第12話

文字数 13,149文字

 第十一章 長い長いマイナスの世界

 冬休みの間、僕はお母さんの田舎で従兄弟と遊んでいた。従兄弟と凧揚げに夢中になって、僕は少しずつ凧揚げが上手になっていた。
 そして、凧揚げの白い糸が無くなるまで凧が天の方まで上がって、僕は大喜びで「見て見て!」と従兄弟達に言うと「しげやん、めっちゃ凄いやん」と褒めてくれた。
 だけど、僕の凧は白い糸が切れて、遠くの方に飛んでいった。そして僕は、せっかく褒めてもらえたのに、凧が遠くの森へ消えた時に泣いてしまった。

 そしていつのまにか三学期が始まって、冬休みの出来事も忘れそうなぐらい、毎日学校へ通った。
 先生は三学期から、「もうすぐ三年生になるから、いつまでもちょけてんとシュッとしいよ!」と言ったりしていた。僕はその「シュッ」について、全く意味が分からない。そしていつものように頭が蓄膿症になる。今朝は島津にそれを聞こうと思って、島津の家の前で待っていた。
 島津の家は新しい大きな一戸建ての家だった。僕の家は団地の二階だけど、島津の家は一丁目で一番大きな家。島津の家には、沢山のベビースターラーメンがあると思った。そしてお城のような鉄の門が勝手に開いて、島津はそこから出てきた。
 僕は早速、島津に話かけた。
「島津聞いて欲しいねん。今日も頭が蓄膿症やねん」
「あんたの蓄膿症は、慢性蓄膿症やからな。それで今日はなんなん?」
「二つあるねんけど、先生がな、いつまでもちょけてんと、シュッとしいやって言うやんか。ちょけてるのは、ふざけてるみたいな感じなんは分かるねんけど、シュッが分からへんねん。シュッてなんなん?」
「先生の言葉をよう覚えてるな。シュッはな、朝礼の時に聞く号令の気をつけ! や。そう覚えとき」
 そういうことだったのか。
「島津って、なんでそんなに先生みたいに色々知ってるん?」
「あんたは人と違うところ見すぎてるから気づかへんだけの話や。ウチは別に物知りとちゃうねんで」
 僕は本当に人とは違うところを見ているんやろか。それも不思議だったけれど、島津の家について聞くことにした。
「あともうひとつはな、どうして島津の家って、大きい家で大金持ちなん?」
「簡単な話や。ウチの両親が1+1で2になっただけの話や」
「せやったら、僕の家も2になるんちゃうの?」
「あんたの家は、マイナスの世界や。あんたのお父さんがマイナス3で、あんたのお母さんがマイナス4やとしたらな、それを足したらマイナス7になってしまうねん。マイナスが酷くなってしまうねんよ」
「それって、マイナス3足すマイナス4って事なん?」
「そうやで、マイナス同士を足したら、マイナスがもっと酷くなるねんで」
 僕のお父さんとお母さんはマイナスだったのか。だから酷い家になってると、すごく分かった。でも、「島津ってなんで、マイナスの算数も知ってるん? そんなん習ってへんやろ?」と、前から島津は本当に賢いのかどうか気になったので聞いてみた。
「ウチも人とは違う算数の世界を見てるから、マイナスも分かるねんよ」
「いま思ってんけど、マイナスの無量大数ってあるん?」
「マイナスの無量大数もあるよ。でも、マイナスの無量大数に行きたくても行かれへん事情もあるんよ」
「それはなんでなん?」
「あんたに分かりやすいように言うとやな、そうやな・・・」
 島津は考え出したみたいだ。
 今日はとにかく寒い。島津はお金持ちやのに、どうして手袋してないんやろか。僕は買ってもらえないから手袋をしてないけど、お金持ちの島津やったら手袋を買ってもらったらいいのにと思った。でも、そのおかげで僕の右手は温かい。島津と手を繋ぐのが、少し好きになった。

 しばらくして島津が「あんたは、ようテレビ見てるやろ。まんが日本昔ばなしは見てるか?」
「あ、毎週みてる」
「じゃ、数字のマイナスの世界を、まんが日本昔ばなしみたいにして話たるわ」
「ほんま、教えて!」
 僕は、まんが日本昔ばなしが大好きだ。ドキドキしてきた。

   ※ 島津のうんちくみたいな昔ばなし
 
 むかし、むかし、あるところに、河内のおっさんがいました。
 河内のおっさんは、とにかく世界一の情熱家でした。
 夏になると、「暑いんじゃワレ!」と身体の熱さを和らげる為に、水浴びをしてました。
 それでも、河内のおっさんの身体は熱いままで、身体が冷える事がありません。
 そして河内のおっさんは、「なんかもっと水は冷えへんのけワレ!」と叫び散らかし、近所に住んでいる人達の耳にも入りました。
 近所の人達は河内のおっさんが怖いので「それでしたら、水を冷やしたらどうでしょうか?」と河内のおっさんに言いました。
 すると、河内のおっさんは「水を冷やす研究をしたらええねんな。よっしゃ、水を冷やす研究をしたるわボケ」と、近所の人達に言いました。

 河内のおっさんは、世界一の情熱家。
 水を冷やす研究をすると、不思議な事が起こりました。
「これは、どないなっとるんじゃワレ! 水を冷やし続けると固まるやんけ。これは何って言うんじゃ。誰か説明せい!」
 すると近所の人達は、河内のおっさんが怖いので「じゃ、水が固まるのを、水が氷ると言いましょ」と河内のおっさんをなだめました。
「おう。これからは水が固まったら、氷ると言ったらええねんな。じゃ、そうしといたるわボケ!」
 それから河内のおっさんは夏の間、ずっと水が氷った塊を抱きしめて、身体の熱さを和らげて、快適に暮らしました。

 そして冬になりました。
 河内のおっさんは、世界一の情熱家。
 それでも河内のおっさんは「冬は寒いんじゃボケ!」と、いくら情熱家でも冬は寒いと文句を言ってました。
 そして河内のおっさんは、「なんか身体を温める方法はないんけワレ!」と叫び散らかし、近所に住んでいる人達の耳にも入りました。
 近所の人達は、河内のおっさんが怖いので「それでしたら、今度は水を温めてみて、それを風呂に入れて入ってみたらどうでしょうか?」と河内のおっさんに言いました。
 すると、河内のおっさんは「今度は水を温める研究をしたらええねんな。よっしゃ、水を温める研究をしたるわボケ」と、近所の人達に言いました。

 河内のおっさんは、世界一の情熱家。
 水を温める研究をすると、不思議な事が起こりました。
「これは、どないなっとるんじゃワレ! 水を温め続けると消えて無くなるやんけ。これは何って言うんじゃ。誰か説明せい!」
 すると近所の人達は、河内のおっさんが怖いので「じゃ、水を温め続けて消えるのを、水が沸騰すると言いましょ」と、河内のおっさんをなだめました。
「おう。これからは、水が消えたら、沸騰すると言ったらええねんな。じゃ、そうしといたるわボケ!」
 そして河内のおっさんは、満足したので家に帰ろうとしました。
 
 しかしその時、河内のおっさんは気づきました。
 沸騰している水は熱すぎて、身体を温めるどころか、身体が火傷してしまう事に。
 すると河内のおっさんは、帰ろうとしていた近所の人達を呼び止めました。

「おいこら、待て! 沸騰している水は熱すぎて身体を温める事はできへんやないかワレ! 火傷するんじゃボケ! それにや、水が氷ったり沸騰したりする中間の水を知りたいんじゃ! どないしたらええんじゃボケ! ちょうどいい水にして、それを風呂に入れて身体を温めろと言ったんは、おまえらやんけワレ! なんとかせい!」
 河内のおっさんは怒り狂いました。
 近所の人達は、河内のおっさんが怖いので「それでしたら、水が氷るところを氷点として、水が沸騰するところを沸点にしましょ。水の氷点を0にして、水の沸点を100にして、水を百等分の温度にしましょ。それで水の氷点から沸点までの中間地点の温度が分かるように、私達は温度計を作りますので、あまり怒らんといてください」と河内のおっさんに言いました。

 そして、近所の人達は温度計を完成させ、それを河内のおっさんにプレゼントしました。
 すると河内のおっさんは、「おう、これで水の中間地点の温度が分かるねんな。よっしゃ、この辺にしといたるわボケ」と言い、家に帰りました。
 そして河内のおっさんは、水が42度になる温度が、ちょうどええ感じに身体が温まるのを発見して、冬の間はずっと風呂の中で温かく過ごしました。
 
 それからの河内のおっさんは、夏の間は氷を抱きしめ、冬の間は42度の風呂に入り、快適な人生を歩みました。

 そして沢山の月日が流れました。
 いくら情熱家の河内のおっさんと言えども、寿命がやってきました。
 河内のおっさんは、もうすぐ死にそうな時、近所の人達を家に呼びました。
 近所の人達は、河内のおっさんが怖いので家に行きました。
 そして河内のおっさんは、言いました。
「おまえらのおかげで、ワシは快適な人生を送れたわ。怒鳴ったりしてすまんかったな。ワシを許してくれな」
 あんなに怖かった河内のおっさんが、自分達に優しい言葉を掛けてくれた事に、近所の人達は涙を流し、やがて涙がちょちょぎれました。
そして河内のおっさんが、息を引き取る最後に、こう言いました。
「おいワレ! 氷点の0度以下は何になるんじゃボケ! おまえら、俺を騙しやがったな!」
 そして河内のおっさんは、鬼のような顔をしたまま、息を引き取り死にました。
 近所の人達は河内のおっさんの亡霊が出たら怖いと思い、考えました。
 そして、近所の人達の代表が「氷点0度以下を氷点下にしましょ。数字で氷点下を表す時は、マイナスをつけましょ」と、死んだ河内のおっさんの耳元で言いました。すると河内のおっさんの死に顔は、とても綺麗な笑顔になって、幸せそうになりました。めでたし、めでたし。


 島津の昔話を聞いて、凄いと思った。
「凄いよ! 凄すぎるよ! 温度って、そういう感じで出来たんや。すげぇな」
「河内のおっさんは、世界で一番の研究熱心で情熱家やからな。温度の0度は、水が氷る事やと覚えときよ」
「島津、頭ええな。さすがやな」
「今朝は氷点下3度や。水より氷るまだ下のマイナスの世界があるんよ」
「そしたら氷点下の無量大数はあるん?」
「それがやね、残念なことに氷点下の無量大数はないねん。無理やねん」
「それはなんでなん?」
「今のところな、氷点下273度ぐらいで止まってしまうねんよ。人間の目では見ることができひん、めちゃ小さな生き物がいるねん。それはな、ウチにもあんたにも、そこらへんの石にも、どこにでも、その生き物が入ってるねん。宇宙も含めた全部に、その生き物が入ってるんよ。その小さな生き物がな、激しく運動したら温度は上がるねんな。逆に、その小さな生物が、ゆっくりと運動したら温度は下がるねんよ。その小さな生物の運動から、温度は分かるようにもなってるねんよ。その小さな生き物はな、氷点下273度で、動きが止まってしまうねんよ。宇宙を含めた全部が、氷点下273度で動きが止まってしまうから、それ以上のマイナスの温度は観測できひんねん。それ以上の氷点下は無いことになるねん」
 なんで島津は、宇宙の事まで知ってるんやろか。ひょっとして、島津は宇宙人なのかもしれないと思った。
「あんたで例えるとやな、あんたは運動場で地球と喧嘩してるやろ? あれが水の氷点とする温度0度やとしたらやね、あんたが先生の前でフランダースの犬ごっこをして動かへん時があったやろ? あれが氷点下273度やと考えたらええわ」
「めちゃ忙しい時とめちゃ死んでいる時みたいな感じで、めちゃ死んでいる時が氷点下273度なん?」
「そういう感じやねんよ。めちゃ死んでいる時の状態の温度を絶対零度と言うねんよ。それ以下は観測も出来ないし、温度が存在しない世界やからってことやねんよ。だからな、氷点下無量大数は無いねん。いまのところ、人間の世界が知る最低温度は、マイナス273度になるねんよ。ちょっと難しいか?」
 島津が僕の顔を見て、心配そうにした。
「いや、なんとなく分かるし、絶対零度という言葉が、めちゃ綺麗な虹色に見えるねん。なんでやろか?」
「それはウチでも分からんけどな。その絶対零度付近の世界やとな、ウチらが今感じている気温の世界では見られへん、変な現象も色々あるみたいやねんよ。きっと河内のおっさんが、絶対零度付近の現象を見たら、おいワレ! これはどないなっとるんじゃワレ。説明しろボケ! と言いはるやろうね」
「それめちゃ面白そう。そんな凄い世界があるんや。絶対零度の言葉は、めちゃええ虹色やな」
「もう学校や。ウチの氷点下理論講座は、この辺で終わるで。ウチに感謝しいや」
 僕はマイナスの世界が凄いと思った。絶対零度という言葉の響きが、凄い心地よかった。もっと知りたいと思った。

 それからいつもと同じ様に授業が始まって、僕はいつもと同じ様に、吉田さんの後ろ姿を見ていた。いつまで経っても吉田さんの後ろ姿は黒だった。いつになったら白になってくれるんやろか。僕はそういう感じで、いつもと同じ学校生活を過ごしていた。でも、三時間目が始まる鐘は不吉だった。

 僕は三時間目の算数の教科書とノートを取り出した。先生が教室に入って来たその時だった。誰かが僕を指差して言った。
「くっさ! 山岡、おまえウンコ漏らしたやろ。臭いねん」
「ウンコなんか漏らしてるか!」
「じゃ、パンツ見してみろよ!」
「パンツにウンコなんか付いてるか。俺のパンツは綺麗な白じゃ。パンツにウンコ漏らしたりするか!」
 すると先生は言いました。
「こら山岡君、そんな必死にパンツにウンコがついて無いって言ったら、パンツにべったりウンコがついてるみたいに聞こえるで。やめりよ」
 僕は何も言い返せなかったけど、またその時に変な事が起きた。
「おい坂上、それ何やねん」と誰かが言った。
 みんな僕のところを見ていたのに、一気に僕の前に座っている坂上君の方に注目していた。僕は坂上君を見るために、坂上君の横に立った。坂上君の紺の長袖と長ズボンの制服には、茶色い異物がべったりと付いていた。明らかに、それはウンコだと分かった。先生も異変に気づいたのか、先生は坂上君に近づいて坂上君に言った。
「坂上君、どうしたんや? ひょっとして落ちたんか?」
 坂上君は誰とも目線を合わせず正面を向いていた。机の上で両手を握り、そのまま時間が過ぎてくれるのを待っているように思ったけど、何か違う。僕には、その坂上君の顔は待っているのではなく、遮断器の赤い警報ランプのようにチカチカと点滅して、危険を知らせているように感じた。
「うわ坂上、ボットン便所にハマりよったんや」と誰かが言い、「うわっ」というクラスメイト達のざわめき声が、とても不愉快だった。坂上君の制服についてるウンコも、遮断器の赤い警報ランプのように赤く見えた。坂上君は僕に、何の危険があることを伝えているんやろか。そして先生は言った。
「あんた達、うるさい! 自習してなさい! いつまでもうるさい子は、終業式までずっと廊下に立たつことになるで! 坂上君、保健室にいくよ」
 そして先生は、坂上君と手を繋いで教室を出ていった。

 僕はずっと坂上君について考えていた。あの坂上君の顔、平常を装っているのは分かるんやけど、どうして遮断器になって、誰かに伝える赤になっていたんやろか。ボットン便所は危険だと言っているんやろか。でも、坂上君の制服についていたウンコも、同じ様に誰かに伝える赤い遮断器になっていた。坂上君の顔だけなら分かるけど、制服に付いたウンコは、僕に何の危険を伝えたいんやろか。でも不思議と頭が蓄膿症になっていない。どういうことなんやろか。

 そして給食後の昼休みになっていた。僕は一人、運動場の片隅で運動場を見ていた。僕はずっと坂上君の顔を思い返していたけど、いつまで経っても、遮断器の赤い警報ランプがチカチカするだけだった。そして遮断器の警報音も聞こえて、カンカンカンカンの音は、僕に何を言いたいんやろか。
 そういう風にぼんやりと考えてたら、島津が僕の隣に座った。
「どうしたん島津」
「なんかあんたがな、どっこに行ってしまいそうな雰囲気やったから、気になってんよ」
「運動場に来ただけやん」
「そういうことじゃないねん。ウチの知らん世界に、ウチをほっといて、あんたは一人で行ってしまいそうやってんよ。頭がなんかなってるんか?」
「頭は特になんにもないねん。ずっと坂上君の事を考えただけや」
「ボットン便所に落ちた坂上の、何を考えてたんや?」
「坂上君がみんなから注目されてた時にな、ボットン便所に落ちたんやったら、恥ずかしく思うはずやねん。平常を装っているのは分かるねん。でも、坂上君の顔は遮断機の赤い警報ランプみたいにチカチカとして、なんか危険を伝えているような気がしてん」
「ボットン便所に落ちたら危ないでって事じゃないんか?」
「そう考えたけど、坂上君の制服に付いてたウンコもな、遮断機の赤い警報ランプみたいにチカチカとしててん。ウンコまで僕に危険を言ってるねん。坂上君の赤はな、何の危険を伝えようとしてたんか、ほんま分からへんねん」
「あんたは鋭いところがあるからな。でもやな、坂上はあんたに危険を伝えようとしてないかもしれへんやんか。別の人に伝えてたんかもしれへんやん。あんたは勝手にそう感じているだけなんやろ?」
「うん、そうなんやけどな。いつもやったら、頭が蓄膿症になるはずやのに、それもないねん。やっぱりおかしいねん」
 僕は自分が勝手に思っているのは知っていた。でも、何かの危険を伝えている赤が、僕を呼んでいるような気もした。気づいて欲しいって。

 しばらくすると昼休みが終わった事を告げるチャイムがなった。僕は男子便所のボットン便所を、どうしても見たくなった。
「島津、ごめんやけど先に帰ってて。僕は男子便所のボットン便所を見てから帰るわ。先生に僕のことを聞かれたら、言っといて」
「じゃウチも男子便所に行くわ。ウチをほっといて、ウチの知らん世界に行こうとせんといて」
「おい島津、男子便所やで? 島津が男子便所にいるところを見られたら、今度から変態って言われるで?」
「ウチは生まれた時から変態やから、そんなん気にしいひんねん。男子便所行くで」

 僕と島津は、変態のように男子便所に入った。と言っても、外の廊下から男子便所の中は見える。運動場から校舎に入る手前に、古い木製の便所があって、男子便所も女子便所も、廊下側からは丸見え。僕たち二年生は、その丸見えのトイレで、豪快におしっこやウンコをしないといけない。いつの日にか誰かが言ってた。この便所はハレンチだと。
 男子便所に入っても、いくら丸見えの通気が良くても、僕の鼻にはツーンとした匂いがあった。それは、おしっことウンコによる味噌汁の匂いだった。
 男子便所入ってすぐの場所には、男子たちが豪快に立ちションをする為の舞台があって、その奥に三つの扉付きの和式便所があった。僕は一番手前の和式便所を覗き込んだ。すると最初に目に入ったのは、和式便器のボットン部分には、並々とウンコ洪水警報が発令するぐらいに、ウンコが山盛りだった。そのウンコは、何も赤い警報ランプのようにチカチカとはしていなかった。でも、和式便器の正面の、ねずみ色のベニヤ板の壁にはうんこ(・・・)と、ウンコで書かれた文字があった。そのウンコで書かれたうんこ(・・・)は、坂上君にあった赤い警報ランプのように、チカチカとしていた。僕はそれを島津に言うことにした。
「おい島津、このうんこ(・・・)の文字。これも坂上君のように、赤い警報ランプがチカチカとしてるねん。でもな、便器のウンコは赤い警報ランプがチカチカとしてないねん。絶対におかしいねん。このうんこ(・・・)の文字、坂上君が書いたんやと思う」
 すると島津はうんこ(・・・)の文字を一瞬だけ見たけど、すぐにずっと便器にあるボットン部分のウンコを見つめていた。島津の顔は、とても不機嫌そうだった。そして島津は僕に話を始めた。
「ウチは勘違いしてたみたいや」
「勘違い?」
「ウチは坂上がボットン便所に落ちたと思てた。でもな、坂上の制服に付いてたウンコは、肩付近まで付いててんよ。今な、この便器のウンコは漏れそうなぐらいになってるやろ? もし坂上がやな、このボットン便所に落ちて肩まで浸かってたら、子供の力では這い上がるのは無理やと思うわ。このウンコとおしっこの混ざった液体はな、普通の水より重たいねん。そうなるとやな、水よりも垂直方向への荷重もかかるし、粘着質なウンコによる摩擦力も生じるねんよ。分かりやすく言うとな、綺麗な水に足を付けた時と、ドブに足を付けた時では、全然重たさが違うやろ?」
「あ、確かに。ドブにはまったとき、めっちゃネチョネチョして、歩きにくくなったもん」
「それと同じやねんよ。それであんたは、このうんこ・・・の文字は坂上が書いたと思うんやろ?」
「うん、坂上君と同じ遮断機の赤やもん」
「それなら、坂上は自分で体中にウンコを塗り付けて、壁にうんこ(・・・)と書いて、普通なら洗ったり、保健室にいくはずやのに、教室に戻ってるねん。そういう事になるねん」
 僕の中では、どうしてそれをしなければいけなかったんか、全然分からなかった。
「坂上君は、どうしてそんな行動をしたんやろ。それをして、何の危険を伝えようとしたんやろか」
「ウチはな、坂上が虐められてるのは知ってるねん。いつも土曜日にな、図書館まで家のお手伝いさんに車で連れて行ってもらってるねん。素数の勉強しにな。その途中の二丁目にな、幽霊公園があるやんか。あそこで、坂上が何人かのクラスメイト達に虐められてるのを、何回か見たことがあるねん」
僕は驚いた。僕の知らないところで、そんな事があった事を、島津は知っている。でも、僕だけが知らない。僕だけが仲間はずれになってる気持ちになった。
 そして島津は並々としたウンコを見ながら話を続けた。
「あいつら、学校では坂上を虐めんと、影で虐めてる感じやってんよ。最初はな、その虐めてた奴らから坂上は、ボットン便所に落とされたんやと思てんよ。でもな、クラス中が坂上がボットン便所に落ちたよったと騒いでいる時にな、その虐めてた奴らも、坂上の姿を見て驚いててん。だからウチは、普通に坂上がボットン便所に落ちたもんやと思ったんよ。でも、あんたは鋭いから、坂上の異変に気づいてしまったんやろな。ウチの予想はあかんもんになってしもたわ」
 島津の話を聞いて、知らない世界の事が少しだけ分かったかもしれんと思った。
「せやったら何となく分かるような気がする。僕はな、親からの暴力を受けてたくなくて、傷薬の赤チンをベタって足とか手とかに塗って、もうこれ以上の暴力は受けれませんみたいなことをしてた事があるねん。いま、それを思い出したわ。僕も赤チンを塗ってた時、遮断機の赤い警報ランプみたいにチカチカとしてたんかもしれん。坂上君の顔も、坂上君の制服のウンコも、このうんこ(・・・)の文字も、全部遮断機の赤。せやったら、坂上君は、その虐めているやつに対して、もうこれ以上は虐めんといてと言ってたことになるんか?」
「きっとそうやろうな。ウチもそう思うわ」
「せやったら、先生に言わなあかん!」
「あんたは、アホか? その坂上の赤は、誰に向けてのメッセージや? あんたに向けたメッセージやったか?」
「でも先生に言わへんかったら、この先もずっと坂上君は虐められるかもしれへんやんか」
「坂上が虐められるのと、あんたと何の関係があるんや?」
 僕は島津の言葉が信じられなかった。なんて冷たい女なんやと思った。
「島津、おまえ冷たい。坂上君が虐められてるのを、黙っとけって言うんか?」
「そうや、黙っときや」
「なんで島津は、そんなに冷たいん? 信じられへん!」
「ウチも冷たくなりたくて冷たくなったんと違うねん!」
 島津は、ものすごく剣幕に怒鳴った。僕は少し怖くなり、「どういう意味なん?」と弱々しく聞いた。
「ウチは前の学校の時、友達の輪に入ろうと努力してたよ。でもな、同じ女子の子達は、縄跳びとか、ゴム飛びとか、あやとりとか、ウチにとってはそういう遊びが苦痛やし、そこはウチの居場所じゃなかってんよ」
やっぱりいつもの島津の声じゃなかった。凄く怒ってる声で顔が鬼そのものやった。僕は何も言い返す事ができひんかった。
「ウチは自分から仲間はずれの道を選択するしかなかってんよ。ウチは誰にも関わって欲しくないと思うようになって、心を閉じて冷たくなるしかなかってんよ。あんたはウチと違って、仲間に入りたいけど仲間はずれ。ウチは仲間に入りたくないから、仲間はずれやねん。でも、どちらも仲間はずれに違いはないねん。坂上はな、虐められたりしているけど、友達もいるねん。仲間がいるねん。あんたは、そういう仲間がいる坂上みたいな人達に、なんでお節介をする必要があるんや?」
「お節介? なんでお節介になるんや?」
「坂上は、あんたに伝えたかった赤じゃないし、もしあんたがこの事を先生に言ったとしても、坂上からしたら、お節介のありがた迷惑になるかもしれへんやろ? ウチは坂上が虐められているのを先生に言わへんかったのは、坂上がウチと違って、仲間のいる中心世界の人というのもあるし、坂上からしたら、ウチが先生に虐められたのを言うのは、お節介に思うかもしれへん。だから言わへんねや!」
「じゃ聞くけど、島津は僕にお節介をしてたやん。先生にチクられたくないのに、島津はお節介みたいにしてたやんか。あれもありがた迷惑やんか」
「あんたに言うといたるわ。坂上がボットン便所に落ちたんやなくて、自分でウンコを塗って、虐められている奴らに対して、虐めんといてくれと伝えてたんは、あくまでウチらの予想や。予想と現実は必ず同んなじになるんか? もし、あんたが坂上の赤を先生に伝えたとしても、それで終わりじゃないねんで。あんたは、坂上が虐められていて危険を伝えているその予想を、証明せなあかんくなるねん。素数の世界でもな、沢山の予想はあるねん。算数の偉い人たちはな、その予想を証明する為に、毎日勉強してはるねん。あんたは予想するのは天才かもしれへんけど、証明を出来る才能がないねん。まだ小学二年生やから仕方ないんや。坂上のことを勝手に予想して、後は放置する方が、冷たいんちゃうか? ウチはあんたにお節介をしてたのは、前にも言ったけど、あんたとウチとの仲間はずれの素数同士の繋がりを予想して、きちんとあんたにも証明しようと思てる」
「それって、どういう予想なん? 僕にも分かるように説明してよ」
「あんたとウチの繋がりの予想はな、あんたがウチの事を好きになるし、ウチもあんたの事を好きなる。そういう予想や」
「島津、その予想はええわ」
「あんたは今、ウチの予想はいらんと言ったやろ? 坂上も同じように、その予想はせんといてと思てる可能性があるやろ? それに気づいたやろ?」
 確かに島津の言う通りやと僕は思った。坂上君も、僕の予想はいらないと思うかもしれない。だから、この事は先生に伝えない方がいいと島津は言っているのだと思った。でも、本当にこれでいいんやろか。
「島津、本当に先生に言わんでいいんか? ひょっとしたら坂上君は、誰か僕を虐められているのを先生に伝えて、という赤かもしれへんやんか」
「だからあんたは、何回言ったら気が済むんや! それも予想や! ありがた迷惑な予想や!」
 その時だった。
「こら! あんたたちは、何を男子便所で結婚式をしてるんよ。とっくに授業は始まってるねんで! あんたたちは放課後残りよ。はよ教室戻り」
 担任の先生だった。僕たちは男子便所で結婚式をしてるように思われたんやろか。
 僕と島津は教室に戻った。そして坂上君の姿はなかった。

 僕は島津の言葉を思い出していた。坂上君に対する勝手な予想は、坂上君からしたら本当に迷惑な事かもしれないし、予想をしたら証明しなあかんらしい。島津があんなに必死になって、僕に伝えていたのも、僕の予想は危険だと言っているように感じた。
 でも、島津が予想する、島津と僕との関係の予想は何なんやろか。どうして僕が島津の事を好きになるというんやろか。島津はキャベツ太郎みたいに、いつでも駄菓子屋で万引きが出来る。やっぱり吉田さんみたいな、白い結婚ケーキみたいに万引きでは絶対に手に入らない方がいい。島津みたいな、いつでも万引きできるキャベツ太郎を選んでしもたら、僕は好きになる相手までも適当にして、適当な人生を歩いてしまう。それだけはやめたほうがいいと思った。

 今日はどうして、こんなに長いんやろ。僕は机の上に身体を預けて、いろんなことを考えていた。なんか懐かしい気持ちになった。でも懐かしいと思う記憶がない。でも懐かしい。僕は懐かしいという言葉を、勘違いしてるんかもしれない。いつか懐かしいで頭が蓄膿症になった時に考えればいい。どうせ僕の懐かしいなんてことに、誰も知りたいなんて思わないんやから。いつまでも。
 
「あんた、いつまで寝てるんや。もう放課後やで。起きや!」
 その声は島津だった。僕はいつのまにか寝ていたみたいだ。僕と島津は先生がいる教卓前に移動した。そして、いつものように先生は話を始めた。
「それでご両人は、授業が始まってるのに、なんで男子便所で結婚式してたんや? チューとかしてへんやろな?」
 チュー? あの時の僕と島津の間のどこに、チューする気持ちがあるんと思たんやろか。それだけは、本当に勘弁して欲しいと思た。
「先生、僕と島津はチューする気持ちなんてないよ。ちょっと喧嘩してただけ」
「男子便所で喧嘩してる方が不自然と思うけどな。それで、何を喧嘩してたんや?」
「それは言えません。先生にも言えない喧嘩です」
 島津は何も言わず、先生を見ているだけだった。こういう時は、僕がしゃべらないと、いけないんやろか。
「先生もな、よく旦那さんと喧嘩はするんよ。男と女に生まれてしもたからね、喧嘩もおきてしまうな。男と女の喧嘩は、人に聞かせるものでもないしね。喧嘩には二種類あるねんよ。相手を傷つける喧嘩と、相手に知って欲しいと思う喧嘩と、二人はどちらの喧嘩やってんや?」
 僕は考えた。僕も島津も、相手を傷つけるつもりはなかったと思った。
「先生、僕らは相手に知って欲しい喧嘩をしてたと思う」
「それならええんや。絶対に相手を傷つける喧嘩はしたらあかんよ。それは喧嘩とちゃう、戦争になってしまうからね。それが分かったらもういいよ。はよ帰りよ」
 僕は席に戻って帰る準備をしようと思った。だけど、島津は先生に質問した。
「先生、坂上がボットン便所に落ちたこと、どう思ってるんですか?」
「なんや、あんたたちの喧嘩は、それが原因か?」
 僕も島津も黙っていた。どうして島津は質問だけして黙るんやろか。僕が質問したことじゃないから、僕は話さないよと思った。そういう沈黙が続いて、先生が話出した。
「もし坂上君の件で喧嘩してたんやったら、それは先生の責任やよ。あんたたちの責任やあらへんよ。先生な、いつも後始末ばかりになってしまってるんよ。生徒の気持ちを理解してないだけじゃなくてね、生徒の問題も見つけられへんでいるんよ。もっと実力のある先生やったらな、そういうのも見つけられて、きちんと指導とかできはるねんけどね」
 島津は黙っていた。やっぱり僕が話さないといけないと思った。
「先生、坂上君の事で喧嘩をしていたんが原因と言ったら原因です。坂上君がボットン便所に落ちたことに、ある予想をしてました。でも、その予想を先生に言うのは、坂上君からしたら、お節介に感じるかもしれへんから、言うのはやめとくことにしました。そういう喧嘩です」
「そうやねんね。何か予想をしたら、それを証明せんとあかんからね。あんたたち二人は、そういうことを学んだんやね。言う事と黙る事の、どちらがええんか。二人で黙る事を選択したんやったら、それでええねんよ。坂上君の事は、先生が責任をもって対処するから、あんたたちは、心配せんでええんよ。だから、もうはよ帰りよ」

 先生の言葉がとても寂しそうに感じた。僕の知らないところで、きっと沢山のことを先生は考えているんだと思った。僕は好き勝手に考えたりするけど、先生の考えるは、クラスの事とか生徒の事とか、生徒の家の事情とか。そういう忙しい先生だったのに、僕は自分の頭の蓄膿症を治してもらう為に、先生に負担をかけていたんやと思う。もう先生に迷惑をかけたくないと思った。
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