(公衆電話九)新宿駅地下道、八月

文字数 5,149文字

 ねえきこえてる受話器を通して、ねえこっちの音そうあなたの好きだった東京の音、今わたし新宿駅の公衆電話からかけているから、ええ相変わらずよ土曜日の夜だからすごい人波、でもわたしは仕事だから、これから駅の地下道を抜け表に出てイルミネーションの海を人波をかきわけネオン街をよこぎって。
 ええ元気よ、暑いわね本当に、河の流れや海の波は涼しさを感じさせるけれど人波は蒸し暑いばかりでね、なのにそれでも相変わらず新宿ネオン街には人が押し寄せてくるから、この新宿駅の地下道だっておんなじ、この場所はそうおっちゃんがそしてわたしが海の音を聴いた場所、この人込みの中に立ち止まりこの人込みの足音ノイズにそっと耳を傾け、そこに海を感じた場所、だからここがわたしにとっての東京の始まりの場所、だからあなたにもこの音聴かせたくて、それで今夜も電話してみたの。
 五年前の夏八月の新宿、あの日も蝉時雨の止まない暑い暑い土曜日の夜だったね。
 三十歳の誕生日を迎えた頃から実はわたし仕事のことでずっと悩んでいてね、たくさんの男性に混じってこれから先もソフトウェアの仕事続けてゆけるのかしら、後は年取ってゆくばかりだから居づらくなるだろうし、もうそろそろ限界かもなあ、思い切って別の仕事探そうか、なんてね。
 お盆前あなたに相談したらあなたはシクラメンのことを教えてくれたね、福森のおばちゃんのこと。
「おばちゃん、年を取ったおふくろさんの面倒見なきゃなんないから、シクラメン辞めるってよ」
「ええ本当?寂しくなるね、わたしなんかおばちゃんのお陰で会員になったようなものなのに」
「そうだな、そいで後任の人を募集するみたい、なんなら相談してみたら、意外に合うかもよシクラメンの仕事」
 え、わたしがシクラメンの仕事って初めは全然ピンと来なかったけど、後で考え直してみて、うん悪くないかもなあって次第に真剣になってね、ついにわたし本気でやってみようって気持ちになって、決め手はやっぱり東京摩天楼ビル三十階シクラメンの窓から見える新宿の夜景。
「ああ、丸で永遠に続く夜空の星のようさ」
 って初めて会った日のあなたの言葉思い出しながら、決意した。
 それでDSYがお盆休みに入ったら思い切って福森のおばちゃんに相談してみたの、本当は結婚相手探しで入会したくせに図々しい女、でもおばちゃんは好意的でね。
「コンピュータのお仕事って、大変なんでしょう?」
 って気遣ってくれながら、
「でもこの仕事も大変なのよ、それにお給料だって下がるし、いいの?」
 わたしは真剣な表情でおばちゃんを見つめながら、
「はい」
 って頷いた。するとおばちゃん、
「そうね、確かに会員さんに喜んでもらえた時は自分のことみたいに嬉しいから、この仕事」
 おばちゃん窓から新宿の夜景を眺めながらしみじみと語ってくれて。それから、
「じゃ会社に話してみるわ」
 微笑みながら約束してくれた。
 それから直ぐにおばちゃんから連絡があって、シクラメンの面接受けて、じゃやってみますかって話になったから数日考えてシクラメンへの転職を決意、DSYには辞職の気持ちを伝え、引き止められたけど担当のプロジェクトもちょうど九月で区切りが良かったから九月末迄で辞めることにして、だからシクラメンの仕事は十月からスタート、同時にシクラメンからは脱会、まああんまりいい会員じゃなかったし、おばちゃんからは結婚相手自力で探さなきゃねって励まされ、わたし苦笑いするしかなかった。
 そんなわけで平穏だったわたしの人生も急に慌しくなったけれど、あなたにも大変なことが起こり始めた八月の土曜日の夜、わたし何だかんだで詞の方はさっぱり書けなくてあなたにはいつも御免ねばっかりだったね。
 ネオン街でも蝉が街路樹や電柱、時にはビルの壁にまで留まって深夜でも元気に鳴いていたね、なぜか時々あなたの看板にも留まる蝉がいて、そんな時あなたは蝉をおどかさないようにじっと看板の棒を握り締め直立不動のままだったね、中には鳴かずにじっとしているメスの蝉もいた、あなたの看板につかまりながら蝉たちは一体何を思っていたのだろう、看板の棒を通して伝わるあなたの鼓動を感じながら、夜だというのに昼間のように眩しいネオンの光をあなたと一緒に眺めながら、蝉たちも人間のようにネオンの眩しさに誘われて飛んできたのかしら、ついネオン街の賑わいそれから危なげな夜の香りに引き寄せられて。
 そしてあの夜が訪れた、あの夜もやっぱり賑やかに蝉が鳴いていたね、いつものネオン街に、いつもと変わらないわたしたちのネオン街だった。
 もう深夜午前一時回っていたかしら、いつものように時計台の広場で弾き語りするわたしたちの前に突然ひとりの少女が現れたね、どう見ても高校生、それだけなら驚いたりはしないけれど少女は裸足でしかも顔中傷だらけだった。それにいきなり、
「たすけて……」
 って震える声でわたしたちに言ったね、びっくりしたわたしたち。同時に、
「どうした?」
「どうしたの?」
 唄もギターも止めて少女に話しかけたね。
 ところがその時ばたばたと今度は五、六人の男たち、どう見ても暴力団ふうの一団が現れ、少女を取り囲むと少女の両腕をつかまえ無理やり連れてゆこうとしたね、けれど少女は怯えた小鳥のように黙っていて悲鳴すら上げなかった、呆気にとられたわたしはただ見ているだけで精一杯で何も出来ず、けれどあなたは違ったね。
「ちょっと、その子どうすんですか」
 怒ったように男たちに向かって言った。すると男のひとりが振り向いて作り笑いでにこっと微笑み、
「おにいさんすいませんね迷惑かけて、この子ちょっと頭が変なんですよ」
「頭が変、嘘言うなよ」
 立ち上がろうとするあなたの腕をその時さっと握り締め首を小さく横に振って引き止めたのはわたし。あなたは信じられないような顔でわたしをじっと見つめたね、悲しげな辛そうな眼差しだった、けれどあなたはわたしに従ってくれたね。
 あっという間に男たちは少女を連れ去りわたしたちの前から姿を消し、遠くで車の発進する音がかすかに聴こえた気がした。あなたの腕から手を離すと、あなたはいきなりこう言ったね。
「今夜はもう帰った方がいい」
「えっ、でも……。ねえ怖いから一緒に帰ろうよ」
 けれどあなたは、
「俺、まだ用事あるから」
 って今度こそ立ち上がって、わたしも一緒に立ち上がり、
「用事って?」
「ああ、今のこと警察に話してくるよ」
 警察。警察と聞いて少し安心したけど、
「無茶なことはしないでよ」
 そしたらあなた。わたしを安心させるように、
「ああ大丈夫、大丈夫、そっちこそ気つけて帰れよ」
 って笑ってみせたね。
「うん、分かった。じゃ帰る」
 そしてわたしたち別れたね。
 あなたを残してネオン街を歩き出すと、後には蝉の鳴き声だけがしていた、帰り道の途中急にひとりでいるのが怖くなってね、誰かが後を付けてくるわけでもないのに、結局タクシーで帰った、マンションの部屋に帰り着いても落ち着かなくて何度も鍵を掛けたか確かめて、横になってもなかなか眠れなかった、初めて味わう東京の都会のひとり暮らしの怖さ、つい横浜の実家が懐かしくなってね、誰かがそばにいてくれることの有難さを思い知った一夜だった。
 翌日久し振りに横浜の実家に帰ってみたら、実は兄夫婦はもうそこには住んでいなくてね、結婚した当初は同居していたけど兄の奥さんと母とが上手くいかなくて今は横浜のマンション住まい、だから実家は父母のふたり暮し、ふたりとも寂しそうにしてて、ねえ帰っておいでよって懇願されたから考えてみるって答えたけど、東京への帰りの電車の中でやっぱりしばらく今のままでいようって思ったの、折角ひとり暮らし始めたばかりなんだからってね。
 次の土曜日の夜今迄通りネオン街に行ったら、あなたはやっぱり何もなかったようにそこにいたね、汗だくになりながら相変わらずアカシアの雨の看板持って通りの中央で突っ立っていた、何処かで蝉も鳴いていて嬉しかった、何も変わらない、いつも通りのあなたがそこにいてくれたから。
 けど先週のあの少女のことはお互い触れなかったね。その代わりわたし、
「ねえ、怖いと思ったことないの?」
 って聞いてみた。
「怖い?」
「うん、東京でずっとひとりで生きてきて」
「ああそうだな」
 少し考えてあなた、
「やっぱり、ねえな」
 笑いながら答えたね。
「だってさ俺」
「うん?」
「生まれた時からずっとひとりだし、それに」
「それに?」
「東京ってみんな、ひとりぼっちだろ」
「え?」
 わたしじっとあなたの横顔見つめた。
「東京は俺みたいなひとりぼっちの人間でもやさしく包み込んでくれるから、だから俺東京が大好きなんだ、この街の雑踏の中にいると、何だかとっても落ち着くんだよ」
 落ち着く、東京が大好き、あなたの言葉を心の中で何度も呟きながら、わたしぼんやりとネオン街の人波を見ていたね。そんなわたしにあなた、
「まだ、東京のこと好きになれない?」
 って聞いてきたから、
「え?」
 戸惑いながらわたし、
「うん、そうね。まだ、わかんない」
 そう答えると、いきなり、
「ちょっと持ってみる?」
 あなたはアカシアの雨の看板を揺り動かしながら言ったね。
「えっ、それを?」
 一瞬迷ったけれど、わたしは直ぐに頷いた。
「でも大丈夫かな?」
「ああ平気平気、俺が一緒に持ってるから」
 あなたに誘われ、とうとうわたし生まれて初めてアカシアの雨の看板を持った。
「じゃ、手離すよ」
 それからしばらくわたしひとりで看板を持ってネオン街のまん中に突っ立っていたね、ところが突然激しい雨が降り出した。通り雨、看板持ったままびしょ濡れになったわたし。
「御免御免、大丈夫?」
 看板を受け取ろうとしたあなた。その時だけど、わたしの耳に雨の音に混じって何かが聴こえてきたの。それは、そう波の音、確かにザヴザヴシュワーって、だからわたし興奮しながら、
「聴こえるよ」
 って叫んでいたね。わたしにも、
「何が?」
「海の音」
「えっ」
 そしてあなたもわたしも、びしょ濡れのまま突っ立っていたね。
 雨が止んだのと同時に、その音もすっと消えていった。けれどわたしの目の前には、あなたの笑い顔があった。
「良かったね」
「うん」
 だから聴こえたのはきっとあなたの田舎の海の音でしょ、北の寂れた港町、わたしどうしても行ってみたいと思った、一生に一度でいいからあなたが生まれた港町の海の音聴いてみたいって。
 あなたにアカシアの雨の看板を返した後、わたしまたぼんやりとネオン街の人波丸でネオンの海を漂うような人々の姿を見ていたね、そしたらふっと浮かんできたの詞が、だからわたし夢中でメモ帳に綴った汗びっしょりになりながら新宿ネオン街の人込みに紛れながら、わたしやっと、やっと書けたよ、わたしたちの夢わたしたちの唄の詞、タイトルは『ネオン街をよこぎって』。
 ねえきこえてる、ねえこっちの音受話器を通して、あなたの好きだった新宿駅地下道の雑踏の音、いつ絶えるとも知れない、やっぱりあなたが言った通りだったね、この東京の人波が今ひとりぼっちのわたしをやさしく包み込んでくれているから、さっきからずっと受話器握り締めたままのひとりぼっちの哀れな女を、ねえ本当にどうしてかしら東京の雑踏の中にいると不思議にいつもこうして落ち着くのは。
 もう少しで夏も終わり、残暑はまだまだ続くけれど、ねえ不思議だと思わない、冬の寒さも夏の暑さもこんなに辛いものはないと思っていたのに、いざ季節が過ぎ去ってしまうと今度は恋しくなったり懐かしくなったりするじゃない、あんなに愚痴ってばかりいたくせに、ねえどうして人はこんなにもあっさりと辛かったことや悲しみを忘れてしまえるのかしら、もう二度と再び取り返すことの出来ないあの失った遠い日々も叶わなかった夢も口に出来なかった言葉の数々も、どうして人は大人になると諦められるようになるのかしら、そしてそんな自分をなぜ人は許せるようになるの、ねえ。
 四ヶ月早生まれのあなただから、その分大人なんだから、そして今はもう北の寂れた港町に帰ってしまったあなただから、ついそんなことも聞いてみたくなってしまってね、今夜もわたしこんな風にあなたに電話してしまいました、良かったらねえ教えてよ、そして上手く悲しみ乗り越えて銀河の下で安らかに眠りへと落ちてゆけるそんな術もあるならばどうか教えて下さいお願いだから。

 御免なさい、また無言電話、でも大丈夫よねちゃんと聴こえてるでしょ受話器越しにこの新宿駅地下道の人波の音、だから今夜は愚痴ももうこのくらいにしておくから、もしもし、じゃおやすみなさい、やっちゃん。
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