霜月(四)崩壊と構築

文字数 2,975文字

 その日、かつて政興が暮らしていた世田谷の豪邸で、元妻香津子と長男久興、次男優の三人が向かい合っていた。
「久興、なんでまた、金沢のお父さんのところへなんか行ったの! それも一週間の休暇届なんか出して。それでは正志の思う壺じゃない! そんな勤務態度では後継者としての資質に欠けると付け込まれかねないわ」
「母さん、休暇届を出したのは間違いだったよ」
「そう、気がつけばいいのよ。もう済んでしまったことですもの」
「退職届を出すべきだったんだ」
「なんですって!」
 香津子は立ち上がって、信じられないという表情で久興を見つめた。
「お母さんの聞き違いよね? あなたが事務所を辞めるなんて考えているはずないわよね?」
「俺、金沢に行くよ」
「あなた、お父さんになんか言われたのね!」
「逆だよ、父さんに頼みに行ったんだ」
「頼むっていったい何を!」
「金沢に置いてほしいってだよ」
 香津子は怒りに震える目で息子を見降ろしたが、自らを落ち着かせるように座りなおした。そして、大きな指輪が光る指をテーブルの上で重ね合わせ、冷静さを取り戻すようにゆっくりと語りかけた。
「久興、正志のことでは嫌な思いをさせて悪いと思っているのよ。私の力が足りないのかもしれないわね。でも、私だって精一杯あなたのためにがんばっているの。わかるでしょ? だからお父さんに助けを求めるなんてことしないでちょうだい」
「母さん、俺、そうやって正志叔父さんと敵対する母さんを見るのが嫌なんだ。姉弟だろう? 仲良くやってくれよ。亡くなったおじいちゃんだって悲しんでいるよ」
 その一言で、香津子の冷静さは呆気なく吹き飛んだ。
「あなたに何がわかるというの! お父様は苦労して一代であの事務所を作り上げたの。私はそれをずっと見てきたのよ! 正志なんかに任せたら、その大切な事務所がじきにつぶれてしまうわ」
「いいじゃないか、それならそれで。おじいちゃんだって息子の正志叔父さんに継いでもらえればそれで満足なはずだよ」
「そんなことないわ! 元はといえば、お父さんに任せるつもりだったのよ、お父様は。それなのに、お父さんが正志に気を使って頑なに辞退しているうちにお父様は亡くなって……」
「父さんも、母さんと正志叔父さんの争いを見たくないから出て行ったんだよ。俺もそうだからよくわかるんだ」
「そうね、出て行った人はしかたないわ。それに、あなたはまだ若いから、今は正志が頭に立つのもいい。でも、いずれはあなたが事務所を継がなくてどうするの! 私はそのためにがんばっているのよ」
「もういいんだよ、母さん。頼むから俺のことは諦めてくれよ」
「何情けないこと言ってるの、あなたがそんな弱気でどうするの! 私がついているでしょ!」
「俺より、母さんには優がいるじゃないか」
 それまで黙って話を聞いていた優に、二人は目を向けた。
「ええ! 俺が何だって?」
「優のこととは関係ないでしょ!」
「そうだよ、兄さん」
 久興は、母と弟の視線を浴びながらもこう切り出した。
「たしかおまえ、研修医も今年度いっぱいだよな?」
「ああ、そうだけど」
「母さん、俺のことより、これからはこいつのことを考えてやるべきじゃないのか?」
「ちょっと待ってくれよ、兄さん」
「大学病院に残らせる気はないんだろ? それなら開業の準備をしなくちゃ」
 さっきまで目を血走らせていた香津子の表情が少し緩んだ。
「まあ、それもそうだわね」
 そう言って香津子は遠くを見るような目つきで、窓の外に目をやった。頭の中に何かビジョンが浮かんだのだろうか。そう感じた久興は、これでこちらの始末はついたと思い、内心胸をなでおろした。
「優、母さんをよろしく頼むな」
 そう言い残し、久興は自室に向かうと本格的な引っ越しのための荷づくりを始めた。そして、それが片付くと、翌日には金沢へと帰って行った。
 久興が家を後にする時、香津子はもう何も言わなかった。ベランダの花に水をやりながら、それとなく出て行く息子を見送った、政興が出て行った時と同じように。
 
 翌日、リビングでは昨日と同じように、香津子と優が向かい合って座っていた。
「本当に、兄さん行っちゃったな」
「コーヒーでも入れるわね」
 いつになく物静かな母の後姿に、優は母の寂しさを見た気がした。そういえば、今朝は髪も無造作に束ねただけで、服もいつもの華やかな装いではない。
「とうとうふたりだけになってしまったわね。つい一年前までは五人で暮らしていたなんて……もう、遠い昔のことに思えるわ」
「そうだね、おじいちゃんが亡くなって、父さんが金沢へ行って、兄さんがその後を……」
「お父さんに一緒に金沢へ行こうと言われた時はとんでもないと思ったけれど、こうなってみると、もう少し真剣に考えるべきだったのかしらね……」
 そんな弱気な母を見て、優は香津子がいつのまにか歳をとっていたことに気づいた。珍しく化粧をしていないせいだろうか。
「母さんには、おじいちゃんが遺したこの家があるじゃないか。ここがいいんだろう?」
「でも、ふたりきりでは広すぎるし、いずれあなただって出て行ってしまうかもしれない……」
「俺はどこへも行かないよ。そうだ、この家はたしかに二人では広すぎるよね。改築してここで開業なんていうのはどうかな?」
「え? ここで?」
「そうだよ、ここなら母さんにいろいろ手伝ってもらうにも便利だろう? もちろん、俺はまだまだ経験は浅いし、たくさんの準備が必要だと思うけど、いつかここでがんばっていけたら、そう思うんだ」
「でも、優にはそれなりのところに立派な医院を建てて、ゆくゆくは病院にして……」
「母さんは男に生まれればよかったな。きっとおじいちゃんの血なんだね。でも残念だけど、俺にはそんな野心も技量もないよ。生まれ育ったこの地で、町のみんなの役に立てればそれでいいんだ」
「久興もあなたも、お父さんの子ね。誰も私を利用しようとは思わないんだから。そして、それを望めばみんな去ってゆく……。
 もうそれがよくわかったから、私は何も言わないわ。あなたがそうしたければ、そうしましょう」
「よし、それで決まりだ。ここに真中医院を開業して、地元の人たちに安心して暮らしてもらおう。そのためには、僕はたくさん経験を積んで、母さんにもサポートを頑張ってもらわなければならないからね。よろしく頼むよ。それでいいよな、母さん」
 翌日から、鮮やかなスーツに身を包み、連日生き生きと外出する香津子の姿が見られるようになった。そして、その行き先はもちろん、もう弁護士事務所ではなかった。
 
 金沢に戻った久興に、優からその知らせが届いた夜、夕食時に大ニュースとしてみんなに伝えられた。
 栄吉は感慨深げにつぶやいた。
「そうか、真中医院か……とうとう一族に医者がなあ……」
 文江も手放しで喜んだ。
「まあまあ、孫が先生さまだなんて信じられんねえ……」
 政興は満足そうにうなずいた。
「これで弁護士事務所も落ち着くし、香津子も再出発できる。優に感謝だな」
 久興は、そんな三人の反応を楽しみながらこう言った。
「あとは俺のこと、よろしく頼みます、新米農家を始めますので」

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