第五十四話 兼家は窮地に追い込まれ、道満達はその裏にある闇を暴き出す
文字数 3,057文字
――聞いたか? また……だそうだ――。
またか? それは……なんとも解せぬ話だな――。
やはり、この焔病……、兼家様と――。
こら! 滅多なことを申すでない――。
しかし――。
藤原忯子がその若い命を散らしてから半月後、平安京の内裏内に妙な噂が広がり始めていた。
それは『焔病を平安京に広めたのは兼家様ではないのか? そもそも藤原忯子様が亡くなったのも……』という話であり、どこから広がったものかは分からなかったが、急速に内裏に広がりすでに兼家本人の耳にすら届いていた。
(……どういうことだ?! 何が起こっておる?)
その日も内裏を歩きながら兼家は唇を噛む。
周囲の公卿たちが、自分を見て何やらヒソヒソ話す様を、憎々しげに睨みながらその間を黙って歩いてゆく。
(おかしい! 何かがおかしい!! ……藤原忯子の件は――、密かに誰にも気づかれぬように配慮したはず。気付いたとしても証拠もなく……、それで収まるはずであった)
――しかし、内裏内に広がる噂は、当の兼家を窮地に追い込み始めている。この噂が帝の耳にでも届いた場合、彼が帝からどのような扱いを受けることとなるか……。
(なぜじゃ――、なぜ?!)
この噂は……実のところ、根も葉もないわけではなかった。なぜなら……、
「ああ……聞いたぞ? この間、兼家様に意見したあの方が焔病にかかったそうな」
「そうか――、またか。確か兼家様とは異なる意見を述べた、あの方もそうであったはず」
「……ここ最近、兼家様の周囲に焔病が起こり続けておる。それもだいたいが……」
そう……、ここ半月の間に、兼家の周囲で焔病が立て続けに起こっていたのだ、それも反兼家派と目される貴族・公卿ばかりその犠牲となっていた。
そして――、
「聞いた話では……、平安京で焔病が起こった場所も、兼家様がその前に訪問なされた場所ばかりであるという」
「それでは――、やはり焔病を広めているのは」
そこまで来ると、根拠も証拠もないただの噂であったが、一度噂が広まり始めると、それを止めることは誰にもできない。
噂はさらなる噂を呼び、不確かな情報が混乱を引き起こして、兼家に対する周囲の意見は急激に悪化していった。
兼家は顔を青くしながら考える。
(マズイ……このままではマズイ――。藤原忯子の件は……。だがしかし、それ以外はまろが広めたものでは決してない)
根も葉もない噂は広がり続け、そしてそれは一つの真実を世に暴き出そうとしている。
(このままでは藤原忯子の件が明るみに出ないまでも……、まろの策であるということが内裏に広まってしまう)
兼家は困惑し、頭を抱えて顔を歪めていた。その苦悩が深いほど、暗闇の中からその姿を嘲笑う何者かの笑いは深くなった。
その何者かは兼家の悩みを楽しむかのように、影からこっそりとその姿を見つめていた。
【兼家様――、もっと苦しんでください……】
それは、その場にいる誰にも見えない、形状も形もない、ただ空気のように存在しているだけの存在であった。
しかし、その存在は、兼家の魂を見透かすかのように深く、強く、そして冷たく兼家を見つめ続けていた――。
【あなたは――、自分が行った策謀で、自ら首を絞めてすべてを失うのです。それこそが……、あなたへの私の復讐――】
ただ嘲笑う、それだけが怨霊・乾重延の満足であり、その表情からは悪意の深さが滲み出ていた。
だからこそ――、彼はあえて兼家自身には焔病を感染させてはいない。焔病は兼家にとって致命的な疾患となって彼の命を奪うだろうが、それは乾重延にとっては楽しみを奪うものでしかない。
兼家を中心に広まった根も葉もない噂は、その起源を追えば、兼家に対する強い恨みを抱く誰かが作り出したものであった。そして、その噂が広まることで、皮肉にも兼家自身の行動が、自身の首を絞める結果を生み出してしまった。
兼家がこれまでに行ってきた行為が、結果的に自身の信用を失墜させ、逆に自分自身への攻撃となって返ってくる、そう――、まさしくそれこそが、怨霊・乾重延が望む結果だったのである。
【兼家様……、わたしはこの無限地獄であなたが来るのを待っております。早く……早く――】
彼がそっと呟いた言葉は、兼家の耳に直接届くことなく、まるで霞のように静かに消えていった。
しかし、その言葉に込められた強い意志は、兼家自身を内側から蝕んでいたのである。
◆◇◆
「やはりそうなのか?」
「――」
道満は顔を歪めながらそう呟き、それを晴明が黙って見つめる。
内裏の噂は当然のごとく蘆屋道満と安倍晴明の耳にも届いていた。
「やはり藤原忯子様を暗殺したのは兼家であり――、そして焔病自体も……」
「そう考えるのは早急ですよ」
道満の言葉に晴明は反論する。
「証拠自体はありませんが、藤原忯子様の暗殺が兼家様の策だとしても、焔病まで彼の仕業だとすることはできません」
「しかし……、噂の通り、兼家が出向いた場所に焔病は広がっていて……」
「それ以外にも焔病は広がっています。決して兼家様の周囲だけではない」
道満の考えに明確に反論する立場にあった晴明であったが、彼自身もまた一つの明確な結論に達しつつあった。
「おそらく藤原忯子様の件は……、兼家様によるものでしょう」
「師よ……」
その晴明の言葉に目を見開いて驚く道満。
「証拠がない……証拠がないゆえに、真実を知る手段も、彼の罪を裁く手段もありませんが。だからとて彼とは無関係な罪まで、彼に被せるのは間違っています」
「……しかし――」
「道満……、彼を嫌う気持ちはわかりますが、彼にすべての罪を被せることは、真犯人の罪を他人にかぶせて、それを見逃すことに繋がります」
「……む、確かに」
さすがの道満も考えを改める。
確かに兼家には藤原忯子を暗殺した罪がありそれを裁く必要はあるが、それ以外の罪を犯した真犯人と混同することなどできない。
「……しかし、ならば、だ。焔病を広めている真犯人は……、拙僧 のような考えを内裏に広めるために行っている?」
深く思考を巡らせた後、道満は自分の頭の中を整理して晴明に問いかける。その質問に対し、晴明は落ち着いて、しかし心からの笑顔で応えた。
「そうですね……、ここまで慎重に暗殺を行った兼家様が、まさか自分の首を絞めるような行動を取るとは思えません」
「嫌な信頼だが……、確かにそうだな。拙僧 は兼家の所業に目がくらんで、真実を見逃すところだったか……」
「ええ、このまま噂が広まって、帝様の耳に入れば最悪の事態になるのは必定。真犯人の望みはまさにそれでしょう」
晴明は深く思考しながら話を続ける。
「考えてみてください。噂は噂でしかなく、論理的に考えれば兼家様の仕業ではないことは明白。でも……それまでの兼家様の所業、そしてそれで買った恨みの数々が、この状況を利用して兼家様を追い落とそうと動くはずです」
「証拠がない……証拠がないからこそ噂は広がり――、兼家の首を絞める……か、なんとも皮肉な話だな」
「さて……ならば、今真犯人は兼家様を追い落とすべく全力をかけている筈」
その晴明の言葉に道満は深く頷く。
「ならば……兼家の周囲を探れば――真犯人はおのずと見つかる!」
道満のその言葉に晴明も頷く。
かくして、絶望が渦巻く平安京を救うべく道満と晴明は立ち上がる。その進む先にいるのは怨霊・乾重延であるが今の彼らはそれを知らない。
しかし、進む先の見えぬ漆黒の闇の中で、彼らは確かに未来を切り開くための一歩を踏み出したのである。
またか? それは……なんとも解せぬ話だな――。
やはり、この焔病……、兼家様と――。
こら! 滅多なことを申すでない――。
しかし――。
藤原忯子がその若い命を散らしてから半月後、平安京の内裏内に妙な噂が広がり始めていた。
それは『焔病を平安京に広めたのは兼家様ではないのか? そもそも藤原忯子様が亡くなったのも……』という話であり、どこから広がったものかは分からなかったが、急速に内裏に広がりすでに兼家本人の耳にすら届いていた。
(……どういうことだ?! 何が起こっておる?)
その日も内裏を歩きながら兼家は唇を噛む。
周囲の公卿たちが、自分を見て何やらヒソヒソ話す様を、憎々しげに睨みながらその間を黙って歩いてゆく。
(おかしい! 何かがおかしい!! ……藤原忯子の件は――、密かに誰にも気づかれぬように配慮したはず。気付いたとしても証拠もなく……、それで収まるはずであった)
――しかし、内裏内に広がる噂は、当の兼家を窮地に追い込み始めている。この噂が帝の耳にでも届いた場合、彼が帝からどのような扱いを受けることとなるか……。
(なぜじゃ――、なぜ?!)
この噂は……実のところ、根も葉もないわけではなかった。なぜなら……、
「ああ……聞いたぞ? この間、兼家様に意見したあの方が焔病にかかったそうな」
「そうか――、またか。確か兼家様とは異なる意見を述べた、あの方もそうであったはず」
「……ここ最近、兼家様の周囲に焔病が起こり続けておる。それもだいたいが……」
そう……、ここ半月の間に、兼家の周囲で焔病が立て続けに起こっていたのだ、それも反兼家派と目される貴族・公卿ばかりその犠牲となっていた。
そして――、
「聞いた話では……、平安京で焔病が起こった場所も、兼家様がその前に訪問なされた場所ばかりであるという」
「それでは――、やはり焔病を広めているのは」
そこまで来ると、根拠も証拠もないただの噂であったが、一度噂が広まり始めると、それを止めることは誰にもできない。
噂はさらなる噂を呼び、不確かな情報が混乱を引き起こして、兼家に対する周囲の意見は急激に悪化していった。
兼家は顔を青くしながら考える。
(マズイ……このままではマズイ――。藤原忯子の件は……。だがしかし、それ以外はまろが広めたものでは決してない)
根も葉もない噂は広がり続け、そしてそれは一つの真実を世に暴き出そうとしている。
(このままでは藤原忯子の件が明るみに出ないまでも……、まろの策であるということが内裏に広まってしまう)
兼家は困惑し、頭を抱えて顔を歪めていた。その苦悩が深いほど、暗闇の中からその姿を嘲笑う何者かの笑いは深くなった。
その何者かは兼家の悩みを楽しむかのように、影からこっそりとその姿を見つめていた。
【兼家様――、もっと苦しんでください……】
それは、その場にいる誰にも見えない、形状も形もない、ただ空気のように存在しているだけの存在であった。
しかし、その存在は、兼家の魂を見透かすかのように深く、強く、そして冷たく兼家を見つめ続けていた――。
【あなたは――、自分が行った策謀で、自ら首を絞めてすべてを失うのです。それこそが……、あなたへの私の復讐――】
ただ嘲笑う、それだけが怨霊・乾重延の満足であり、その表情からは悪意の深さが滲み出ていた。
だからこそ――、彼はあえて兼家自身には焔病を感染させてはいない。焔病は兼家にとって致命的な疾患となって彼の命を奪うだろうが、それは乾重延にとっては楽しみを奪うものでしかない。
兼家を中心に広まった根も葉もない噂は、その起源を追えば、兼家に対する強い恨みを抱く誰かが作り出したものであった。そして、その噂が広まることで、皮肉にも兼家自身の行動が、自身の首を絞める結果を生み出してしまった。
兼家がこれまでに行ってきた行為が、結果的に自身の信用を失墜させ、逆に自分自身への攻撃となって返ってくる、そう――、まさしくそれこそが、怨霊・乾重延が望む結果だったのである。
【兼家様……、わたしはこの無限地獄であなたが来るのを待っております。早く……早く――】
彼がそっと呟いた言葉は、兼家の耳に直接届くことなく、まるで霞のように静かに消えていった。
しかし、その言葉に込められた強い意志は、兼家自身を内側から蝕んでいたのである。
◆◇◆
「やはりそうなのか?」
「――」
道満は顔を歪めながらそう呟き、それを晴明が黙って見つめる。
内裏の噂は当然のごとく蘆屋道満と安倍晴明の耳にも届いていた。
「やはり藤原忯子様を暗殺したのは兼家であり――、そして焔病自体も……」
「そう考えるのは早急ですよ」
道満の言葉に晴明は反論する。
「証拠自体はありませんが、藤原忯子様の暗殺が兼家様の策だとしても、焔病まで彼の仕業だとすることはできません」
「しかし……、噂の通り、兼家が出向いた場所に焔病は広がっていて……」
「それ以外にも焔病は広がっています。決して兼家様の周囲だけではない」
道満の考えに明確に反論する立場にあった晴明であったが、彼自身もまた一つの明確な結論に達しつつあった。
「おそらく藤原忯子様の件は……、兼家様によるものでしょう」
「師よ……」
その晴明の言葉に目を見開いて驚く道満。
「証拠がない……証拠がないゆえに、真実を知る手段も、彼の罪を裁く手段もありませんが。だからとて彼とは無関係な罪まで、彼に被せるのは間違っています」
「……しかし――」
「道満……、彼を嫌う気持ちはわかりますが、彼にすべての罪を被せることは、真犯人の罪を他人にかぶせて、それを見逃すことに繋がります」
「……む、確かに」
さすがの道満も考えを改める。
確かに兼家には藤原忯子を暗殺した罪がありそれを裁く必要はあるが、それ以外の罪を犯した真犯人と混同することなどできない。
「……しかし、ならば、だ。焔病を広めている真犯人は……、
深く思考を巡らせた後、道満は自分の頭の中を整理して晴明に問いかける。その質問に対し、晴明は落ち着いて、しかし心からの笑顔で応えた。
「そうですね……、ここまで慎重に暗殺を行った兼家様が、まさか自分の首を絞めるような行動を取るとは思えません」
「嫌な信頼だが……、確かにそうだな。
「ええ、このまま噂が広まって、帝様の耳に入れば最悪の事態になるのは必定。真犯人の望みはまさにそれでしょう」
晴明は深く思考しながら話を続ける。
「考えてみてください。噂は噂でしかなく、論理的に考えれば兼家様の仕業ではないことは明白。でも……それまでの兼家様の所業、そしてそれで買った恨みの数々が、この状況を利用して兼家様を追い落とそうと動くはずです」
「証拠がない……証拠がないからこそ噂は広がり――、兼家の首を絞める……か、なんとも皮肉な話だな」
「さて……ならば、今真犯人は兼家様を追い落とすべく全力をかけている筈」
その晴明の言葉に道満は深く頷く。
「ならば……兼家の周囲を探れば――真犯人はおのずと見つかる!」
道満のその言葉に晴明も頷く。
かくして、絶望が渦巻く平安京を救うべく道満と晴明は立ち上がる。その進む先にいるのは怨霊・乾重延であるが今の彼らはそれを知らない。
しかし、進む先の見えぬ漆黒の闇の中で、彼らは確かに未来を切り開くための一歩を踏み出したのである。