神無月(一)招待状

文字数 2,445文字

 さわやかな秋晴れの休日、由紀子は結婚披露宴の招待状の宛名書きに精を出していた。今月中には投函する予定だ。先月にはウェディングドレスとお色直しのドレスも決まり、準備は着々と進んでいる。まだ来年のことだと思っていたが、こうして親戚や知人の名前を書いていると、もう間近に迫っているという実感がひしひしと湧いてくる。
「あら、お姉さん、いよいよね」
 早紀子が入ってきて、興味津々に覗き込んだ。
「ええ、なんだか緊張して手が震えるわ」
「年賀状だと思って書けば」
「そんなこと思えるわけないでしょ!」
「お姉さんは達筆だからいいじゃない。私なんかが書いたら、式そのものの品格を疑われそうだわ」
「そんなことないわよ、丁寧に書けば気持ちは伝わるものよ」
「たかが宛名書き、されど宛名書きね」
「何それ?」
「まあ、とにかくがんばってね」
 
 翌週の休日、また、由紀子は宛名を書いていた。
「あら、お姉さん、先週終わったんじゃなかったの?」
「ええ、こちらの分はね。直樹さん、忙しくてまだ書いてないというから、あちらの分も私が書くことになったの」
「へえ、早速内助の功ってやつね」
「だって、もう私の方は書き上がっていていつでも出せる状態なんですもの」
「お姉さんとしては早く出したいんだ?」
「できる時にできることをやっておきたいだけよ」
「そうね、いつ何が起きるかわからないものよね。実際、飛び入りで直樹さんのお母さんの披露宴が入ってきたわけだし。そういえば、渉も呼んでもらっていたのよね」
「そうなの、渉くんによろしく言ってね」
「でも、なんかおかしくない?」
「実は私もそう思ったのよね。そんな時ちょうどお母さんに会う機会があってね、早紀ちゃんの話も出たの」
「それで?」
「まずはお母さん、早紀ちゃんにとても感謝していると言っていたわ。息子たちの救世主ですって」
「まあ、大げさね。でも、怖いな、お母さん他になんて言ってた?」
「早紀ちゃんてとても面白い娘さんねって」
「やっぱ、そっち……」
「それでね、早紀ちゃんが渉くんの実家の長野まで行ってきた話をしたら、あら、もう決まりじゃない、ですって」
「そんな……まだプロポーズだってされてないんだよ」
「お父さんも言ってたじゃない、相手の実家、それも遠方まで行くということは特別なことみたいなことを。きっと、あの年代の人たちはそう捉えるのよ。だからだと思うわ。お母さんにとって、もう渉くんは早紀ちゃんの婚約者のようなものなのよ」
「ふ~ん。そんなものかしらね」
「そういえば、仕事の方はどう? もう慣れた?」
「まあだまだ、失敗ばかり」
「あら、早紀ちゃんでも落ち込むことあるんだ?」
「別に落ち込んでなんかいないわ。誰だって初めは初心者だもの」
「さすが早紀ちゃんね、前向きですごいわ。それに、渉くんも同じ職場っていうのは心強いでしょうね」
「とんでもない、講習の時は助け合ったけど、今は同僚でありライバルなの。渉に負けないように早く仕事を覚えなくちゃ」
「あら、そうなの」
「そうよ、介護福祉士の勉強でも火花を散らしているのよ」
「変な婚約者だわね」
「仕事を離れれば、あま~い恋人同士ですからご心配なく」
 
 月に一度、由紀子は直樹に合わせて休みを取っていた。今日はそのデートの日だった。
「朝から出かけられる日が少なくて申し訳ないな。それも休みをとらせてだなんて」
「直樹さんのお仕事上、休日が合わないんですもの、仕方ないわ」
「その上、こんな近場で申し訳ないな」
「いいえ、近くにこんな素敵な公園があるんですもの。ここで充分よ。ここは広いから、ちゃんと散策したら一日かかるわ」
「じゃあ、あそこのベンチで休もうか?」
「あら、まだ早いわ。もう少し歩きましょう。私、ボートにも乗りたいな」
 十分後、ふたりは手漕ぎボートの上で向かい合って座っていた。池から見る景色は、またちょっと違って見える。紅葉の時期にはまだ早いことが惜しまれた。もっともその頃は、由紀子の苦手な人出を覚悟しなければならないだろうが。
 慣れた手つきでボートを操る直樹の様子が新鮮に映った由紀子は、感心したように言った。
「直樹さん、漕ぐの上手ね」
「男なら誰でもこれくらいできるよ」
「あらそうなの。よくボートに乗っているからだと思ったわ」
「もしかして、由紀子さん妬いてるの?」
「え? どうして?」
「ボートなんて男同士で乗るものではないから、女性と乗ったと思ったんじゃない?」
「いいえ、そんなことまで考えなかったわ。でも言われてみれば確かにそうね。直樹さん、女性と乗ったことがあるの?」
「な~んだ、そんな聞かれ方したら、拍子抜けだな」
 そう言って直樹は笑った。
「ところで、由紀子さん、新居のことだけどどうしたい?」
「どうって、私はどこでもかまわないわ。お互いの勤め先に通いやすいところがいいとは思うけど」
「買うか借りるかってことは?」
「買うなんて無理でしょう? 考えたこともないわ」
「家を買うには当然ローンを組まなければならないだろう? 最長三十五年ローンだとしたら、今から返済し始めなければ定年までに返せなくなるよね。
 だから、買うなら今、今買わないのならずっと賃貸。ある程度、そう決めなければならないと思うんだ」
 由紀子は、衣装や招待客など非日常の華やかな舞台、そしてその後スタートする甘い新婚生活など、夢のようなことばかりに酔いしれていた。結婚を控えた多くの女性はそうであろう。
 しかし、男は違う。その日から、生涯をかけて家庭を背負うという大きな責任が生じるのだ。たしかに、これから長い長い結婚生活という現実が始まる……由紀子はそれに気づかされた思いがした。
 そして思った、結婚式はそのためのエールであり、前倒しのご褒美なのかもしれない、と。それならばなおさら、一生心に残るような素晴らしい一日にしたいと思うのだった。
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