第五十二話 帝の愛する女御は亡くなり、帝は絶望を得て出家を望む

文字数 2,764文字

 寛和元年七月のはじめ、内裏の介入によって落ち着きを取り戻し始めていた平安京に、密かに大きな歴史のうねりが迫ってきていた。
 一月が経っても焔病の収束は見られなかったが、それでも感染の急速拡大は起こらず、――そして、何より賀茂光栄が焔病の平癒法を見つけたことによって、完全治療はできずともその進行を止めることは出来るようになっていた。
 そして安倍晴明と蘆屋道満は、平安京全土を回って焔病の痕跡を調べ上げ、その結果、ある事実に気付いて調査も大詰めに差し掛かっていたのである。

 道満は晴明とともにその屋敷内の術工房で調査結果を検証する。

「やはり師よ――、この焔病、意図的に何者かによって振りまかれておるな」
「そのようですね。焔病が発生する地区は特定期間において一区域に集中――、そしてソレがまるで平安京全土を巡るように移動している」
「病の素を持ったナニカが平安京に巣食い、それが移動することでその周囲に焔病が広がる。……そういうことだな?」

 道満の言葉に晴明は頷いて答える。

「移動するナニカに対して、焔病が広がる区域は比較的狭いようです。これならその感染状況を調べ上げれば、移動するナニカの現在位置を捉えることは十分可能ですね」
「うむ――、それならば早速……」

 ――と、その時、不意に屋敷内に何者かが入ってきた。

「晴明様!!
「……? 梨花殿?」

 それは晴明の弟子であり、調査の手伝いのために街に出ていた梨花であった。

「大変です! 帝様が……!」
?! まさか!」

 その梨花の言葉に、さすがの晴明も顔を青くする。道満は至極冷静に梨花に訪ねた。

「梨花……、帝様になにかあったのか? まさか焔病?!
「……それが――、帝様がお倒れになったのは事実なのですが、ソレは本人が原因ではなく……」
「――?」

 道満が首を傾げる様を見て、梨花は慌てた様子で説明を始める。

「藤原忯子……という方をご存知でしょうか?」
「ええ……、その方は帝様がご寵愛なされている……。――あ」
「そうです……。その方に焔病の兆候が見られたと言うことで。現状治療法のない病故に……」
「そうか――、焔病は平癒法を用いねば数日で亡くなる……、故に」

 苦しげな表情をする晴明に梨花は頷く。

「はい……、もはやここまでかと帝様は思われたらしく。心を壊されて……」
「倒れた……か」

 道満はしかし冷静に梨花に尋ねる。

「しかし、ならば賀茂光栄の平癒法を行えば良い話では……」
「ソレが――」

 その道満の言葉に、梨花は驚愕すべき言葉を発する。

「無論、平癒法を試したのですが……」
「まさか! 効かなかったのですか?!

 梨花の言い淀む言葉に、晴明は驚きの言葉を返す。梨花は頷いて答えた。

「はい……、平癒法を行ってもその高熱は下がらず、ただ上昇してゆくのみで……、このままでは焔病の最終段階――、その身が燃え始めるのも時間の問題であるとして、藤原頼忠(ふじわらのよりただ)様の命ですでにその方は隔離されたとの話……」
「――」

 あまりのことに晴明は次の言葉を紡げなくなる。帝の近くでの話故に、かの関白・藤原頼忠がそう動くのは仕方がない話である。

「いくら帝様の寵愛を受けているとはいえ、その状況では見捨てざるおえない……か」
「はい……、何より帝様に感染等となったら、重大なことになる……と」

 道満の苦しげな言葉に梨花は頷く。
 その場に深い静寂が広がり、苦しげな表情の三人は小さくため息をついてお互いを見つめ合った。

「……完全な治療ができない以上、これは仕方がないことですね」
「だが……師よ、賀茂光栄の平癒法が効かぬとは――、一体何が起こっておるのだ?」
「賀茂光栄の考案した平癒法は、いわば身に受けた呪詛の効果を一時無効とするもの。薬物との併用である程度の術師なら誰でも行えるよう調整されたものです」

 晴明は深く思考しつつ話を続ける。

「……ある程度の術者なら誰でも出来る――、と言っても、その効果が低いわけではありません。焔病の呪詛としての仕組みに対抗する形で構成されているゆえに、焔病であれば平癒法は効果を発揮するはずなのです」
「――ならば、まさか焔病が……変化している?」
「……そう考えるのが普通でしょうな」

 道満の言葉に晴明が頷いて答える。
 まさに師である晴明の言う通り、もし平癒法が効かないのであれば、ソレは焔病がソレまでと違う形に変化したということであり……。

「梨花さん」
「はい?」

 晴明は真剣な表情で梨花に尋ねる。

「その女性に会うことは可能ですか?」
「――それが……」

 梨花は苦しげな表情で答える。

「もはや……誰も彼女に近づけることはならぬと――、兼家様もおっしゃって」
「兼家様が?」

 藤原兼家が、現在の関白である藤原頼忠の事を政敵とみなしているのは、ある程度内裏に近いものなら知っている話である。しかし……、

「さすがの兼家様も、この状況では藤原頼忠様の言葉を支持した……か」
「――」

 晴明のその呟きに道満は何やら眉を寄せて考え込んでいた。
 晴明と梨花は、それには気づかずにお互い顔を見合わせて話を続ける。

「しかし……こともあろうに帝様の――」
「そうですね。忯子様といえば……」
「帝様がかなり深くご寵愛なされていた女性――。この状況でお倒れになったのであれば、亡くなられたらどうなるか」

 それは誰でも想像できる事実であった。
 そうして晴明と梨花が会話する間も、道満は黙って思考を巡らせる。――彼の目には、これまでの焔病が発生した区域を示した地図が映っている。

(……おかしい、何かがおかしい――。帝様の住まう場所? その女御が住まう場所? そして――)

 その思考を整理するうちに、道満の心に何やら嫌な予感が浮かんだ。
 その時の道満は、その予感が何なのか気づくことができなかったのである。


◆◇◆


 寛和元年七月十八日――、時の帝、花山天皇に深く愛された女御・藤原忯子(ふじわらのよしこ)は十七歳という若さでこの世を去った。
 その事実を受け入れられない花山天皇は、その後も十数日にわたって深く嘆き悲しみ、それが収まってももはやこの世に未練はないとして出家を望むようになった。

 当時、関白を努めていたのは、かの藤原兼家の”かつての政敵”藤原兼通から指名を受けた『藤原頼忠』という人物であった。
 しかし、彼は様々な理由から限定的な政治力しか発揮しておらず、兼家にとっては排除すべき政敵としての優先順位は低かった。
 なぜなら――、花山天皇が退位し、兼家の娘の子である懐仁親王(やすひとしんのう)が天皇となれば……。
 そう……帝が変われば、藤原兼家はすべてをその手に握ることが出来る。
 憎き藤原為光も、そして現関白・藤原頼忠すら……。帝さえ退位すれば……。

 ――かくして、のちの平安京の政治を大きく変える事になる事件の兆しはここに起こる。……その裏に醜い闇を抱えながら。
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