文月(三)伯父からの祝福

文字数 2,971文字

 その日、急に世田谷の伯父から誘いの電話があった。雨の中、由紀子は仕事帰りに指定された店へと向かった。こじんまりとした店構えの、落ち着いた雰囲気が漂う店内に入ると、奥にひとつだけある個室へ通された。そこにはすでに政興が待っていた。
「お待たせしてすみません」
「いや、こちらこそ、急に呼び出したりして悪かったね。それも、こんな雨の中」
 政興は、ボーイに目配せをして料理を運ばせた。
「まずは乾杯といこうか。由紀ちゃんの婚約と私の再出発を祝して!」
 二人はワインを手に取り、グラスを重ね合わせた。それから、ナプキンを膝に当て料理に手をのばした。
「水沢直樹君と言うんだって? いい人だそうだな。和孝も気に入っているようだね」
「ええ、あ、はい」
「本当におめでとう。金沢へ引っ込んだら、由紀ちゃんにお祝いを言える機会もなくなるだろうと思って、急に思い立ってこうして誘ってしまったが、ありがた迷惑だったかな?」
「いいえ、とんでもありません。お気持ち、とてもうれしいです」
「結婚は一生のことだから、いい相手に巡り合えたというのは何よりだ。私が言うのもおかしいな」
 政興は、自嘲的な笑みを浮かべた。
「いいえ、そんな……」
「香津子とは別れることになってしまったが、みんなが思っているほど悪い妻ではなかったんだよ」
「…………」
「たしかに、虚栄心が強くて、伯母としては取っつきにくかっただろうね。長男の嫁としての自覚も足りなかったと思うよ。でも、それは妻の育った環境のせいで、私もそれを承知で結婚したのだから、今さらそれを責めたりはできないさ」
「今でも、伯母さんのことが気にかかるのですね?」
「この歳だから、情が残るとでも言えばいいのかな。私の子どもたちを生み、育ててくれたわけだし……せっかくここまで連れ添ったのだから、できれば最期までともに過ごしたかったと思うよ。別にけんか別れしたわけでもないからね」
「それなら――」
「でもね、由紀ちゃん、お互いどうしても譲れないことってあるんだよ。
 私はこれまで、長男であるのに両親のことは放っておいた。元気なうちはそれも許されると思っていたんだ。自分の仕事や家庭のことで、こちらも手いっぱいだったからね。
 でも、子どもたちの手が離れ、公私にわたって世話になった義父も見送った。そして、自分の両親が年老いてふたりで暮らしている。今こそ、長男としての役目を果たす時がきた、私はそう思ったんだよ。
 それで、香津子に丁寧に私の気持ちを伝え、いっしょに金沢に行くように頼んだんだ。だが、答えはノーだった。香津子にはどうしても、それだけはできないことだったんだと思うよ。香津子の気持ちもわかるんだ、この歳になって、これまでの生活を根底から変えるようなこと、そう簡単にはできないからね。
 最期は、互いの実家を取るということになってしまったわけだ。まあ、私が抜けたことで、香津子も弟との溝がなくなり、これで良かったんだと思ってるよ」
 由紀子は、政興の話をただ黙って聞いていた。
「これから幸せになろうとしている人に、変な話をしてしまったな。さあ、食べよう」
 
 食事が終わって、コーヒーを飲み始めた時に、由紀子が尋ねた。
「伯父さんたちは、恋愛をして結婚したんですか?」
「恋愛? いや、私は女性にはとんと疎くてね。わかるだろう?」
 政興は照れくさそうに、コーヒーを口にしてから、話を続けた。
「若い頃から、友人たちが女性を追いかける気が知れなかったんだ。よく言えば堅物、まあ悪く言えばつまらない男だってことだよ。自慢にならないとわかってて言うのだが勉強の虫だったからな。
 そんなだから、女性にはまったく縁がなくて、ずっと独身でいいと思っていたくらいだったよ。妻とは見合いのようなもので、恋だ何だってことはなかったな。あれの父親を尊敬していたから、その人の娘なら間違いないと思った、今思うと、それが大きかった気がする。だから、その父親がいなくなった途端、私たちの間は壊れてしまったのかもしれないね。
 でも、結婚生活は決して悪いものではなかったよ」
「伯母さんのことは、結婚してからお好きになったってことですか?」
「好きって感情は、正直今でもわからないんだ。尊敬する義父から是非にと請われて結婚を決めた。そう、いきなり家族になったって感じかな。香津子のことは、父親を通して見ていた気がする。女性というより、初めから人生をともにするパートナーという存在だったんだ。
 妻は結婚すると家のことはちゃんとやってくれたし、私にもよくしてくれた。まあ、外から見れば、気の強い女房に頭の上がらない亭主としか見えなかっただろうが、家庭はちゃんと築けたと思うよ」
 由紀子は、ふと、香津子の気持ちを知りたくなった。父親を尊敬しているから自分と結婚したと言われたら、女としてどんな気持ちだろう? それに女性というより最初から家族だと言われたら……きっと腹立たしいに違いない。そしてこの上なく哀しいだろう。
 香津子もそれとなく政興のそんな気持ちに気づいていたのかもしれない。であれば、そんな相手について、知らない土地に行こうとは思わなくて当然な気がした。これまでは、自分とは別の人種のように思っていた由紀子だったが、初めて香津子を身近に感じた。
 そして、また一方で、この伯父もぐっと近くに感じた。自分は伯父に似ていると思ったからだ。異性を好きになる気持ちがわからない、これは血筋だろうか? そう思えるくらい、以前の自分にそっくりだった。
 伯父は自分の知らない所で、香津子を長年、いや、最初から傷つけてきたのだ。女として見たことがないという、女性にとってはこれほど悲しいことはないようなひどいことを、伯父はそうと気づかないからできたのだろう。
 でも、この私だって、直樹に出会わなければ、そして、お節介な妹がいなかったら、この伯父と同じような道をたどるかもしれない。感情ではなく状況で結婚し、その変化によっては破たんする、そんな道を。
 
「由紀ちゃんの幸せな話を聞かせてくれないかな? 彼とはどこで知り合ったんだい? 直樹君の一目ぼれかい?」
 由紀子は、直樹との出会いを打ち明けた。
 
「そうだったんだ、父さんたちがキューピットだったとは驚きだね」
「あ、でも、内緒にしていただけますか? みんなには、友人の紹介で知り合ったことにしてあるんです。自分だけが、おじいちゃんたちから贈り物をもらってしまったことを話せなくて、つい、そう言ってしまって……」
「あはは、小さな嘘でも隠し通すとなると大変だな。わかったよ、由紀ちゃんとふたりの秘密ができたわけだね」
「伯父さん、ありがとうございます」
「でも、父さんや母さん、ずいぶんとまた、いいことをしたもんだ。父さんたちには報告済みかい?」
「いいえまだです。夏休みに金沢へ報告に行こうと思っています。電話ではなく、直接伝えたいので」
「ぜひ、そうしてやっておくれ。私はこっちが片付いてから行くことになるけど、また向こうで会えるといいね」
 二人は、それからしばらく、楽しい会話に花を咲かせた。
 外の雨はやんでいた。そろそろ梅雨も明ける頃だった。

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