたりを包むように、ただ白い雪が、ネオン街の路上に残ったあなたの血をかばうように、雪が舞い降りて、降り積もった、幾重にも幾重にも、白いギターに付いた赤い血を洗い流すように、わたし、おっちゃんの童話『キリギリスとアリ』を思い出していた、わたしあなたに、
「有難う」
って呟いていた。ただその言葉しか思いつかなかったから、有難う、やっちゃん……。
救急車で病院に運ばれる頃にはもう雪は止んでいたね、病院であなたの死が確認されると、わたしはシクラメンとアカシアの雨の人たちに連絡し、福森のおばちゃんが飛んで来てくれた、おばちゃんはわたしを強く抱き締め共に泣いてくれた。
あなたのメモをおばちゃんに見せ、あなたのお母さんに連絡すべきか相談し、わたしから電話することにした、遠い北の寂れた港町、公衆電話のテレホンカードは直ぐに減っていったね。
「もしもし、渡辺です」
電話に出たのは中年女性、きっとこの人だとはやる気持ちを抑えつつ、
「もしもし、わたくし杉村愛と申します、幸子さんはご在宅でしょうか」
「幸子なら、わたしですけど」
やっぱり。
「突然ですが、実は海野保雄さんのことで」
「保雄」
一瞬の沈黙の後、囁くような小さな声で、
「あの子が何か?」
その時あなたの死を伝えるつもりだったけれど、その声を聴いた途端もう何も言えなくなってね、だってお母さんの声緊張で震えていたから、咄嗟にわたしこう答えていた。
「あの、大したことじゃないんです、わたし今やっちゃん、いえ保雄さんとお付き合いしてまして」
そしたらお母さんの声ぱっと明るくなって、
「あらそうですか、今どちらから?」
「東京からです」
「東京、まあそんな遠い所からわざわざ」
「東京、新宿ネオン町三丁目からです」
「まあ都会ですね、それであの子元気にしてますか?」
そう尋ねられ、ついわたし。
「はい、元気です」
って嘘吐いたね。だからそれから後のわたしの会話はみんなお芝居。
「そりゃ良かった、いろいろお世話になりますね、すいません」
「いいえ、こちらこそ」
「あの子は小さい時からいつもふらっと何処かへ行ってしまう子でしたから」
「そうですか」
「そりゃもう丸で風みたいにふらっと」
「風、ですか」
「ええ、でもまたいつのまにかふらっと舞い戻ってきてましたね」
楽しそうに笑っていたお母さん。
「でも東京行ってからは、とうとう戻ってきませんでしたけど」
ふたりで笑ったその後、
「わたしが、あの子を田舎から追い出したようなもんです」
「お、幸子さん」
「あの子やさしい子だから、わたしが渡辺と結婚する時自分はいない方がいいって変に気利かせて、突然東京出て夢追いかけるからって、ふらっと出ていってしまいました」
「そうでしたか」
本当はもっとお母さんと話していたかったけれど、こらえ切れずに涙が出そうだったし、それにお芝居を続けているのが辛くなってね、電話切ることにしたの。
「それじゃ長電話もなんですから、そろそろこれで」
「そうですね、それじゃ保雄のこと宜しくお願いします」
「いいえ、こちらこそ」
「こっちに来ることがあったら、是非寄って下さいね」
「はい、それじゃ、お元気で」
「そちらこそ、お元気で」
公衆電話の受話器を置いて、しばらくぼんやりとネオン街を見ていた。涙で滲んだわたしの瞼に灯るネオン、映るネオンの波また波を……。
その後、わたしが伝えられなかったことを知った福森のおばちゃんがあなたのお母さんに電話しあなたの死を伝え、あなたの遺体はお母さんに引き取られ、あなたはふるさと北の寂れた港町へと帰っていったね。
わたしには白いギターだけが残された、切れた弦を張替え、時間を見つけてはギターを練習した、あなたの唄は楽譜も録音テープもなかったから、あなたの死と共にみんな失われたけれど、ギターのコードを覚えたわたしは『ネオン街をよこぎって』だけは完璧とまではいかなくても、何とかギターの弾き語りで唄えるようになったよ。
あなたがいなくなった後、毎日が静かに流れていった、わたしの前をただ時が穏やかに過ぎていった、わたしは淡々とシクラメンの仕事をこなし、休日は横浜の実家に帰って海や港を見て過ごした、相変わらず父母は帰ってきたらって誘ったけど、わたしはやっぱり中野坂上のマンションでひとり暮らしを続けた、だってやっぱり新宿から離れられなかったから、だけどやっぱり土曜日には新宿に、この街の片隅に身を置いていたかったから。
だってねえ、あなたは、あなたって、ほらあなたのお母さんが電話で「いつのまにかふらっと舞い戻ってきてましたね」って話してくれたように、だからあなたは風、そう風だから、いつまたふらっとここに戻ってくるか分からないじゃない、だからわたしはここでいつあなたが帰ってきてもいいように待っていたいから、ここでこうしてあなたのギター抱えて待っているから。
だから土曜日の夜は、シクラメンの仕事を終え夜の新宿に出るとついネオン街へと足が向いてしまってね、でもネオン街までは出てゆけなくて、結局途中で引き返し青梅街道沿いをとぼとぼと歩いて帰る、しばらくはそんな土曜日の夜が続いた。
でもある土曜日の夜雪が降り出したから、そしたら無性にネオン街が恋しくなって、さっさとシクラメンの仕事を切り上げ、ネオン街へと急いだの、そこは相変わらずの凄い人波で人込みに身を任せ歩いていると、通りのまん中に見慣れたアカシアの雨の看板、それは健ちゃん、雪に降られながら寒そうに突っ立っていた。
わたしふと思い立って健ちゃんに頼んだの。
「ねえ、看板持たせてくれない?」
って、健ちゃん直ぐに頷いて、わたしアカシアの雨の看板を握り締めた、そしたら、そしたらね聴こえてきたの、そう海の音が、降り頻る雪の中で、人々のざわめき、絶え間なく続く人波の足音の中に、やっぱりザヴザヴシュワーって海の音が聴こえてきたから、そして直ぐに海の音は止み。
ふと何処からか聴き覚えのある唄が聴こえてきたの、ネオン街の人込みの中から誰かが唄うその声が、それは、それはね紛れもなくわたしたちの『ネオン街をよこぎって』、わたしびっくりしてきょろきょろ辺りを見回しながら急いで唄っている人を探すと、確かにいた、一組のカップルの女の子の方が口遊んでいたの、その途端涙がこみ上げてきてね、そうあなたが死んだあの日以来初めて流した涙だった、しばらくわたし通りを歩く人込みの中にぼんやりと突っ立っていた、アカシアの雨の看板を握り締めたままでね。
そんなわたしへと雪が舞い落ち、そして風が吹き過ぎていった、風、ネオン街を吹き過ぎる風はその時わたしを抱き締めてくれた、やさしく暖かくぎゅっとわたしの涙を、確かに抱き締めてくれたから、そして風はやっちゃん、あなたのにおいがしていたから、あなたのぬくもり、あなたの鼓動、あなたの息がわたしを思い切り抱き締めてくれたから。
わたしは、あなたもおっちゃんも今この街にいると感じられた、ふたりとも生きていると自然にそう思えたの、だから大丈夫、心配しないで、わたしもちゃんと夢を追いかけて生きてゆくから。
ねえきこえてる、ねえこっちの音あなたの好きだった東京の音そしてネオン街のざわめき、ネオン街はお店も女の子の顔もどんどん変わってゆくから、丸で季節が移り変わってゆくみたいに河が流れてゆくように、いろんな風俗が流行っては廃れ、あなたが愛したアカシアの雨もとうとう潰れてね、ネオン街の通りからあのアカシアの雨の看板も消えてしまったの。
それから、そうそうついでにひとつあなたに報告したいことがあって、うん実はね今度わたし、ある人とお付き合いすることにしたの、え、そうシクラメンの会員さん、真面目な、うんあなたと全然違うタイプの人、本当に全然、全然違うから。
御免なさい、また無言電話みたいになっちゃったね、わたしうんがんばってみるから、応援して、嬉しい、有難う。
じゃこれで最後にするね電話、今夜この星空の公衆電話、これで最後にするから、でないとあなた、ゆっくりと夢も見れないでしょ、だから、ね、じゃ最後にこの唄、わたしたちの『ネオン街をよこぎって』。あなたの白いギターで今夜はわたしひとりで唄うから、聴いて、聴いていて下さい。
「ねえきこえてる受話器を通して、ねえこっちの音そうあなたの好きだった東京の音、今わたし新宿駅の公衆電話からかけているから、ええ相変わらずよ土曜日の夜だからすごい人波、でもわたしは仕事だから、これから駅の地下道を抜け表に出てイルミネーションの海を人波をかきわけネオン街をよこぎって、オフィスのあるビルにいくの。
ええ元気よビルのエレベータをまっすぐに上がりオフィスに辿りつくと、そこは人影もなくしずかで暗闇の中にてさぐりで照明のスイッチをさがす、パソコンの電源を入れコーヒーを沸かしそうして窓から見おろす新宿の街を眺めながら、春が過ぎ夏が訪れ秋が去り冬がやって来るそのしずかなくりかえしの中で、きのうきゅうにあなたの唄を忘れてしまっていることに気付いてね、なんだかおかしくてわたしの詞にあなたがつけてくれたメロディだったのに、どうしても思い出せなくてそれで電話してみたの。
わたしたちの夢だったあの唄の東京が大好きだったあなたのいつか世界中をふるわせてみせると語り明かした若かりしわたしたちの、そして今はただ新宿のかたすみ深夜人影のないオフィスでひとりたたずむ女の唇をふるわせているだけの唄なのだけれど、今もネオン街をよこぎる時、風俗店の看板を持ったあなたが、そこにいるような気がする」
え?今まで土曜日の夜、いつも何処に電話してたんだって?
何処だと思う?
01644177。
そう、旭川地方気象台の流す気象情報は、今夜もやっぱり大雪かしら、ねえ北の寂れた港町に、あなたの夢に、今夜も雪が降り積もっているかしら、もしもし、じゃおやすみなさい、やっちゃん。
(了)
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