夢へ

文字数 2,467文字

 彼と出会ってから早いもので丁度1年が経ち、季節はまた真夏へと変わっていた。その間に起きたことをまとめると、彼と喫茶店で会う機会は徐々に減っていっき、ある日を境に全く顔を見なくなった。最初は単にタイミングが合わないだけかと思ったが、マスターいわく「音楽に全力を出したい」との理由でしばらく休職するとのことらしい。それでも彼とは毎週金曜日にいつものライブハウスで顔を合わせた。そして何度か個人的に会うこともあった。ある時は街中で、またある時はどちらかの家で。予め断っておくと、彼と私が男女の仲になることは最後までなかった。
 それはともかく、喫茶店のバイトを辞めた理由の詳細を彼に尋ねると、毎年夏頃になると若手ミュージシャンの登竜門と言われる国内最大級の音楽オーディションがあり、それに出るためだと答えた。
 一方で私は相変わらず筆が進まず、出来に納得しないながらも短編小説をいくつか書き上げた。そしてそのいずれもが評価はイマイチであった。

 そんなある日のこと、私は彼に急遽呼び出されて彼の家を訪れた。その理由としては、次のオーディションで披露するための納得のいく曲ができたので、確認してほしいとのことだった。勿論私に音楽に関する知識がないことは彼も知っているので、単に曲を聞いてほしかったのことだろう。
「それぐらいならわざわざ呼び出さなくても、今度の金曜日にライブハウスで聴かせてくれるだけでも十分だったでしょ。」
 私がわざと意地悪く言うと、彼は笑みを浮かべつつ上機嫌に答えた。
「まあそう釣れないこと言うなよ。それにこの曲は当日まで公開しないことにしておくんだ。」
「私には聴かせるのに?」
「ああ、あんたのことは信用しているからな。それにあんたには色々世話になった。だから一番に聴いてほしかったんだ。もっとも、聴かせるのは録音したものだがな。」
 私がさらに意地悪く尋ねると、彼はレコーダーを私に渡しつつそう答えた。
「私の友人には聴かせなくて良かったの?私より彼女の方が音楽には詳しいわよ?」
 私の意地悪な質問に対し、なおも彼は上機嫌に答えた。
「ああ、良いんだよ。あの娘(こ)は基本的に俺の曲を褒めることしかしないしな。勿論それはそれで嬉しいが、今度のオーディションには本気で挑もうと思う。だからこそ、多少の批判は覚悟の上であんたを呼びつけた。それにそもそもあの娘(こ)は俺の家の場所を知らない。」
 音楽にそれなりに精通していて、かついつも彼の曲を褒めていた友人よりも、音楽に詳しくなくそれでいて彼の曲に対して批判的だった私の意見の方が重宝されていたことは驚きがありつつもそれ以上に嬉しさがあった。
「まあ私の意見が参考になるかはともかく、聴いてはあげるわ。その代わりレビューの方は覚悟しておくことね。」
「ああ、良い感想を期待しておくよ。」
 私が照れ隠しのつもりで言った意地悪に彼はなおも上機嫌に答えた。
 以下が彼の新曲を聞いた私の感想である。曲の全体的なレビューについてだが、私が今までに聴いてきた彼のどの曲よりも素晴らしいものだった。曲の主旋律自体はエレキギターやシンセサイザーを中心としたハードロック調のものであったが、それでもサビ部分を中心に全体的にキャッチ―なものに仕上がっていた。そして歌詞は夢を追い続ける者をテーマにしたものであり、今まで捨てて来た物、失ってきたものを振り返りつつも、それでもなお歩み続ける力強さを感じさせる、まさしく彼の半生そのものを表したかのようなものだった。
「文句なしで今までで一番良い曲だったわ。古き良きロックンロールの系譜を継ぎつつも現代風のキャッチーさもある…なんて、細かいことはわからないんだけど、少なくとも私は好きよ。こういう曲。」
「ああ、特に大サビのメロディーにはかなり試行錯誤を重ねてな。二番目までのサビと大サビとは転調を変化させてあるんだ。それに合わせてBメロとCメロの主旋律も少し変化をさせている。どうだ?中々綺麗な楽譜だろ?もっともそのせいで大サビがかなりの高音域になってしまってかなり歌いづらいのが玉に瑕だけどよ。」
 私が感想を正直に述べると、彼は自慢げに楽譜と歌詞を書いた紙を私に見せつつ解説してくれた。
「楽譜を見せられても私には分からないって。」
 私がそう答えても彼は構わず続けた。
「ま、何にせよ本当に良い曲っていうのは楽譜と歌詞も美しいもんさ。」
 楽譜のことは良くわからなかったが、歌詞についてはワンフレーズが曲の一小節に対して無理のない範囲に収まっており、それでいてきちんと韻も踏んでおり、全体的に非常にリズミカルなものであり、推敲の跡が垣間見えた。
「あら、随分と自身満々ね。」
「ああ、負け続けてきた人生だ。今ぐらいは自惚れさせてくれ。」
 私がからかうと彼は冗談交じりに、そしてどこか悲しげに答えた。」
「ほらほら、何戦う前から弱気になっているのよ。ロックンローラーはめげないんでしょ?」
「ああ、勿論負けることを前提に出るつもりはねえよ。」
 彼が今までの浮かれ気分から一転、気を引き締めつつそう言った。そしてさらに続けた。
「それでよ、もし今度のオーディションに受かったら…」
「受かったら?」
 途中で言葉を詰まらせた彼に私がすかさず尋ねると、少し間を挟んでから、強張っていた表情を崩しつつおちゃらけた雰囲気で彼が言った。
「いや、なに、ちょっとしたご褒美がほしいと思っただけだ。良いだろ?それぐらい。」
「そうね、じゃあその時はいっぱい褒めてあげる。」
「それだけか?」
 私がいたずらっぽく言うと、彼はやや不服そうな反応を見せた。
「それだけじゃ不満?」
 私がさらに尋ねると、少し間を置いてから彼が言った。
「いや、それだけで十分だ。俺は女に褒められることが何より好きだからな。」
「その言い方だと、私以外でも良いように聞こえるんだけど?」
 私が意地悪く尋ねると彼はすぐに返答した。
「いや、今はあんたから一番褒められたい気分なんだ。」
 そんな感じで、この日の会合は終始和やかな雰囲気で終了した。
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