葉月(三)もう一つの壁

文字数 3,183文字

 昨夜は楽しい夕餉を囲んで、四人は遅くまで話し込んだ。
 由紀子の伯父の政興がこちらに戻ると聞いていたが、東京での後始末が長引き、帰郷は九月にずれ込んだという。そんな寂しさもあってか、栄吉も文江もそれは楽しそうで、由紀子たちは祖父母孝行ができたことを肌で感じることができた。
 その夜は、由紀子は文江と、直樹は栄吉とそれぞれ床についた。

 翌朝、栄吉と直樹が近くに散歩へ行っている間に、文江と由紀子は台所に立ち、仲良く朝食の支度をした。そして、栄吉たちが散歩から帰ってくると、食卓には懐かしい田舎の朝ご飯が並んでいた。
 朝食が終わると、直樹は栄吉の、由紀子は文江の手伝いをすることにした。年寄り二人だけの暮らしでは困っていることがいろいろとあるだろうから、自分たちが少しでも力になれればと思ったからだ。
 建付けの悪い戸を直したり、重いものを運んだり、直樹の手を借りて、栄吉は普段できない家の片付けに精を出した。一方、文江は大物の洗濯や、なかなか手の届かない場所の掃除を由紀子に手伝ってもらった。
 夕方になり、時ならぬ大掃除ですっきりとした部屋を見渡しながら、四人は心地よい風が吹き抜ける縁側に座り、冷たい麦茶でのどを潤していた。
「ありがとよ、ずっと気になっていたんだが一人ではどうしようもなくてな。でも、暑い中、悪かったね」
「ホント、二人のおかげで、明日から気持ちよく暮らせますね、お父さん」
「そう言ってもらえるととってもうれしいわ、ねえ、直樹さん」
「ええ、ちょっと手を痛めていたのが残念です。そうでなければもっとお役に立つこともできたのですが」
「ケガを? それは申し訳ないことをした」
「いいえ、もうほとんど治っていますから。それより、お二人の方こそお体は大丈夫ですか? 暑いし、お疲れになったのでは?」
「そうね、おじいちゃん、おばあちゃん、具合は悪くない? 痛いところは?」
 直樹に続いて、由紀子も祖父母を気遣った。
「そうだな、歳だなあ、たしかに疲れたよ」 
 栄吉が頭をかきながら答えた。
「私たちはもう帰るから、おじいちゃんもおばあちゃんもゆっくりと体を休めてね」
「ええ! 今夜も泊まっていくんじゃないのか?」
 栄吉は驚き、文江もがっかりしたが、たしかにすぐにでも横になりたいと二人の体は言っていた。
「すっかりお邪魔してしまって……そうだ、大切なことを忘れていました。来年の僕たちの結婚式に、ぜひとも、出席してください。日取りは年明けの一月十二日に決まりました。東京まで来ていただくことになりますので、遠くて申し訳ないのですが」
「そうかそうか、来年か……ばあさん、もう少しがんばればいいことがあるよ、楽しみがあるというのは生きる張り合いになるな」
「そうですね、何が何でも来年までは元気でいましょうね、お父さん」
「やだ、ふたりとも、来年なんて言わないでずっと元気でいてちょうだい」
「そうですとも、由紀子さんのためにも、ぜひお願いします」
 
 由紀子たちは、後ろ髪をひかれる思いで祖父母宅を後にした。自分たちを見送る年老いた二人の姿がしだいに遠ざかっていく――その光景がなんとも物悲しく由紀子の胸に迫った。そして、夕暮れの道端にいつまでも佇む二つの小さな影が涙でかすみ、やがて見えなくなっていった。
 そんな由紀子の心情を察し、直樹は言葉をかけなかった。しばらく黙って歩いていたふたりだったが、由紀子がその沈黙を破った。
「直樹さん、ありがとう……そしてごめんなさい」
「え、何が?」
「そっとしておいてくれてありがとう……それから本当は、今夜も泊まるつもりだったのにね」
「いや、僕も同じ気持ちでしたよ。お二人ともとてもお疲れのようでしたから、あのまま僕たちがいたら気疲れでお体に障るような気がしました。これで良かったんですよ」
「直樹さん……」
「由紀子さん、またすぐお会いできるのですから、そんなに悲しまないでください。さあ、僕たちは今夜の泊まる場所を探さなければ」
「そうですね」
「由紀子さん、お部屋は一緒でいいですよね?」
「え?」
 思いもかけない問いかけだった。でも言われてみれば、たしかにふたりで旅行に来て、二部屋を取るというのはおかしなものかもしれない。まして、ふたりは婚約者同士、旅先で部屋を別にとる婚約者などいるだろうか?
 でも、こんな事態は由紀子の頭にまったくなかった。今回は旅行と言っても、祖父母宅に泊まる予定だったからだ。成り行きで迎えてしまったこの現状に、心の準備などできようはずもなく、由紀子は強いためらいの中で戸惑った。
 今のままではいけないのだろうか? 自分は今で十分、いや、今のままがいい。直樹のことは心から愛している。それだけではいけないのだろうか……。
 珍しく、直樹が黙り込んでいるのに気付き、由紀子はハッとした。そして、そんな由紀子に直樹が言った。
「由紀子さん……無理しなくてもいいですよ、とは、今日は言いません。由紀子さんの心が僕に向くまでは、いつまでも待つつもりでした。でも、もういいですよね?」
「…………」
 
 食事を終えたふたりは、ホテルの一室にいた。
 由紀子は緊張のあまり、先ほどの料理の味など全くわからかった。ただ機械的に、食べ物を口に運んでいただけな気がする。直樹は明らかに様子が違う由紀子を気遣い、柔らかな雰囲気を作ろうと心掛けた。いつもの笑顔で優しく話しかけたが、そんな直樹に、由紀子は作り笑顔を浮かべるだけだった。
 そして、部屋に入ったふたりだったが、ツインのベッドを目の前にして、由紀子はただうつむいてソファーに掛けていた。すっかり黙り込んでしまった由紀子に、直樹はにこやかにこう言った。
「由紀子さん、やっぱり今夜は疲れたので休むことにしましょう。だから安心してください。僕は先にシャワーを浴びて寝ますから、その後、由紀子さんも自由にくつろいでくださいね」
 そして直樹は浴室に向かい、シャワーの音が聞こえてきた。
 
 浴室でシャワーを浴びながら、直樹はこれでよかったんだと思った。あんなに怯えているというのは、男の自分にはわからない強い抵抗があるのだろう。愛しているからこそ、すべてを抱きしめたいのに、それが彼女にとって苦痛であるというならいたしかたない。
(いつか自然に受け入れてくれる時がきっと来る。今はまだその時ではないんだ。
 でも、隣に由紀子さんが寝ていると思うと、今夜はとても眠れそうにないなあ……)
 
 由紀子はシャワーの音を聞きながら、じっと身を固くしていた。やがて、浴室から直樹が出てくると、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、それを飲み干した。
 由紀子はというと、表面上は、あいかわらず人形のようにじっと息をひそめていた。しかし心の奥では激しく葛藤していた。そう、お部屋は一緒でいいですよね? と言われてからずっと……。
 そんな由紀子の気持ちをほぐし、楽しい旅の締めくくりに戻そうと、直樹はやさしく語りかけた。
「由紀子さん、今日はちょっと疲れたけど楽しかったですね。じゃお先に、また明日。おやすみなさい」
 そう言って、直樹はベッドに入った。
 
 いつまでこうしているわけにもいかない。由紀子はソファーから立ち上がると、着替えを持って浴室に向かった。そして、シャワーを浴びながら、目を閉じた。
(いい歳をして、私はまるで駄々っ子だわ。直樹さんが望むのなら、そして幸せな結婚生活のためにいつかは乗り越えなければいけないことなら……)
 恥じらいと不安に揺れ動きながらも、体を打ちつける湯に勇気をもらい、由紀子は決心した。
 そしてバスタオルに身を包み、浴室を後にすると、ためらうことなく直樹の元へ向かった。

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