第10話

文字数 5,096文字

 第九章 島津は大嫌いだ!
 
 冬の教室にはガスストーブがある。それは教卓に近い教室前方の左側にある。
 授業中先生は時々、ガスストーブに手を差し出して暖かそうにしていた。それが休み時間になると、クラスの主要人物だけの居場所になって、決して僕には、ガスストーブで暖まる権利がなかった。
 
 僕の休み時間は、相変わらず島津との言い合いだけだった。先生が言っていた島津のお節介が愛だとしたら、僕は急性ゲロ中毒のように吐きたくなった。
 ボットン便所で口の中に指を入れて、吐いて急性ゲロ中毒を治療したかった。だけど島津はお節介ではなくて、僕をけなしているように感じた。

 島津の口調は、段々と乱暴な激しく赤黒い口調になっていた。
「おい山岡。制服ぐらい洗ったら? みんな臭いって迷惑してはるねんから、人の迷惑ぐらい考えや!」
「うるさいはボケ。そんなん言ってるの、おまえだけじゃボケ」
「どうして、ウチだけなんよ」
「おまえ友達おらへんやないか! アホやから友達もできひんからな。チクってばっかりやから、誰も近づけへんわ。かわいそうな象みたいに、青酸カリでも注射されて死んだらええねん」
「残念でした。かわいそうな象は、注射で死んだんじゃないのに。水と食料を与えられんと餓死する話やのにー。知ったかぶりしてはるー。先生にチクったろ」
「いちいちチクんなやボケ! なんでおまえが、俺の席の隣やねん。迷惑やからあっちいけよ」
「あんたこそ、どっかいってくれる? ほんと臭いねんで。おねしょしてるのバレてるねんからな」
 僕のおねしょがバレている? 僕は自分が臭いことを知っていた。でも、おねしょがバレているとは思っていなかった。僕はとても恥ずかしい気持ちになって、何も言い返せなくなった。
「ほら、何も言い返せへんやんか。やっぱりおねしょしてるんやんか。おねしょ、おねしょ、おねしょの山岡! 小学二年生でおねしょをする山岡!」
 どうしても言い返せない。僕にはその理由が分からない。
「おい、おねしょ。なんなん、その筆箱。変な乗り物の筆箱、気持ち悪いわ。もうそれ捨てて!」
 僕の筆箱は、誕生日に親戚のおばちゃんからプレゼントしてもらったもの。それをけなすのが許せない。でも僕は、おねしょと呼ばれているので、言い返せないし、どうしたらいい?  
「どうせおねしょは頭が悪いから、その赤い変な乗り物の名前も知らんやろうな。おねしょみたいな筆箱、はよ捨てや! その筆箱、臭すぎるねん。気持ち悪いわ」
 親戚のおばちゃんを、馬鹿にされている気分になった。絶対に許したくない。僕にはいつも優しい親戚のおばちゃんを、島津に馬鹿にされて許せない!
「ウチが捨てたるわ。みんなも臭い筆箱に迷惑してはるから」
 島津が僕の筆箱を手に取ろうとした時、僕はおもいっきり島津にビンタをした。島津は左側に身体が傾いたけれど、僕を睨み、すぐ僕にビンタを返してきた。
 僕と島津は睨み続け、誰かが「アホ同士の夫婦喧嘩や!」とか「今から夫婦同士のプロレスが始まるぞ」とか「先生にゆーたろー」と口々にしている声が、耳に入ってきたけれど、でも僕は、島津を許せない。
 
 僕と島津の睨み合いは、休み時間が終わって、担任の先生が教室に入り、誰かがチクったのか、先生の視点から喧嘩をしていると感じたのか、それは分からなかったけれど、先生は「こら、あんた達。何をチューする勢いで見つめ合ってるんよ。先生が恥ずかしくなるわ。あんた達二人は、放課後残りよ」と言い、僕は勘違いされていると思った。
 
 その日の授業は、放課後まで不愉快な気持ちやった。隣にいる島津と目も合わせたくなかった。ほんと、いつかギャフンと言わせなければ気が済まない。ムカつく女だ!

 そしてやっぱり、僕と島津は放課後に、先生の教卓前に立たされた。先生は少し怒っている様子だった。でも、僕が悪いんじゃなくて島津が悪い。先生にそれを知って欲しかった。
「それで、あんた達は、みんなが言ってるように、二人共ビンタをしたんか?」
 質問されても、島津は答えなかった。仕方なく、僕が答えた。
「はい、二人共ビンタをしました」
「どっちから、先に手を出したんや?」
「先生、僕です」
「素直でよろしい。山岡君は、なんで島津さんにビンタをしたん?」
「僕の筆箱を馬鹿にしたから」
「山岡君、筆箱をもっといで」
 僕は先生に言わた通り、赤い乗り物の筆箱を持ってきた。そして、先生の教卓の上に置いた。
「それで、この筆箱の何を馬鹿にされたん?」
「この筆箱の赤い乗り物の名前を知らない僕を馬鹿にしたり、筆箱が臭いと言われたり、筆箱を捨てると言われたり、ほんまに筆箱を捨てようとしてん。ビンタをするしかなかってん。悪いのは島津やねん」
「山岡君ね、この赤い乗り物は耕運機って言うねんよ。耕運機を知らんと筆箱を買ったん?」
「親戚のおばちゃんに、誕生日にプレゼントでもらったやつやねん。親戚のおばちゃんが、どこで買ってくれたかは知らんねんけど、貰った大切な筆箱やから馬鹿にされてムカついてん。親戚のおばちゃんを馬鹿にされてる感じがして、とにかくムカついてん」
「その筆箱を臭いと言わたり、捨てると言わたり、親戚のおばちゃんを馬鹿にされたりして、それで腹がたってビタンをしたんやね?」
「うん、そう」
「山岡君ね、何の為に口がついてるん? 親戚のおばちゃんに誕生日プレゼントにもらった大切な思い出の筆箱やから、馬鹿にせんといてくれる? と口で言えばいいねんよ」
「でも、僕は島津に、おねしょしている事がバレて、おねしょおねしょと馬鹿にされて、何も言い返せへんかって、黙ってるしか方法がなかってん」
「山岡君、口で言えない時はずっと我慢しいよ。そうやないと、山岡君のお父さんみたいに、暴力でしか人と接する事が出来ない人間になってしまうねんよ」
 僕はとにかく驚いた。先生がどうして、お父さんが家で暴力を振るっている事を知ってるんやろか。そして、そのお父さんみたいになると言われた事が、とても嫌やな気持ちになった。絶対に、お父さんみたいになりたくないと思った。
「先生、僕はお父さんみたいになりたくないねんけど、どうして家のお父さんの事まで、知ってるん?」
「山岡君、一学期の時に児童相談所に保護されてたやろ。先生のところにも、きちんと家の事情とか入ってくるようになってるねんよ」
 僕は知らなかった。児童相談所で家に帰れない時があった。その時に、児童相談所から先生にチクられていたみたいだ。僕はもう抵抗する気もなかった。素直に謝ろうとおもった。
「わかりました。もう二度とビンタとか暴力はしません」
「じゃ、きちんと島津さんに謝りよ」
 僕は先生に言われるように、島津に頭を下げて謝った。
「島津さん、ごめんなさい。もうしません」
 でも、どこか気持ちが悪かった。深緑色のようなドブのような。
「問題は島津さんやね。なんでいつまでも、山岡君に執着するんや?」
 島津がお節介する理由を、先生は僕の前で言わせようとしていた。僕の気持ちは、とても複雑になった。知りたいけれど知りたくない、でも知りたい、でも知りたくない。そういう無量大数の白さが頭にあった。
 そして島津は黙っていた。
「島津さんは、どうしていつもテスト問題を白紙で出すん? 答えりよ」
 島津は、ずっと下を向いていた。そのまま時間が止まれになって欲しいんやろうと思った。
「島津さんは、どうしていつも宿題を堂々と忘れたと言うん? 答えりよ」
 僕は不思議に思った。島津は宿題を堂々と忘れている? 僕はいつも宿題を持ってくるのを忘れたフリをしているけれど、僕とは違うみたいだ。
「島津さんは、どうしていつも先生に当てられて、答えを知っているのに分かりませんと嘘をいうん? 答えりよ」
 島津は答えを知っている? どういう意味?
「島津さん、山岡君は正直に、おねしょのことがバレて言い返せなかったと言いはったやろ? 山岡君にしたら、おねしょは凄く恥ずかしい事やのに、それを先生にも島津さんにも正直に話したやろ? 島津さんは、そのまま黙っている人生でええんか?」
 今まで下を向いていた島津が、顔を上げて先生を見た。
「学校のテストも授業の内容も先生の質問も宿題も、どれもアホ過ぎるから」
「島津さんは、学校の勉強内容はレベルが低いから、そうしてるん?」
「そうです。その通りです」
 島津は、自分がアホなことに気づいていないんか? 救いようのないアホだと思った。
「島津さんには、興味のある教科はないん?」
「興味のある教科はありません。興味があるのは素数です」
 素数って何?
「島津さんは、どうして素数に興味があるん?」
「素数は数字の中で仲間はずれやから。仲間はずれの素数を知りたいから」
 仲間はずれの素数って何?
「せやったら、そういうことを、きちんと先生に伝えてくれへんかったら、先生はいつまで経っても分からへんままやねんよ。仲間はずれの素数にしか興味がないんやったら、三年生になっても、その先の担任の先生にも、前もって伝えりよ。自分の事を口で伝えんと、島津さんみたいに態度で伝えられるのは、場合によったら精神的な暴力になるねんよ」
 そして島津は少しの間、無言になってうつむいたけれど、また先生を見て話だした。
「先生、それを言ったら生意気とか言われへん?」
「生意気と言われるのを我慢しいよ。それで評価してもらえないのも、ずっと白紙のテスト用紙を出すのも、変わらへんやろ?」
「はい、分かりました」
「それで、後はどうして山岡君に執着するん?」
「山岡君もウチも、仲間はずれの素数やから」
「仲間はずれの島津さんと、仲間はずれの山岡君と、仲間はずれの素数と、どういう繋がりがあるん?」
「仲間はずれの素数は、沢山の予想があります。ウチと山岡君は、仲間はずれの素数やけど、どういう繋がりがあるんかを、ウチは予想したいから、山岡君に執着してしまうんです」
「島津さん、山岡君には島津さんの素数の世界は関係あらへんやんか」
「関係は仲間はずれやから」
「じゃ島津さんは、仲間はずれ同士、仲良くしたかったん? 正直にいいよ」
 島津はまた、しばらく無言だったけれど、仲間はずれの素数って何?
「ウチには分かりません。でも、山岡君には素数みたいな魅力があるから、執着してしまいます」
「正直でよろしい。せやったら、そういうことを山岡君に口で伝えなあかんよ」
 僕には意味が分からないことだらけや! 
「ちょっとまって先生! 僕は仲間はずれの素数が分からない仲間はずれやから、頭の中が蓄膿症になったやんか」
 すると島津が僕の顔を見て、「じゃ、ウチが素数について教えてあげるようか?」と言った。
 そして先生が慌てた様子で、「あっ、島津さんちょっと待って! それはあかん。山岡君は、掛け算の九九を見て、九九は雛人形やと言いはって、頭の中が蓄膿症みたいに変になりはるから、そういう時は、考えたからあかんって言わなあかんよ。山岡君にとっては九九が雛人形やから、素数になったら何になるか予測もつかへんことになるから、絶対に素数は教えたらあかんよ」
「先生、山岡君はそういうところが素数やから、執着してしまうんです!」
 素数ばかりで、もう頭が!
「島津も先生もなんなん? 素数ってなんなん? 仲間はずれの素数ってなんなん? 意味がわからへん。頭が、頭が!」
「とりあえず山岡君は考えなや。先生からしたら、二人共なんなん? って言いたいわ。とりあえず、二人共に伝えなあかんのは、きちんと言葉で伝えりよってことなんやよ。絶対に暴力はあかんよ。二人共、我慢の練習とお互いを知る為に、先生がいいというまで、学校の行きと帰りは手を繋いで登下校しいよ。クラスメイトや他の生徒から何を言われても我慢しいよ。そしてお互いに口で話をして、お互いに相手を知るんやよ。同じ一丁目やろ? 仲良く帰りよ」
「分かりました先生。山岡君と手を繋いで帰ります」
「山岡君も島津さんと手を繋いで帰りよ」
「先生、やっぱり仲間はずれの素数を知らない人生を歩むんは、とても我慢できひん。頭が糖尿病になるねん」
「山岡君の頭の中に、どれだけの診断名があるんよ。もう考えんと、島津さんと仲良く帰りよ」

 僕と島津は、あれほど睨み合っていたのに、先生の言いつけ通りに、手を繋いで下校する事になった。
 下校中、お互い喋る事はなかったけれど一丁目の島津の家付近で「明日、朝は迎えに来てや」と島津に言われ、明日からもこんな深緑色の水虫地獄があるのかと思うと、憂鬱になった。僕の頭の中は水虫だった。

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