弥生(三)母ひとり子ひとり

文字数 2,787文字

 今日は由紀子が休みを取り、直樹と久しぶりのデートを楽しむことになっていた。平日の仕事帰りに待ち合わせて食事をする以外に、一日ゆっくり過ごすためにはこうするしかない。これからも月に一度くらい、由紀子は休みを取ることになるだろう。
 今回、ふたりが足を運んだのは美術館だった。特に由紀子が絵画に興味があるというわけではない。ただ、静かで落ち着いたところがいいという由紀子の希望をくみ、直樹が選んだのだ。
 ひと月前、真中家を訪れる途中で、直樹から母親に紹介したいと言われたことが頭に残っている由紀子は、いつ自宅に招かれるかとずっと気にかかっていた。しかし、直樹はあれ以来その話はしない。忘れてしまったのならその方が助かるが、もしかしたら母親が反対しているのではないだろうか、と由紀子は今度はそれが気になりだした。何と言っても大事な一人息子なのだから。
 
 静まり返った館内を、ふたりで作品を眺めて歩くのは心が落ち着く。平日ということで館内がとても空いていたというのもあるだろう。そういう意味では平日しかデートができないというのも悪くないかもしれない。
 そして、ある絵の前でふたりは足を止めた。しばらく見てからふたりは顔を見合わせた。
「由紀子さんもこの絵が気に入りましたか?」
「ええ、あの湖の色はなんて神秘的なのでしょう。モデルがあるとしたら見てみたいです」
 
 ふたりはその後、館内にある喫茶室で休むことにした。
「今日はありがとうございました。美術館なんて、とても私には思いつかない所でした」
「そうですか、楽しんでもらえたようでよかったです。ところで、先日のメールでお聞きしましたけど、お兄さん、お子さんが生まれるそうでおめでとうございます」
「ありがとうございます。三人目ですし、まだ半年以上も先のことですけど」
「ご家族の中で、お兄さんだけにまだお会いしていないのが気になっていたんですよ。一緒にお祝いに行けるといいですね」
 そう言われて、由紀子は自分も気になっていることを聞いてみようと思った。
「あの、前に、直樹さんのお母さんに紹介していただくというお話があったと思うんですけど……」
「ああ、そのことでしたらいいですよ、慌てなくても」
 そう言われると、余計気になる。
「あの、何か不都合なことでも?」
「いいえ、あの時、由紀子さんが乗り気ではないのがわかったので、時期を待とうかと思っているだけです。母とふたりきりの暮らしに触れるというのは、相手の女性にとって気持ちのいいものではないかもしれませんからね」
 由紀子は、直樹が細やかな性分だということを思い出した。あの時の自分の反応が直樹にブレーキをかけさせていたのだ。でも、このまま付き合いが続けばいずれは会うことになる。しかも自分の両親にはすでに直樹を紹介済みだ、早い方がいいかもしれない。
「私やっぱり、直樹さんのお宅に伺ってもいいですか?」
「え?」
 意外そうな直樹の表情が、一瞬で、笑顔に変わった。
「じゃ、これから行きましょう」
「ええ! 今からですか?」
「善は急げと言いますよね」
 そんな直樹に見つめられ、由紀子は流れに任せることにした。
 
 電車を乗り継ぎ、連れていかれたのは駅から十分ほど歩いたところにある三階建てのこじんまりとしたマンションだった。その三階の一室の前で、直樹は立ち止まった。
「ここです、狭いところですが、どうぞ」
 そう言うと直樹はドアを開け、母親を呼んだ。そして、中から驚いた顔で現れたひとりの女性に向かって、由紀子を紹介した。
「母さん、こちら真中由紀子さん、僕の大切な人だよ」
「え! まあ、ようこそ、母の美沙子です。直樹、いきなりでびっくりするじゃない、連絡くれればよかったのに」
「ありのままを見てもらいたいからいいんだよ」
 それを聞いて驚いたのは由紀子の方だった。直樹の母というにはあまりにも若い女性が現れた上に、自分の訪問が了解を得た上ではないとわかったからだ。
「真中由紀子です。あの、すみません、突然お伺いしまして。今日は急に連れてきていただきましたので、ご挨拶だけでまた今度寄らせていただきます」
 帰ろうとする由紀子を、直樹は慌てて引き留めた。
「今さら何言ってるんですか。さあ、上がって、いいからいいから」
 
「ごちそうさまでした」
「わかっていれば、何か用意したのに。今日はこの子はデートだと言うので食事も済ませてくるだろうと思っていたの。こんな店屋物でごめんなさい」
「母さん、無理しなくていいんだよ、さっき仕事から帰って来たばかりだろう? そうやって母さんが気にすると思って、わざと連絡しなかったんだ。どうしても今日、由紀子さんを連れてきたいという僕のわがままからさ。由紀子さんの気が変わらないうちにと思ってね」
 六畳ほどの狭いダイニングキッチンは、きれいに整頓されていた。ずっと仕事をしてきた美沙子は、何事にも手際がいいのだろう。
 そして、見た目もとても五十二歳には見えなかった。端正な顔立ちといい、すらっと背の高いところといい、直樹が母親似だということはひと目でわかる。と同時に、若くして未亡人になりずっと独身を通しているという美沙子が、その美しさのせいか、由紀子にはとても不思議に映った。
「直樹のこと、よろしくお願いします」
 小一時間を過ごし、由紀子が水沢家を後にする時、美沙子はそう言った。
 美沙子が自分を温かく迎えてくれたことに安堵する一方で、母と子の深い絆を感じずにはいられなかった。直樹も早いうちにその免疫をつけてほしいと思ったのかもしれない。間に入る直樹本人も、それなりに大変なのだ。
 
 送ってもらう帰り道、由紀子が言った。
「素敵なお母さんですね」
「まあ、そうかな。いっしょに歩くと、姉弟に間違えられたりして。一度なんて恋人に間違えられちゃって」
 そう言って直樹は照れたように頭をかいた。
「わかる気がします……」
「誇れる母に、自慢の彼女を紹介できて、今夜は最高の夜だったな。由紀子さんのおかげです。本当にありがとう」
「そんな、自慢だなんて……でも、私も安心しました。もしかしたら、大切な息子さんを取られると、お母さまが反対なさっているのではないかと心配でしたから」
「そんなこと思っていてくれたんですか? それはうれしいな。でも、そんな心配は無用です。僕が選んだ女性ならもちろん母は大賛成ですよ」
 その言葉が由紀子にはひっかかった。母子の固い絆、私に入り込む余地などあるのだろうか?
 その時だった、急に直樹に抱き寄せられ、由紀子は唇を重ねられた。ふいをつかれ、抵抗すべきか否か、判断できないうちに直樹の唇は離れた。人影がまばらになった街角でのほんの一瞬の出来事だった。

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