(公衆電話四)夢の丘公園、三月

文字数 5,687文字

 ねえきこえてる受話器を通して、ねえこっちの音そうあなたの好きだった東京の音、今わたし夢の丘公園前の公衆電話からかけているから、ええ相変わらずよ土曜日の夜だから、ネオン街はすごい人波、でもわたしは仕事だから、これからそう今夜はネオン街には寄らずだってすごい遠回りになるでしょオフィスのビルだって直ぐ目の前だし、だから今夜はネオン街はお休みして。
 でも、やっぱり回り道して行ってみようかしら、何だか寂しいものねあの賑やかな通りを見ないと、だからやっぱり行ってみるから、そしていつものようにイルミネーションの海を人波をかきわけネオン街をよこぎって、オフィスの、ええ元気よ、まだまだ寒いけどもう暦の上では春だからねえ、これから少しずつ暖かくなってゆくから、そっちの方はどうかなって少し気になって、それで電話してみたの。
 雪はどう、まだ積もってる、そうね北国だから、みんなまだ雪の中で遠い春を待っているのね、花たちが土の中でじっと待つように、冬眠する動物たちが待っているように、春の日差しが少しずつ積もった雪を融かして、大地が顔を出し草花が顔を出し、動物たちが野山を駆け回る頃、融けた雪は河に流れ河は雪を海へと運び、そうやって北国の雪も海へと還って波の一部となってきらきらと春の日差しに煌くのね、北の寂れた港町に積もった悲しみも寂しさも、そうよ融けてみんな海へと還ってゆくから、ねえあなた、もう直ぐ春、太陽も呼んでいる、大地も生きものもそして風も目を覚ませって、もう直ぐ春。
 五年前の春三月の新宿、あの日もまだ少し肌寒い土曜日の夜だったね。
 わたしその頃真剣に悩んでいた引っ越しのこと、兄の結婚式が六月に決まってこのままじゃ居づらくなるのは目に見えていたから、生まれた時から当たり前だった親との暮らしに別れを告げ何処かアパートかマンション借りてひとり暮らし始めなきゃって。
 それにどうせ引っ越すなら横浜じゃなくて思い切って新宿まで出ようかななんてね、そしたら終電だってもう気にしなくて済むし、その気になればあなたの唄一晩中だって聴いていられる、だからしばらくはシクラメンにも通わずせっせと新宿駅周辺の不動産屋巡り、それから夜になってそのままネオン街へ、そんな日を送っていたね。
 シクラメンの方は相変わらずぱっとせず、会員レターの段階でお断りしてね、だから福森のおばちゃんとも美樹ちゃんとも会わずじまい、おばちゃんなんか心配して電話までくれてね、だから早く部屋見つけなきゃだけど結果は不調、新宿駅周辺には良い物件が見つからず、だから今度は範囲を拡げて探そうかなんて思い始めていたの。
 あの夜もわたしやっぱり不動産屋さんを回った後のネオン街、でもなぜかそこにあなたはいなかったね、アカシアの雨の看板持っていたのはいつもあなたと交代する健ちゃん。
「こんばんは」
「あ、愛さん」
 愛想良く笑う健ちゃんはわたしたちより年下。
「やっちゃん、休み?」
 尋ねるわたしに首を横に振って、
「やっちゃん、公園」
 みんなからやっちゃんって呼ばれてたね、あなた。
「公園って?」
「夢の丘公園、そこに住んでるおっさんの看病」
 公園に住んでるおっさん。初耳そして動揺、動揺といえば先月雪が降ったあの夜のあなたの思い出話の続きもまだ聴いていなかったね、家出して東京行きの夜行列車に飛び乗った後のこと。
「じゃもう今夜は来ないのかな」
 健ちゃんに尋ねても、
「わかんない、何なら行ってみれば夢の丘公園」
「そうか、そうね、うん有難う」
 手を振ってネオン街を歩き出したわたし、でもどうしようか迷っていた、迷いながらでも結局夢の丘公園へ、そこはシクラメンのある東京摩天楼ビルから直ぐ目の前、広くて緑いっぱいの公園だけど夜はさすがに薄暗くて物騒、以前のわたしなら立ち寄ろうなんて夢にも思わなかったのに、今のわたしなら平気。
 夢の丘公園に足を踏み入れると、不安をよそに直ぐにあなたを見つけられたね、だってあなたのギターと唄が聴こえてきたから、嬉しくて唄に引き寄せられるように公園の奥へ奥へと、あなたは大きな桜の木の下に腰を下ろし唄っていた、近付くわたしに気付いても澄ました顔で唄い続けていたあなた、見上げると木の枝と枝との隙間から星が瞬いていたね。
「やあ」
 唄い終わったあなたの横にしゃがんで、
「うん」
 頷いたわたし、木々の葉を揺らす夜風が頬を撫でてくすぐったかった、桜の木の直ぐそばにブルーシートのダンボールハウスがひとつ。
「おじさん、大丈夫なの?」
 改めて公園を見渡すと他にもダンボールやブルーシートの波……。
「おじさん?ああ、おっちゃんね」
 ダンボールハウスの方を見ながら、あなた。
「ああ、もうだいぶ、いいみたい。今寝てる」
 確かに誰かの寝息が聴こえていた。そこへ、
「きゃ」
 びっくりして飛び上がるわたしの隣りに、一匹の野良猫。
「平気平気、何も悪さしないから」
 仲良さそうに撫でるあなたに、すっかりなついていたね。
「にゃおう」
 わたしの叫び声と野良猫の声に目を覚ましたのか、ハウスの中のおっちゃんも起きてきて、
「おや、こいつ何処行ってた」
 野良猫に目を細めていたね。
 わたしと初めて顔を合わせたおっちゃんは、けれどわたしには無言で、
「やすお、俺のことはもういいから、ベンチにでも行きな」
「ああ、そうする」
 あなたはあなたでわたしを紹介するでもなく近くのベンチへ移動、仕方なくあなたの後に付いてわたしもベンチへ。でも、やすお!やっちゃんて、やすおのことだったのね、おっちゃんのお陰でやっと分かった。
「変わってるけど、いい人だから」
 ベンチでギター爪弾くあなたに、笑い返してわたし。
「うん」
「世話になった人でね」
「世話?」
 見上げると桜の木はもう蕾が膨らみかけていた、三月だものね。
「俺が東京出てきた時」
「え」
 もしかして家出の話の続きかな?
「ランドセルしょって家出した時のことね」
 って尋ねたら、
「違うよ、あん時は完全に失敗」
「失敗?」
「夜行列車の車掌に見つかって、一駅も行かないうちに補導されたよ」
「なあんだ」
「だから、二度目の家出の時」
「二度目」
「ああ最初の失敗でこりたから、今度は中学卒業してちゃんと資金も貯めてね。その間にギターも買って、白いギターおふくろが好きだって言うから。だけど地元の楽器屋さんには置いてなかったから、普通の買って自分でペンキで塗ったんだ」
「もしかして、そのギターのこと?」
「そう、これ」
 だからいつもそんなに大事そうに抱えていたのね。
「高校行きたいなら何とかするからっておふくろ言ってくれたけど、大変だって分かってたから、中学出たら俺働くからって地元で就職して」
「そうだったんだ」
 あなたのこと、本当に何も知らないわたし。
「だから一時はずっと地元で働くつもりでいたんだ。働いておふくろの面倒見なきゃって、だけど」
「だけど」
「おふくろ急に好きな人出来たから、店辞めて再婚するって言い出してね。再婚ていうか初めての結婚なんだけど」
「え、うん」
 あなたの話に頷くしかないわたしだった。
「じゃもう俺、おふくろの面倒見なくてもいいのかなって思って」
「それで」
「ああ、それで二度目の家出ってわけ、十七の時。一応まだ未成年だったから、やっぱし家出だな」
 寂しげに笑ったあなた。
「おふくろの客で東京の芸能プロダクションの社長って名乗る男がいてさ、上京したら世話するぞって名刺もらってた」
「じゃその人頼って」
「うん、東京駅着いたら、まっ直ぐ名刺の住所訪ねたよ」
「何処」
「新宿区ネオン町」
「え、なんか怪しそう」
 あなたもくすっと笑って、
「ピンポン。正解、名刺のビルの前に辿り着いたら、そこは風俗店の雑居ビルだった」
「やだ」
 ふたりで笑ったね。
「それで、どうしたの」
 でも笑い事じゃないと思って尋ねると、
「ああ、あん時はがっくりきてね。もう夕方だしさ、生まれて初めて来た新宿ネオン街の路上で、途方に暮れて」
「うわあ」
「ギター抱えて宛てもなく夜のネオン街を、とぼとぼと彷徨い歩いた」
「十七歳の少年がひとりぼっちで」
「ああ、田舎もんのガキがね。でもそん時ばったり、おっちゃんと会ったんだ」
「良かった」
 その時ばかりはわたし、さっきのおっちゃんが神様に思えた。
「俺そん時いかにも家出してきたみたいな格好でうろついてたろ。だから路上で変な男にしつこく絡まれてさ、弱ってたんだ。そしたらおっちゃんが、どうしたんだって声掛けて助けてくれたんだ」
「へえ、良かったね」
「ほんと助かったよ。でおっちゃんに、正直に事情全部話してさ。そしたら、そうか今夜はもう遅いから行くとこねえな。どうする?俺んとこでも来るかって」
「俺んとこ?」
「うん、それがここ」
「ここ?」
「そう、この公園。懐かしいよ、もう十年以上前のことだから」
 十年以上前。そうよね十七の時だから、でも懐かしいのはいいけどもしかして、悪い予感に襲われるわたし。もしかしてあなた、今もここでおっちゃんと暮らしているのかしら?それが知りたくて、話を促すわたし。
「それで」
「ああ、しばらくおっちゃんの世話になったよ、居心地良くてね。本当は俺、ずっとここにいたかったくらい」
 やっぱり。
「だけどおっちゃんが駄目だって、お前はまだ若いんだからちゃんとしろって」
「へえ本当にいい人なのね、おっちゃんって」
「ああ、おっちゃん俺のために、知り合いの支援団体の人に相談してくれてさ。今じゃ何とかこうして、安アパート借りてアルバイトで生活出来てるんだから、ほんと何もかもおっちゃんのお陰なんだ」
 アパート。安アパート借りて、ふう良かったと胸を撫で下ろすわたし。
 ベンチからおっちゃんのハウスを見るとハウスの前に野良猫がちょこんと座っていて、わたしの視線に気付いたのか、
「にゃお」
 人なつこそうにこっちにやって来た。
「よしよし」
 あなたとふたりで撫でたね。
「名前は?」
「ない」
「え、かわいそう」
「おっちゃんが付けないんだ」
「どうして」
「猫は直ぐ何処か遠くへいなくなっちゃうからって。もうこいつで何匹目だろ、おっちゃんが世話した野良猫」
「ふーん、じゃ名無しのにゃんちゃん」
 わたしがそう呼ぶと、野良猫は意味も分からず、
「にゃお」
 と寂しげに答えて鳴いたね。
 まだ少し肌寒かったけど夜風が頬にやさしかった、夢の丘公園は緑に囲まれしかもネオン街や駅の喧騒からも遠く離れているから大都会とは思えない静けさ。
「そろそろ行こうか、送るよ」
「え」
 あなたともう少しこうしていられるつもりでいたわたしは驚いて、だけどあなた。
「もう電車なくなるよ」
「うそ?」
 慌てて腕時計を見ると確かにもう終電近い時刻、仕方なく野良猫に別れを告げあなたとふたりで公園を後にしたね。
 駅までの道を、とぼとぼとふたりで歩いた。
「でも最初の頃は寂しかったなあ」
「え?」
 寂しいなんて言葉あなたから聴くの初めてだったからびっくりして、じっとあなたの横顔見つめてた。
「アパート借りて、ひとりで暮らすようになった頃」
「あゝ」
「行くとこないから、毎日おっちゃんとこ行ってた」
「でもいつだったか、おっちゃん俺にこう言ったよ。お前には唄があるだろ、寂しいならその寂しさを唄にしてみろ」
「わあ、かっこいい」
「それにこんなことも、都会は海なんだぞ」
「海?」
「うん、だから海を唄にしてみろって、そん時俺田舎の海のこと思い出してさ」
「田舎の」
「そしたらネオン街の何処からか、海の音が確かに聴こえてきたんだ」
「ええ」
「そん時俺初めて、東京のこと、好きになれそうな気がした。だから俺、このネオン街で唄おうって決めたんだ」
「うん」
 気付いたらもう新宿駅の改札の前、急いで切符買って改札抜けてホームへと急ぐ人込みの中で振り返ったら、あなた手を振ってくれていたね、嬉しくてわたしも思い切り手を振り返した、いつまでもそうしていたかった、幾千の人波の中、新宿駅の人込みの中でいつまでもあなたと見つめ合っていたかった。
 ねえきこえてる、ねえこっちの音受話器を通して、あなたの好きだった夢の丘公園の音、緑の葉の煌き、木々のざわめき、都会の雑踏を駆け抜けここに辿り着き休息する風たちの声、今公園で眠る人々の寝息そして静寂、もう春ね、まだ少し寒くて名残雪でも降りそうだけど。
 ネオン街ももう春よ、通りも時計台の広場もネオンライトも夜の風も、冬の寒さを乗り越え今は恋しがっている、いつもざわめきの中に紛れ流れていたあなたのギターの音色、白いペンキのギターの古い古い幾つもの寂しさ知っているそのメロディまた聴きたくて、みんな恋しがっているからねえあなた、もう暦の上では春なんだから、いつまでも隠れてないで出ておいで、雪に埋もれていないで顔見せて、また一緒に唄おうよ、また一緒に踊ろう踊りたい、あなたの唄であなたの夢と一緒に、桜吹雪、木々の葉を揺らし、風とダンスをもう一度。
 そんなネオン街を駆け抜け今は夢の丘公園の夜のベンチに佇む風たちの願いに押されて、今夜もわたしこうしてあなたに電話してみました、あなたが愛した東京の風、俺も風になりたいって言ってたあなたの、誰もいない夜もいつだってあなたの唄を聴いていてくれた、あなたの夢と寂しさといつも一緒だった東京の風。
 だから故郷の風、まだ雪混じりの風に乗ってこっちまでふらっと遊びにいらっしゃいよ、ランドセルしょって東京行きの夜行列車に飛び乗ったあの夜のようにねえ風に乗って風になって、この東京新宿ネオン街をあなたを捜して宛てもなく流離うひとりぼっちの風に会いにきて、そしてわたしも風になりたい、風になり今直ぐにでもあなたの町まで飛んでゆきたい、ねえせめて風になって。

 いやだ、また無言電話じゃない、そんなことない今夜は風の音が聴こえてる、懐かしい夢の丘公園の、そう、良かったじゃ今夜も何とか愚痴にならずに済んだのね有難う、じゃ今夜もこのままカードが切れるまでずっとこうしておくから聴いていてこっちの風の音、もしもし、じゃおやすみ、やっちゃん。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み