(公衆電話十三)港町、十二月

文字数 8,183文字

 ねえきこえてる受話器を通して、ねえ風の音、町のにおい、遠くにきこえる海の音、絶え間なく降り頻るだけどきこえない雪の音、だから東京とは全然違うでしょ、ねえ感じない、そう今わたし、そうよびっくりした、あなたの田舎、北の寂れた港町に来ているから、え、そう今駅、雪結晶(ゆきむすび)駅の公衆電話からかけているから。
 土曜日だけど我がまま言ってシクラメンそう休暇取って思い切って来たの、生まれて初めての北の街、だけど一度くらいはやっぱり来てみないといけないかなって思って、だってあなたの生まれ故郷、今夜はクリスマスだしね。
 昨日の夕方から出発して東京駅から寝台特急で札幌まで、札幌で宿取ったりして夕方まで少しぶらぶら、それから留萌本線で今着いたばかりなの、長旅で女の一人旅で疲れちゃった、だけど明日の午前中には飛行機でとんぼ返りしなきゃいけないから、そう東京に、ふう忙しいでしょ仕事だから、でもシクラメンの仕事は楽しいから平気、心配しないで大丈夫。
 うんだから今夜一晩だけ、それに電車ある間に札幌に戻らなきゃならないし、だからほんの少しだけだけどこれから駅を出て、ここにはイルミネーションの海も人波もないけれど、町あなたの町を歩いてね、うんあなたのお母さんの家にお邪魔するのは今回は遠慮しとく、だってもう遅いしこんないきなりじゃびっくりさせちゃうでしょ、ご家族の事情だってあるだろうし、だからそのまま港まで行って海見て、それからもし行けたら風俗街にもね、そうあなたが生まれ育った、あなたのにおいの染みついた場所へ行ってみようかななんて思ってるの。
 でもね凄い雪だから大丈夫かしら少し心配、うんがんばって行ってみるけど、あなたが夢が灯るようだって言ってた風俗店の看板に点るネオンライト、そう子供の頃あなたが野良猫たちと一緒に見ていたネオンの看板見てね、裏通りにはまだ野良猫はいるかしら、あなたと一緒だった野良猫の子供のそのまた子猫くらいの野良猫がいたらいいのに、そしてそれを確かめたなら、あなたの生まれ育ったネオン街をよこぎって、とぼとぼとぼとぼとひとりぼっちでまた遥か遠い東京へと戻るから。
 あなたと本当は一緒に歩きたかったけど、だって慣れてないでしょ雪道を歩くのなんて、それにうん、御免ね思い立って急に来ちゃったもんだから、だからこうして電話だけしてみたの。
 こんなに近いところから、こんなあなたの直ぐそばからだからなんか変な感じね、それに駅も公衆電話の周りもしーんとしているから、いつも新宿のあの賑やかな街の何処かからかけていたからねえ凄く不思議な感じ、同じ世界じゃないみたい、おんなじ人生じゃないみたいね。
 でもたまにはいいでしょ、こんな大人しい電話も悪くないじゃない、こんな静かでこんな寂しいこんな寒い、雪が降り頻る夜空の下で、あなたの生まれた町の駅前の公衆電話から今わたしあなたに電話しています。
 そうあの夜のように、五年前の冬十二月の新宿、あの日もこんな、でも雪は降らなかったね、その代わり星がきれいな星空が透き通るほどきれいだったクリスマスイヴの夜だったじゃない、そんな土曜日の夜だったね、今はもうあの夜の凍えるような寒さも震えさえもみんないとおしい。
 おっちゃんが死んでしばらくはわたしたちずっと悲しみに沈んでいたけれど、十二月に入ってクリスマスが近付いてくると、それに年の瀬も押し迫ってくると、ひとり身としては寂しい会員さんたちの結婚願望も強くなるのかシクラメンも慌しくなってね、それにわたしだって人並みに女なんだから、去年はまだあなたと出会ったばかりだったけど今年はもう一年経つから、それなりにクリスマスを意識してたの。
 シクラメンの仕事はもう美樹ちゃんに迷惑かけなくてもひとりでちゃんとこなせるようになってね、十二月最初の日曜日の午後には美樹ちゃん企画のクリスマスお見合いパーティが目の前のワシントンホテルで開催され、わたしもお手伝い、受け持ちの会員さんたちのフォローをして、何組かカップルも誕生、パーティの打ち上げでは、これから正月、バレンタインと続くからどんどん会員さんたちの出会いの場を提供できるように企画してゆこうねって美樹ちゃんと盛り上がってた。
 そしてクリスマスイヴの土曜日の夜、仕事を終えネオン街に向かおうとシクラメンのオフィスを出ようとした矢先、一本の電話が入ってね、相手はわたしが担当する女性会員のけい子さん、彼女とは同い年で仕事で顔を合わせるうち仲良くなって、プライベートでも何度か食事をしたことがあってね、明るい性格の人で何でも相談してねって言っておいたんだけど、その夜はひとりぼっちで寂しくてつい電話してきたみたい。
 これから一緒に飲まないって誘われたけどちょっと用事があるからって断って、しばらく電話口で愚痴を聞いて上げていたからそれで遅くなったの、彼女から解放されてやっとネオン街にゆくと、あなたはまだアカシアの雨の看板持って人通りの中に突っ立っていたね、いつも通りクリスマスイヴなんて無関係な風貌、相変わらず寒そうにジャンパーそう出会った時と同じあの薄手の紺のジャンパーだけで、時より寒そうに看板下ろして凍えた手のひらに息を吹きかけ温めていたね、その仕草も出会った頃と同じそのまんま、吐き出すその息は白くてネオン街ももうすっかり真冬の寒さだったね。
 人々もみなコートに身を包み寒そうに背中丸め歩いているし、土曜日とイヴが重なったせいかカップルも多く普段より華やか、だけどひとりぼっちで俯きがちに歩く人の姿もあって、みんな何を求めてここにやってくるんだろうなんて、ついわたし今頃ひとりで過ごしているシクラメンの会員さんたちのことを思って感傷的になってしまったの。
 交代の健ちゃんにアカシアの雨の看板渡すと、わたしたちいつものように時計台の広場へ。あなたはホッカイロで手をあっためながら、
「ふう、今夜は特に冷えるねえ」
 ぶるぶる震えているくせに、それでも弾き語りは止めないあなた。
「だってもうクリスマスだからね」
「あ、そうだっけ」
 全然関心なさげに笑うあなた。
「そうだよ、今夜はクリスマスイヴ」
「あゝどうりでなあ、なんかいつもより賑やか。カップルが多いわけだ」
「そうよ」
 それからしばらく唄い続けたあなたラヴソング中心で、時より立ち止まり彼氏の手をぎゅっと握り締めながら切なげに聴き入る女の子がいたり、拍手するカップルがいたり、ほろ酔いなのか街角で抱擁する恋人たちがいたり、いつもと違う雰囲気でネオン街の夜が更けていったね。
 通りにカップルの姿も減って。突然あなた、
「じゃ、どっか食べに行く?」
「え?」
「お腹減ってんじゃない?」
「うん、そう。食事する時間なかったの、今夜」
「だろ、でも何処も混んでんだろうな」
 その時わたし迷わず、
「ウミネコ行こう」
 って頼んだね。だって思い出の場所だからわたしたちの、ね今夜はクリスマスイヴだからクリスマスイヴに行く場所があるとしたら、あそこしかないそう思ったから。だってあの場所はわたしたちの夢、わたしたちの物語が始まった場所だから、初めてあなたと夜を渡った記念の。
 だけどそんなわたしの乙女チックな願いは日本国のクリスマス狂想曲の波に飲み込まれ、わたしたちのささやかな隠れ家の筈のウミネコも今夜ばかりは超満員……。
「ええ、がっかり」
 子供みたいに失望するわたしに、
「ま仕方ないさ、他の店行こう」
 クールなあなた。
「うーんでも、きっと何処も一緒だよ」
 ウミネコしか眼中になかったわたしは落胆のため息ばかり。そんなわたしの様子を、
「仕方ねえな」
 って呆れたように笑いながら、
「そうだ、じゃあそこ」
「何処?」
 あなたは子供みたいに悪戯な目でこう答えたね。
「シクラメン」
「え?」
 びっくりするわたしに、
「会社の中じゃなくてさ、三十階ってこと」
「え?」
「本当は屋上がいいけど、もう寒いだろ」
 あゝ、そうかなるほどと納得したわたし。それで決まり、行き先は東京摩天楼ビル三十階、近くのコンビニでてきとうにクリスマスケーキや食品、缶珈琲を買って目的地へと向かったね。
 いつものようにビルの警備員に話して、そしたら、
「屋上も入っていいよ」
 って言ってくれて、それからエレベータで三十階に昇って、先にわたしはシクラメンの鍵を開けオフィスの中から椅子ふたつと小さなテーブルを持ち出し三十階の廊下に並べたね。テーブルに買ってきたものを並べ、これで準備完了。
 窓から夜景が見えた。一年前わたしたちが出会ったあの日、わたしが初めて目にした新宿の夜景、この場所であなたが、
「丸で永遠に続く夜空の星のようさ」
 って教えてくれた夜景。そう考えるとウミネコよりこっちの方がわたしたちにとってはふさわしい場所だったかも知れないね。思い出の場所、クリスマスイヴに過ごす場所として、すべてここから始まった、そう言える場所がここだから。
 夜景を眺めながら、そしてふたりだけのささやかなイヴパーティしたね、いつしか日付けは変わっていてイヴからクリスマスになっていたのも気付かないで。それからあなた、
「屋上、出てみる?」
「うん」
 小さく頷いたわたし。
「寒いけど大丈夫?」
 尋ねるあなたに、
「平気、ひとりじゃないから」
 そう答えながら、わたしの頬はまっ赤に染まってた。
 非常階段を上って屋上へ、そこは確かに寒くてふたりとも震えていたけど、見上げると夜空には一面冬の星座が瞬いていたから、わたしたち黙って見上げたままだったね、地上に広がる夜景も勿論きれいだったけど、今夜は星空だけをずっと見上げていたいそんな気分だった。
 あなたは寒さこらえて腰を下ろしギター爪弾き出したね、メロディは『ネオン街をよこぎって』。だからわたしもあなたの隣りにしゃがんで唄い出した、聴く人は誰もいないこの場所で、だけど星空に向かって、それから地上の何処までも続く東京の瞬きへと、息は白くあなたの息もわたしの息も白く夜空へと昇って消えていったね、わたしたちの唄を乗せて。
「それじゃ、寒いからもう一曲だけ」
「何?」
「クリスマスということで、この唄いきますか」
 ぱちぱちぱちぱち、わたしの拍手だけが響いてあなたが唄い出したのは、あの唄だったね。

「この夜の何処かで、今もきみが眠っているなら、この夜の何処かに、今きみはひとりぼっち寒そうに身を隠しているから、今宵も降り頻る銀河の雨の中を、宛てもなくさがしている、今もこの夜の都会の片隅、ネオンの雨にずぶ濡れに打たれながら、膝抱えさがしているのは、きみの夢」
 今夜はわたし唄わずに黙って聴いていた、聴いていたかった。
「幾数千万の人波に紛れながら、路上に落ちた夢の欠片掻き集め、きみの笑い顔を作って、都会に零れ落ちた涙の欠片の中に、きみの涙を見つけ出せば、今も夢の中で俺をさがし求めるきみの姿が見えるから」
 いつも冬の寒さを恋しがらせてくれる唄だけど、今夜は冬の夜だからその代わり、わたしに恋しがらせてくれたものは、このクリスマスの夜に、
「この夜の何処かに、今もきみが眠っているなら、この夜の何処かで、今きみが見ている夢見つけ出すため、この夜の無限の闇の中で唄っている、今はただ唄っているだけ、きみの夢に届くまで」

 唄い終わったあなたは震える声で話してくれたね、幼い頃のあなたのたったひとつのクリスマスの思い出。あなたのお母さんが働いていた風俗店での出来事。
「初めて世の中にクリスマスっていう日があるのを知った年のクリスマスの晩だった、友だちなんて野良猫しかいない俺はクリスマスなんて無縁だったから、その晩もひとりぼっち店の隅で遊んでいたよ、そしたら突然店のおねえさんが、やっちゃんこっちおいでって呼びにきたんだ、店の応接室かなんかでさ、そこに何か飾ってあったんだ」
「何?」
「雪のように白い、クリスマスケーキだった」
「えっ」
「店長さんが、今夜はもう客来ねえからさっさと店閉めて、やっちゃんとクリスマス会しようって」
「へえ」
「びっくりしたけど嬉しかった、夢見てるみたいだったよ。昔イエスキリストという偉い人がいて、いつかこの悲しみに満ちた世界を救う救世主が現れるんだとかなんとか、そんな話してくれたことを今もうっすらと覚えてる」
「風俗店で」
「あゝ、笑っちゃうだろ」
「うん、でもなんかいいね」
「おふくろも全然そんなこと知らなくて、最後の客の相手が終わって戻ってきたら、俺がみんなに囲まれてクリスマスケーキのろうそくの炎吹き消してるわけ。それを見た途端おふくろぼろぼろ泣き出しちゃってさ、お店のみなさん本当に有難うございますって声詰まらせて」
「うん」
「何だか俺までついもらい泣きしちゃってさ、親子でみっともなかった」
「そんなことないよ」
 そういえばわたし、今まで一度もあなたが泣いた姿を見たことなかったね、あなたの涙を、おっちゃんが死んだ時さえあなたは泣かなかったから、あなたでもやっぱり泣くことあるんだねって皮肉のひとつでも言おうかと思ったけど、何だか怖くて黙ってた。
「あん時のケーキ、美味かったなあ」
「うん、良かったね」
「後でおふくろとふたりだけで外に出て星を見たんだ、透き通るような夜空にたくさんの星が瞬いていた。この世界にはね空に輝く星の数だけ人が生きているんだよって、おふくろ教えてくれた。だから星の数だけ夢があるんだよって」
「夢?」
 そのまま黙ってあなたは空を見上げたね、そこにもあなたの思い出と同じようにたくさんの星が瞬いていた、東京の空なのに透き通るような星空が広がっていたね。
「シクラメンっていうんだ」
「え?」
「店の名前、おふくろが働いてた田舎の風俗店」
「ええ、ああ」
 わたしため息のように声を漏らして、だって、あゝそうだったんだ、わたしなんにも知らなかった、だからあなたはシクラメンが好きだったのね、冬に咲くシクラメン、わたし初めて訪れた結婚相談所シクラメンの無人の受付で見たあの白いシクラメンの鉢植えを思い出した。わたしたちをめぐり会わせてくれたシクラメン、幾数千万の夢が瞬くこの宇宙の中で。
「だから、有難うな」
「え」
「今夜付き合ってくれて」
 その時わたし薄暗いビルの屋上で、けれどはっきりとあなたの目に浮かぶ涙を見た、生まれて初めてあなたの涙を……。
「どうして?わたし何もしてないよ」
「ああでも、お陰で一番いい過去を思い出させてくれたから。一番幸せそうだったおふくろの顔、思い出させてくれたから」
「やっちゃん……」
 気付いたらわたし、あなたに抱き付いていたね。やっちゃんって、あなたに向かって、そう呼んだのも初めて。
「やっちゃん大好き、わたし大好き」
 わたしも泣いてた。あなたもわたしの名前を呼んで、生まれて初めて、そして最初で最後の。
「愛……」
 あったかかった、あなたの腕もあなたの胸も、あなたの鼓動もあなたの声も、あなたの涙も、凍り付くよな屋上の強風に吹かれながら、けれどあったかかった、あなたのすべてを抱き締めていたかった。
 ねえ夜が明けるまで、せめて夜が明けるまでそうしていたかったね、ビルの屋上の強風に混じって、遠くまだ眠らないネオン街や駅の地下道のざわめきが聴こえてくる気がした、わたしたちのネオン街、わたしたちの新宿、わたしたちの東京、あなたが大好きだった東京の夢の音が、寒さに震えるわたしたちをやさしく抱き締めていてくれたね、だからわたしたち少しも寒くなかった、わたしたち何も怖いものなんてなかったね、やっちゃん。
 ねえきこえてる、ねえこの音受話器を通して、この海の音、港に打ち寄せ砕け散る波の音、そうわたし今、港から一番近い公衆電話からかけているから、港、うん直ぐ分かったよ、だって歩いてたら海の音が聴こえてきたから、引き寄せられるようにここまでやってきたの。
 さっき無人駅の雪結晶駅を出てとぼとぼと町を歩いてね、風俗街にもちゃんと行ってきたよ、少年のあなたがいた街、案外港から直ぐそばにあるのね、海のにおい、港のにおい、潮風を感じながら、海の音も聴こえてくる気がした、港に打ち寄せる波飛沫の音さえ、あなたのにおいもちゃんと残っていたよ。
 ゆっくりゆっくり歩いてきたから、うんきれいだったよあなたが言った通り、風俗店の看板に点るネオンライト、ネオン街を歩く人の波、人々の背中に降り続く雪、積もった雪の上を歩く誰かの足音、凍えるような空気の中に吐き出す人々の息の白さ、みんななぜか懐かしい気がした、何だかずっと昔見た覚えがあるようなそんな懐かしさでね、ついいつまでも歩いていたかった、歩き続けていたらそのうち新宿のネオン街に迷い込みそうで、新宿のネオン街思い出した、ふと一瞬新宿のネオン街を歩いている錯覚に襲われてね。
 歩いているうちにあなたが隣りにいてくれてふたりで歩いている気がして、何度も横向いたり振り返ったり雑踏の中にきょろきょろあなたを捜しているわたしがいたの可笑しいでしょ、そんなわけないのに歩き続けていたらいつかあなたとばったり顔を合わせるんじゃないかって、そう少年のあなたと、野良猫と一緒にネオンの看板見ていたあなたと出会えそうで。
 うん裏通りには野良猫もいたよ、よく人になついていてね、呼んだら逃げずに寄ってきて足に絡みついてきたり頭押し付けてきたり、雪道にしゃがみ込んで野良猫の頭撫でながら、わたしも野良猫たちと一緒にネオンの看板見ていたかった、野良猫の毛に舞い落ちた雪をわたしの指の熱でそっと融かしながら、野良猫たちと見ていたかった、誰かがくしゅんとくしゃみするまで、誰かが風邪を引くまでね。
 そうそう「シクラメン」という名の店の看板はなかったよ、でも店が移り変わってゆくのは新宿のネオン街だってよくある話でしょ、だからなんにも悲しくなんかないからねえ、がっかりしないで、ほら、
「気にしない気にしない、お嬢さんネオン街じゃ良くある話」
 って、ね、人も店も街もどんどん変わってゆくから、みんな何もかも生まれ変わって新しくなって、そうやって世の中は進歩してゆくんだからねえ。
 そして賑やかな風俗街を後にして、今ここ港に辿り着いたら、あなたが言った通り確かにここは北の寂れた港町ね、あんまりこの言葉が似合い過ぎて、潮風も凍り付くようだし人も舟もいないし、ただ細長い埠頭の先端にハーバーライトがひとつ灯っていてね、荒れた海、打ち寄せる波を夜の暗闇の中に映し出していて、それが何ともいえず寂しげでねえ、ずっと誰かを待っているようで、冬の寒さこらえて待っているみたいで切なくてね。
 それでつい今夜二回目になっちゃったけど、こうしてわたしまたあなたに電話してしまいました、今はもう波と潮風の音しか聴こえない、でもあなた良くこんな静か過ぎる場所で眠れるものね、それとも静かだからいい夢が見れるのかしら、新宿ネオン街の賑わいにもうすっかり慣れてしまったわたしにはとても馴染めそうにないけれど、あなたが気に入っているのなら仕方ないわね。
 あ、そうそうわたし思い出したの、ほら夏だったかしら、あなたがわたしにアカシアの雨の看板持たせてくれた時突然降り出した雨の中でわたし、ザヴザヴシュワーって海の音が聴こえたって言ったじゃない、あの時聴こえた海の音今だから分かる、確かに今目の前に聴こえるこの海の音だって、え、海の音なんて何処でも一緒だって、そうかもね、それなら、そうなら本当にいいんだけれど。

 御免なさい、あなたの田舎にまで来て無言電話するなんて、おばかさんねわたし、今も雪が降り頻る雪が海に融けてゆくわ、音もなくしゅっとね、まっ白な雪、あなたの白いギター思い出す、わたしもこのまま融けてゆきたい、融けてゆけたらいいのにあなたの海へ、冬の寒さ抱いたまま融けてゆきたかった、あ御免また愚痴になっちゃったね、今夜だけは止めようって心に決めていた筈なのに。
 あなたの港も風俗街も野良猫もみんな、わたしを暖かく迎えてくれた、寂しげなギターの音色が似合う町、あなたの白いギターの音が、うん有難う、これでもう何も思い残すことなく東京に帰れるから、明日東京に帰るね、もしもし、じゃおやすみ、やっちゃん。
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