第7話

文字数 2,931文字

 第六章 ゲロの匂い
 
 二学期が始まって、二年生の生活にも慣れてきた。
 夏休み中は、お母さんの田舎にも行って従兄弟とも遊べたし、美味しい料理も沢山食べたし、めっちゃ楽しかった。
 
 今日は社会見学の日。雨の中で傘を差して、遠いパン工場まで歩いて行くと先生は言った。めんどくさいと思った。大雨洪水警報になって欲しいと思った。
 
 そして僕の傘に、ポツンポツンと嫌な音を出す雨は、ねずみ色だと思った。
 僕にとって、ねずみ色は、気持ちが重たくなる。ズシン、ズシンと。
 
 僕はねずみ色の外を、青い傘を差して歩き続けた。地獄ってこんな感じなんやろかと思った。そしてようやく、パン工場に着いた。
 
 パン工場の人達も、給食のおばさん達のように、白い長靴を履いていた。やっぱり白い長靴を見ると、どこか気持ちがいい。本当は白いハイソックスの方がいいのだけれど、白い長靴でも得した気分になった。
 
 パン工場の中は、パンの匂いが一杯あった。僕はいつも給食の時間に、パンを半分に切って、パンの切り口の匂いを楽しんでいた。
 パンの匂いは薄黄色で、ずっとその薄黄色の匂いを嗅いでいたいと思った。
 学校の給食の時間は、パンの匂いを嗅ぐところから始める。でも、匂いはいつか消える。パンの匂いが無くなると、そのパンにはもう用はないので、そこからパンを食べることにしていた。

 今日は、どんなにパン工場の匂いを嗅いでも、ずっとパンの匂いがする。僕は将来、薄黄色のパン工場で働きたいと思った。

 パン工場の人達が、メガホンのようなマイクで何かを説明していた。
 でも、僕にはさっぱり意味が分からなかった。だけど僕の目には、銀色の機械が横にベルトで繋がっていて、何台もの銀色の機械を通過した後に、ベルトの上には薄黄色のパンが出来ているから不思議だと思った。銀色の機械の中は、きっと魔法使いがいると思った。
 
 パン工場の社会見学が終わって、学校に戻る事になった。また僕は、外のねずみ色の世界を、青い傘をさして歩き続けた。きっと僕は地獄の世界に住んでいるんだと思った。
 
 学校に到着して教室に戻ると、先生は早速、わら半紙を配り、今日の社会見学でのパン工場で学んだ事を書きなさいと言った。
 僕はパン工場の人達の話が分からなかったので、何も学ぶことはなかった。
 そのまま白紙で出そうかと思ったけれど、暇だから、パン工場の中の絵を描く事にした。

 四つの長い機械を鉛筆で描き、その四つの機械をベルトで繋げた。そして、機械に魔法使いみたいな女子の顔を描いて、魔法使いの目からは、不思議な光を出しているような、そういう絵を描いた。そして最後のベルトに沢山のパンを描いた。
 
 それを描き終えた時、先生は「出来た人から先生に見せにきてよ」と言った。
 でもこれは、先生に見せるのは、やばいと思った。
 結局僕は、学んだことなんてないから諦める事にした。
 そしてみんなと同じ様に、そのわら半紙を先生に見せる為の列に並んだ。きっと死んだ後の閻魔大王と会う時も、こんな嫌な気持ちで列に並ばされるんやと思った。

 僕の前にいる男子は、先生からわら半紙に大きく赤色でバツを書かれていた。やっぱり先生は厳しい人だと思った。僕も学んだことはないから、大きくバツを書いてもらって、その後の給食を楽しみにしようと思った。
 そして僕は先生に、わら半紙を見せた。
 先生は何も言わなかった。
 長い無視が続いた。

 だけど信じられなかった。先生は僕のわら半紙に、大きく赤色でマルを書いてくれた。僕はそのマルの意味が分からなかった。だけど先生に聞こうと思わなかった。なんか聞くのが怖い気がした。
 
 そして給食の時間が始まった。いつものように牛乳の青紫色のビニールを丁寧に取り、パンを半分に手で切った。そして片方のパンを手に取り、パンの匂いを嗅いでいた。やっぱり薄黄色だった。
 そして気がつくと、パンの匂いは消えていたので、前にも見た事があるポトフを口に入れて、そしてパンも口の中に入れて味わった。ポトフとパンが混ざった味は深緑色みたいに、まずかった。
 
 僕と同じように美味しくないと感じて、混ざった味が気持ち悪いと思ったのか、左斜め前の席にいた吉田さんがゲロを吐いた。
 給食の時間に誰かがゲロを吐く事なんて、今までに一度もなかった。
 誰かが「吉田がゲロを吐きよった」と言って、そして吉田さんのゲロの匂いが鼻にツーンと入ってきた。
 吉田さんのゲロは、すごく臭くて、それは焦げた茶色。だけど僕は、そのゲロの中から白い牛乳の匂いを感じた。
 吉田さんが白い牛乳を飲んで胃の中に入ると、こういう可愛い感じの、白い匂いがするんやなと思って、吉田さんの事が気になった。
 今まで気にする事はなかったけれど、吉田さんは可愛い白だと思った。
 でも、そういう吉田さんを可愛いと思っている僕の邪魔をする出来事が起きた。

 吉田さんのゲロが可愛いと思ったのか、別の山田君がゲロを吐いた。「山田がもらいゲロをしよった」と誰かが言って、もらいゲロという言葉が、とてもいいなと思った。
 可愛い吉田さんのゲロの匂いから僕も、もらいゲロをして、吉田さんと僕はゲロ同士でチューがしたいと思った。
 でも、それを山田君に持っていかれたのが、とにかく腹がたった。
 
 だけど状況は、もっと酷い事になった。
 山田君か吉田さんのゲロの匂いから、別の南田さんがゲロを吐いた。誰かが「先生、南田さんも、もらいゲロをしました」と言い、先生を見ると、教卓の上にある給食を食べつつ、教室の様子を見ている感じやった。
 僕はこの状況は酷い状況だと思っていたのに、先生は普通に給食を食べていた。

 僕はどうしても、先生が何を考えているのか知りたくなった。そして僕は先生の教卓に走って行き、「先生、僕はもらいゲロをしそうです」と言った。すると先生は「うん、もらっとき」と言って、そしてまた普通に給食を食べていた。
 
 先生は僕に、もらいゲロをしてもいいよと言いながら、ポトフをゆっくりと食べていた。
 先生は凄く悲しそうなメロン色のような顔をして、いつもの先生とは違う事に気がついた。
 僕はその時に思い出した。
 ポトフの人生を考えたらあかんと昔、先生は言っていた。そして人生を考えたら負けやとも言っていた。きっと先生はポトフを食べる時、考えたら負けやから、今は何も考えていないのだと思った。僕は先生の気持ちが分かったような気分になり、とても嬉しかった。
 僕は席に戻り、残りの給食を食べることにした。だけど、また誰かがもらいゲロをした。教室中、きっとゲロの匂いが充満していると思う。みんなが、「臭すぎる」とか、「ゲロばっかりや」とか、「このままやと、みんなもらいゲロや」とか、クラス中がうるさくなっていた。非常にうるさくなった教室に、赤黒い声が響いた。「もらいゲロ、もらいゲロ、うるさい! 給食は静かに食べりよ」と先生は言った。
 
 そしてその教室の中にいたクラスの子達は、静かなゲロの中で給食を味わっていた。でも僕は、吉田さんのゲロの匂いは分かる。吉田さんの白い牛乳の匂いは分かる。いつか僕と吉田さんは結婚することになると思った。いつか、きっと。


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