タカシ 【水底のトンネルから 4人の恋愛物語】

文字数 4,662文字

 会社の飲み会帰りだった。
 酒場街の入り組んだ路地裏で突然の雨にみまわれた。タカシとショウは、小料理屋の軒下に逃げ込んだ。五月にしては、肌寒い夜だった。
 「止むまで、飲み直すかぁ。」
 ショウの提案にほろ酔いのタカシも受けた。
 「最初からぁ、ブィ。ジャンケン……。」
 タカシは、相手の勢いに合わせた。
 「……よっし、俺サマの勝ち。奢られてやるぞ。」

 昭和の趣が残る小料理屋は、カウンター席だけで設えられ十人も入れば窮屈な広さだった。宵の口だからか、他に客はいなかった。三十歳半ばのママが、綺麗な笑顔で二人を迎えた。軽くウエーブがかかった栗色の髪形は、最近見掛けないレトロさがあった。
 「いらっしゃいませ。」
 二人は、予想もしなかった雰囲気のある美人に驚いた。少し低いが艶のある声音で奥の席を勧めた。
 「さぁ、どうぞ。」
 壁に貼られた品書きの良心価格にタカシは、安堵した。ショウが、ママの顔をしげしげ眺めた。クラシカルなワンピースから肉感的な色気が漂っていた。
 「……ママ、どっかでお見かけしたような。」
 「有難う御座います。何になさいます。」
 「先ずは、ビール。」
 「そちらのお兄さんは。」
 タカシは、戸棚に隠れるように置かれたスコッチのボトルに視線を向けて尋ねた。
 「スコッチの炭酸割なんか出来ますか。」
 「……もちろんです。」
 不思議な驚き方を見せたママは、優しい笑顔で受けた。ショうが横から口を挟んだ。
 「気取ってんじゃねえぞ。先ずは、ビールからだろう。」
 ショウの酒の飲み方は、学生の頃から変わらなかった。程よく他人に絡むが陽気な酒癖だった。最近の失恋を引き摺っているのだろう。その夜の酒は、少しばかりペースが速かった。荒む気持ちに同情した。ショウは、叶わぬ相手に恋焦がれる性分から抜け出せないでいた。
 ショウ好みの年上ママだった。
 「ママのお名前、当てます。」
 「ヒント、どうしましょう。」
 「たぶん……、シノブさん。」
 ショウは、酔っていても暖簾の染め字を見ていた。
 「まぁ、スゴイです。」
 二十歳半ばを過ぎた二人からすれば、魅力がある落ち着いた大人の女性だった。
 江戸切子のグラスで出されたハイボールは、その夜の細やかな御褒美のようにタカシは思えた。付け出しの切り干し大根の煮物は、絶品だった。
 「美味しいですね。」
 タカシは、素直な感想を向けた。懐かしい田舎の味がした。ママの表情が、子供の頃の記憶に残る母に重なった。
 「嬉しい……。」
 ママの情感のこもった声に、ショウが割り込んだ。
 「なに、口説いているんだよ。」
 「美味しいだろう。」
 「おぅ、確かに美味、美味。……シノブさん、最高です。」
 「どうもです。」
 ママの笑顔に惹き付けられた。いつの間にか、二人は長く通っている客の会話になっていた。

 ショウの酔いは、深まった。酒が進むと話しが飛ぶのも昔からだった。
 唐突に高校の同級生のレナの話を持ち出した。タカシは、彼女の最近のリアルが想像できなかった。
 「レナの娘、初めて見たよ。」
 ショウは、連休にショッピングモールで出会った様子を語り始めた。
 「七歳ぐらいか……。」
 レナの一人娘をタカシは、噂でしか知らなかった。高校では、友達を介して遊ぶこともあったが、就職してからはSNSだけの交流になっていた。
 「レナの娘なら可愛いだろう。」
 「そう、極超美幼女だな……。だが、ちょい奇妙な感じかな。ドールのようなっていうか。……誰かに似ているんだが、想い出せん。……それにだ。全然、レナと違う。」
 「それなら、ダンナ似か。」
 「そうなるか。ああぁ、羨ましいな……、レナの男になれるなんて。悔しい、どこのどいつだ。」
 仄かな恋心を抱いていたショウの本音が漏れた。不意にタカシは、遊び仲間の一人が脳裏を過る不可解さに戸惑った。思い浮かんだ考えに違和感を覚えながらも話を進めた。
 「そういえば、レナの祖母ちゃんの話し相手に通っていたのがいただろう。まさかの、レナと出来ていた。」
 「ちょい、不気味な奴か。」
 「相談事で散々世話になっていて、それを云うか。」
 「それは、そうだな……。」
 その同級は、仲間の内でも一目置かれていた。時折見せる神懸る勘の鋭さからだろうか。癖の強いショウでも認めていた。
 「アイツは、演劇部の……、幼馴染だったリラと付き合っていたんじゃねぇ。だからぁ、違うって……。」
 ショウの説明に少し安心できた。タカシは、突然に蘇った説明がつかない朧げな記憶を吹っ切るように話を戻した。
 「レナは、大学の在学中に、赤ちゃんを産んだって聞いたけど。」
 「一年か、二年の時らしい。……それにしても、シングルマザーって、男前な奴。」
 「それなら、今はフリーか。パパになれるかな。」
 「無理、ムリ……。我々は、お呼びでないって。」
 ショウが、落胆の声を上げた。
 「……でもさ、レナって、男嫌いじゃなかったのか。」
 そのような出所不明の揶揄が立ったのは、高校の卒業間際だった。
 「って、考えればだ。……処女受胎、マリアさまか。」
 倫理観の問題は横に置いても、今般の科学技術からすれば可能な話だった。ショウの複雑な心中が慮れた。

 そこに、ショウのスマホに着信が入った。
 「……一人、呼んでいいか?」
 連絡相手の顔が浮かんだ。このまま長い夜になるのかと、タカシは内心諦めた。
 「それにしても、……お前ぇ、相変わらず、酔い切れねぇな。」
 「悪いか。」
 「そんな酒、面白れぇか。」
 「どうかな。」
 「ケッ、すかすなよ。」
 ショウは、焼酎を一気に煽って続けた。
 「前から思っていたが、お前ぇよ、……カノジョ。なぜ、つくらないんだ。」
 「待たせている人が、いるように思えるからかな。」
 「はぁ……。ママ、どう思います。」
 「素敵ですよ。」
 「ああぁ、……童貞野郎が、モテるかぁ。」

 程なくして、庶務課のミキエが顔を出した。
 「センパィ、二次会、出るって約束していましたね。」
 裏表のない真っ直ぐな性格が安心できた。愛嬌ある童顔も素朴で、二十歳前半でも学生に見えた。眼鏡のフレーム変えればいいのにと、タカシは、見かける度に秘かな心配をした。会社帰りのスーツ姿で、少し砕けた社外専用会話をオンオフで使い分けるアンバランスさに感心させられた。
 「タカシさんもご一緒でしたか、酔っぱらいの保護、ご苦労様っす。」
 タカシは、席を開けてミキエを座らせた。かなり飲んでいても足元はしっかりしていた。この女子は、入社当初から誤解されるタイプだった。物事を的確に主張する冷徹さがあるからだろう。可愛さが欠如していると陰口を叩かれるが、タカシは、最初から好感をもって接した。
 「こんなイカスお店あったすね。センパィの隠れ家ですか。」
 「そぅ、ママとは、高校時代からのお付き合い。」
 「ええっ……、マジっすか。お姉さん、センパイってどんな高校生でした。」
 「そこで、ボケるかぁ。」
 ショウの突っ込みにママも釣られて微笑んだ。
 「それより、お前こそ。係長の傍を離れていいのかよ。今頃、探しているぞ。……アイツ、お前のようなの、ラブみたいだし。」
 「今夜は、三度お尻触られました。セクハラっす。殴ってくれますね。」
 「貧そなケツ好きだな。」
 「それも、セクハラっす。」
 ショウは、ワインをミキエに注いだ。酔っぱらいの愚痴が続いた。
 「係長と二次会? 想像するだけでも、はぁ……、酒が不味くなる。クソくらえだ。」
 「社会人の付き合いとは、そういうもんでしょう。」
 「れっ、よく言うよ。……それで、呼びに来たのか。」
 「説教にきました。」
 「おぅ、それは賢明。しっかり飲め。許す。」
 「ご馳っす。」
 ミキエが世話焼きだけでショウに絡むのでないのは見ていて解った。タカシは、二人の未来に同情した。ショウガ肝心なところで鈍感なのは、この先も直らないだろう。

 同僚二人がじゃれ合うのを横目に見てタカシは、ママに話を向けた。
 「その壁の写真ですが。」
 店に入ってから気になっていた。セピア色に変色した田舎の風景写真だった。
 「かなり古いようですね。」
 「戦前らしいですよ。」
 タカシは、その時代に思いを馳せた。写真から覚える懐かしい感情を払拭し切れないでいた。ママは、察して写真額を取り外した。何処にでもありそうな田舎の原風景だった。山に抱かれて点在する農家、土の畔が残る田畑、舗装されていない道、その先のトンネルが、昔に肝試しで訪れた場所と似ていた。タカシは、写真が撮られた場所を尋ねた。
 「詳しくは、知らないのですよ。県境近くの山村とか云っていましたか。先代のマスターが飾ったと、聞いたようにも思うのですが……。」
 ママの歯切れが悪かった。マスターの故郷だろうかと、想像するタカシの手の中で、夕焼け色の紅い切子グラスが誘い語るように揺らいだ。不可思議な感覚に囚われたからだろうか。タカシは、その心が導くままに語りかけた。
 「先代のマスターは、粋な方だったのでしょう。この江戸切子、マスター好みでしたか。」
 「知り合いの作品らしいですよ。拘りがあったのか、大切に使っていました。」
 「美味しく入っています。マスターに会ってみたかったな。どんな方でしたか。」
 「そうですね……。第一印象は、神秘的でした。時々しか、お店に出ていらっしゃらなかったので。だからでしょうか。けっこう、オヤジでしたけど……。」
 艶っぽく言葉に迷った。
 「若い頃に通っていた話ですよ。もぅ、ずいぶんと昔ですが。」
 「もしかして、ママが学生の頃でしたか。」
 タカシは、昔の様子を思い浮かべて尋ねた。ママが、優しく小首を傾げた。
 「綺麗な若い奥様がいらしたのですよ。カード占いができる魅力的な御姉さまでした。」
 「素敵な、思い出ですね。」
 「お兄さんは、マスターと気が合ったと思います。スコッチのハイボールが好きでしたから。」
 ママが、遠い目をした。
 「……でも、わたしが作ると、黙って笑うんですよ。」

 写真に想いを込めるタカシをショウは、ミキエ越しに揶揄った。
 「……ママを旅行に誘うのは、まだ早いぞ。」
 ショウは、泥酔に近かった。風景写真を覗き込んで難しい顔で呻いた。
 「ええっと……、これは、たしか……。お前ぇの、爺ちゃんの田舎か……。」
 「田舎あるんですか。凄いっす。」
 「酔っぱらい二人は、黙る。」
 タカシは、苦笑して写真を返した。話そうかと少しばかり迷ったが、酒の席なら許されるように思えた。
 「高校を卒業した年の夏です。その写真によく似た場所に肝試しに出掛けました。あの年は、春から雨が少なくて、空梅雨でした。日照り続きの夏で、ダムが干し上がり昔に沈んだ村が現れていました……。」
 タカシは、気味の悪い記憶を辿りながらも話を始めると胸の痞えが降りる妙な感覚になった。話を盛ることなく隠すでもなく事実を伝えた。タカシは、静かに呟いた。
 「なんだったんでしょうね。あのトンネルって……。」
 「もう一度、行ってみたいですか。」
 ママが、誘うように尋ねた。

 外は、小糠雨が降り続いていた。金曜日の真夜中なのに、酒場街を行き交う人の姿は疎らだった。タカシは、ミキエに泥酔状態のショウを頼んだ。
 「此奴、送ってもらえるかな。」
 一つの傘に入って表通りに向かう二人を見送った。
 酔い切れないタカシは、佇んだまま吐息を零した。振り返ると、今し方まで飲んでいた店の灯りが、いつの間にか消えていた。
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