第1話

文字数 2,861文字

 結婚して4年経つ長原詩織は 流産の処置が終わり退院を明日に控えて居た。
 ここ2.3年前に建てられた新しいこの産婦人科で『妊娠5週目』と診断されたのは6日前の事だった。
診察室で妊娠との診断を知らされて、詩織と夫の亮平は共に手を握り合って喜んだ。その姿を見ていた中年の女医も目を細めて祝福していた。

 その3日後、詩織に異変が起きた。腹痛と出血があり、夫婦で病院に駆け込んだ。
 あの微笑ましく目を細めて居た女医も真剣な顔で出迎えて、直ぐにエコーで確認した。
「切迫流産です。入院して点滴の処置をします。兎に角安静を保つ様にして下さい」
と説明した。
 事態に動揺して居る二人に対し、看護師は素早く車椅子を用意し
「奥さん、ゆっくり座ってください。案内しますね」
と、詩織を乗せて病室へゆっくりと押し始めた。
 詩織は、兎に角大切な命を助けたい…『ごめんね…。お願い…』何故かこればかり頭に浮かぶ。
 病室に着いてベッドに横になった詩織の腕に看護師は手際良く注射針を刺し点滴を繋げた。看護師は薬液が処方通りに流れる様に器械をセットされたのを確認して退室した。
 詩織は点滴の落ちる水滴をジッと見つめた。
 亮平は
「マグカップどこに置く? 」
と入院の荷物を収納棚に入れ始めた。
「あっ、ここのテーブルに置いて」
「分かった。テレビのリモコンもここに置くよ」
「ありがとう」
荷物を片付けて貰って居る時に初めてここの病室の一つ一つが可愛らしい物が用意されている事に気付いた。
壁紙がパステルカラーのチューリップ柄、収納棚の取手がお洒落なガラスの摘みが取り付けられている、チェストの下部に猫足…、北欧風と云う感じなのだろうか…。
 いつもならお洒落な部屋を見てときめくだろう。今はそんな気にもなれなかった。

 入院し二日目の日、トイレに行こうとするとシーツが鮮血で濡れている事に気づいた。
 詩織はナースコールを押し、震える声で
「すみません、出血が…出血が…」
と伝えた。
「今行きます」
と看護師の声と共に廊下を走る足音が響いた。
 口に手を当てオロオロして涙を流して居る詩織に
「今先生を呼んで診察しますからね。椅子に座りましょう」
と看護師が声を掛けた。が、それも耳に入らず血液の付いたパジャマのままガクガク震えて立ち尽くして居た。
 看護師はシーツを素早く交換し、ラバーシーツと横シーツを更にベッド上に敷いた。
「長原さん、診察しますので横になってください」
 詩織は言われるがまま臥床した。看護師が超音波の機械をゴロゴロとキャスターの音を立ててベッド横に運んだ。
 と同時に女医も駆けつけて
「ちょっと赤ちゃんの状態見せてくださいね」
と診察を始めた。
 看護師の気遣う気配が不穏な空気を誘った。審判が降る様に、詩織は祈りながら診察を受けた。その時女医が言った。
「よく見てみましたが、残念ながら流産です」
 詩織の
「…ごめんね。ごめんね」
と言いながら泣く声が病室に響いた。

 次の日掻爬術が行われ、再び病室に戻った。麻酔から覚めて意識がハッキリすると、亮平の顔が見えた。
「痛みはどうだ? 」
「有るけど大丈夫。ごめんね…」
「詩織は悪くない。数日間だけど赤ちゃんを守ってくれてありがとう」
 亮平は詩織の頭を撫でた。亮平の『ありがとう』という言葉で重積が少し報われた様に感じ、詩織は久しぶり笑顔を見せた。
 亮平は床頭台に設置されたテレビを付けた。ニュース番組が画面に映し出された。
「次のニュースです。今日未明、三歳の野中莉音ちゃんが自宅でグッタリして居るとの119番通報があり、病院に搬送されましたが死亡が確認されました。
 莉音ちゃんの身体にはアザ等が多数見られ、虐待を受けて居た可能性が有るとして、父親の野中誠一容疑者と、母親の野中ひとみ容疑者から事情を聞いてます」
とのアナウンサーの説明と共に莉音ちゃんの可愛らしい画像がテレビ画面に映し出された。
「可哀想に…。辛かったよね。ウチに生まれてくれれば良かったのに…」
と詩織が切ない思いで言った。
「ここに生まれても良かったの?」
幼子の声が聞こえた。亮平と詩織がふと見ると、ベッドの横に今の画像に映し出されて居た莉音ちゃんが居た。キョロキョロと可愛らしい顔だが神妙な顔つきで、詩織と亮平の顔を交互に見て居る。
 亮平も詩織も驚きで言葉を失った。しかし恐怖心は無かった。
「どうしてここに? 」
詩織が聞くと、
「ここに生まれてくれればって言ってたから」
と言いながら、莉音はいけない事をしたのではと怯えた顔をして
「ごめんなさい、ごめんなさい、莉音来てごめんなさい」
と言いながら消えかけた。
「良いのよ、ビックリしただけよ。心配しないで。明日おじさんとおばさんのお家に一緒に行こう」
「いいの? 」
莉音の消えかけていた姿が再びハッキリとした。
「うん、僕達と一緒に行こう。明日お家に帰るからね。一緒に遊ぼう」
 莉音は警戒した表情を残しながらもニッコリ笑った。そして更に話した。
「莉音ね、背中痛い痛いなの」
「えっ?背中? 」
亮平と詩織に莉音は背中を見せた。小さな可愛らしい背中は痩せて骨が浮き出ており、酷く痛々しい火傷の跡があった。
 その時莉音の虐待のニュースの説明の続きが流れてきた。
「莉音ちゃんの死因は、虐待により背中に火傷を負い、放置された間に感染症が発症した事が原因と見られてます」
 この事実を目の当たりにして、只々亮平と詩織は今起きて居る出来事の驚きと惨さで絶句した。
 絶句の後、
「痛かったね。我慢いっぱいしたね。良い子だね莉音ちゃん」
そう言って莉音の頭を撫でながら夫婦共に、莉音の背負って来た負担の大きさに胸を締め付けられた。
 亮平が帰路に着く頃には面会時間終了が間近だった。詩織は莉音と2人きりになると、スケジュール帳を取り出して絵描き歌であやした。
「面白いね」
ベッドに並んで莉音は詩織の横に座って、脚をバタバタさせて喜んでいる。その脚にはアザが無数に有る。痛々しいが仕草は無邪気な子供だ。詩織は莉音への愛おしさが増して行った。
 消灯時間になった。看護師が病室に入って来て「おやすみなさい」
と声を掛けながら照明を消した。看護師には莉音は見えないらしい。取り敢えず詩織は寝ようと莉音に声を掛けた。そして布団を広げて手招いた。莉音は首を傾げて
「莉音お布団で寝るの? 」
「うん、そうよ」
「莉音はいつも床で寝てるよ」
「えっ?床で?痛くない?それに寒いでしょう? 」
小さな莉音から出た言葉に、また胸を締め付けられる。
「痛く無いよ。莉音はお布団要らないって」
そう言われて暮らしていたのか…。詩織は思わず涙が出そうになるが堪えて微笑んで見せた。
「お布団気持ちいいよ。おいで。一緒にお布団で寝よう」
詩織は布団の上で手を広げた。莉音は不思議そうにベッドによじ登って来た。詩織はそっと腕枕をして布団を掛けてやると
「温かくて気持ちいい」
と莉音が微笑んだ。柔らかい莉音の髪と頬を感じながら詩織は莉音の腕を優しくトントントン…とあやした。やがて莉音の可愛い寝息が聞こえて来た。
 
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