師走(四)過ぎゆく年

文字数 2,846文字

 栄吉は、希望通り都内の病院に転院してそちらで検査を受けることになった。長距離移動ということで、民間の救急車を使うという話も出たが、栄吉の体力にさほど心配はないだろうという医師の助言で、政興の車での移動が決まった。当然、文江と久興も付き添い、途中何度も休憩を取りながら、ゆっくりと東京に向かった。
 受け入れる側も態勢を整えていた。入院中の栄吉の世話は、横浜の節子たちが引き受けるため、その準備を進めていた。一方、栄吉の入院中、文江が浩一のマンションで由紀子と暮らせるよう、浩一はマンションの片付けに追われた。由紀子も荷物をまとめ、その日に備えている。保子は一家の家事に加え、のどかやまどかの世話に明け暮れ、多恵も新生児の育児に必死の毎日だった。
 それぞれが忙しい時間を過ごす中、栄吉の検査も終わり、特に大きな問題はないということで、退院の話が決まった。
 
 その日、由紀子は栄吉に呼ばれて病室を訪れていた。
「よかったわね、おじいちゃん、特に悪いところはなくて。みんなとても喜んでいるわよ。でも、内臓が弱っているらしいから大事にしないとね」
「そうだな、でももう歳だから弱ってきて当然じゃよ。それにしても心配をかけてしまったな、みんなに悪かったと言っておくれ」
「おじいちゃん、リンゴでもむきましょうか?」
「いや、由紀子、ここにかけてくれないか」
 由紀子は、栄吉の枕元に椅子を置いて座った。
「なあに? おじいちゃん」
「由紀子、実はな、倒れた時、わしは三途の川を見たんじゃ」
「やだ、おじいちゃん……」
「誰にも言わなかったが、ホントじゃよ。でもな、その時由紀子の顔が浮かんだんだ。そして、
(そうだ、由紀子の花嫁姿を見るまで死ぬわけにはいかん!)
そう強く思ったんじゃ。体がダメならせめて魂だけでもこの世にいようと、必死に抵抗した。そうしたら、目が覚めてお前たちの顔があった」
「おじいちゃん……」
「わしは、お前のおかげで生き返れたんだよ。ありがとうな」
「そんな……私の方こそ、元気になってくれてありがとう、おじいちゃん」
「去年の今頃な、ばあさんと話してたんだ。もういつお迎えが来てもいいと。でもその前に一度、上京してみんなに会ってこようということになってな。
 そして、久しぶりにみんなの顔が見られて本当に行って良かったよ。特に、由紀子、お前にはとても優しくしてもらって、ばあさんとふたり、いつも話していたんじゃよ。由紀子には幸せになってもらいたいと」
「…………」
「そんな時、由紀子が結婚、それも相手はあの時の青年だというではないか。それは嬉しかったな……好青年だという印象はあったし、私たちが少しでもふたりの出会いに関われたのじゃからな」
「本当よ、おじいちゃんたちがいなかったら、私は直樹さんには出会えなかったわ。すごく感謝しているのよ、私たちふたりとも」
「あとは、おまえの花嫁姿さえ見られたら、今度こそ思い残すことはないさ」
「そんなこと言わないで長生きして、お願いだから……おじいちゃん」
「由紀子、人には寿命というものがあるんだよ。わしは、ひと月おまけしてもらったというわけだ。それでな、その時が来たら、残していく文江のことをくれぐれもよろしく頼むと、政興にそう言っておくれ」
「だからおじいちゃん、そんなこと言わないでってば」
「大丈夫だよ、式までは何が何でも元気でいるからな。そして、かわいいひ孫の顔を文江に見せてやっておくれ」
 由紀子は、涙をこぼしながらも笑顔で頷いた。
 
 クリスマスイルミネーションで華やぐ街を、由紀子と直樹は肩を寄せ合い歩いていた。
「ふたりで迎える初めてのクリスマスだね」
「そうね、去年の今頃はまだ出会っていなかったんですものね」
「そして、恋人として過ごせるのはこの一度きり。来年は、夫婦でこの道を歩くことになるんだから」
「そうね、そうなるのね」
「ひょっとして、この手に小さな命が抱かれていたりして」
「え?」
 直樹は、恥ずかしそうに話題を変えた。
「年末に、母がシンガポールから帰国するんだ。黒木さんと凜ちゃんは年が明けてからだそうだが、母は日本で年越しをしたいみたいでね」
「そう、よかったわね、もう一度、母子水入らずでお正月を迎えられて」
「でも、新居に君より先に母を迎えるというのがちょっとね……」
「あら、いいじゃない、お母さんがきっと住みやすいようにして行って下さるわ。私はうれしくてよ」
「君も、おじいさんやおばあさん孝行でこの年末は大変だね」
「ええ、こんな機会はそうはないと思うから有難いと思っているの。精いっぱいお世話して、たくさん甘えるつもりよ」
「そうだね、僕もおじいさんたちにはとても感謝しているから、できるだけ顔を出させてもらうよ」
「ああ、それからね、実家の方なんだけど、お兄さんたち、このまま同居になるみたいなの。近々改築の計画もあるみたい。だから、早紀子は今のまま横浜で間借りすることになりそうよ。伯母は要らないと言っているそうだけど、食費と光熱費くらい入れなきゃ、なんて偉そうなことを言ってたわ」
「それは、ビッグニュースだね」
「ええ、私も驚いたわ。なんだか思ったより、母と多恵さんがうまくいっているみたいなの。私や早紀子が家を出て寂しい思いをしているところに、孫たちを連れて多恵さんがやって来たから、きっとタイミングが良かったのね。誰よりもお兄さんが喜んでいるみたいだけど」
「僕もうれしいよ」
「あら、どうして?」
「だって、これで君は完全に僕のものになった気がするからだよ。もう、君の帰るところは僕のところだけだからね」
「直樹さんたら……」
「疲れない? どこかでお茶でも飲む?」
「いいえ、こうしてただ歩いていたいわ」
 そう言って、由紀子は直樹の腕にそっと手をかけた。ふたりはそうして雑踏の中を歩き続けた。
 
 マンションに戻った由紀子は、寝室を覗き、祖父母に変わりがないのを確認した。それからリビングに入ると、壁のカレンダーに目をやった。そして、用意しておいた来年のカレンダーを取り出すと並べて壁に掛け、ペンをとった。「2020」と書かれた表紙の端をめくり、一月十二日のところに「幸」と書き入れ、表紙を戻した。
 そして、しばらく二つのカレンダーをじっと見つめていた。
 ちょうど去年の今頃、実家の居間にカレンダーをかけた時は、来年はいったいどんな年になるだろう? となぜかとても気になった。何か予感が働いたのだろうか……そう思えるほど由紀子にとって、この一年はこれまでの平穏な暮らしとはまるで違うことが、次々と起こった。
 そんな二〇一九年も終わりを告げようとしている。もう、来年はどんな年に? などと考えることはなかった。感慨深げに見つめる来年のカレンダーには、もうすでに直樹との幸せな日々が描かれていた。


                 完

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