誘われて 其ノ壱ノ壱

文字数 1,760文字

 高校に通い始めたいつの頃からだろうか。その古い館に気付いていたのかもしれない。
 通学途中の自転車から見えた。北向きの小高い山裾の中腹に建つ館は、桜の大木に庇護されるようだった。夏の間は、葉に隠れて山肌に埋没していた。

 一学期が終わろうとしていた。七月の或る日、館を近くで見ようと思い立ったのは、その午後が異様に暑く授業が短縮なったからだろうか。学校帰りに立ち寄ったコンビニのベンチで飲み物を摂りながら山腹に建つ館をぼんやりと眺めた。何時になく間近に思えた。
 その時までは、考えたこともなかった。ふと、あそこまで登れば街並みが一望できるだろうかと、安易に想い描いていた。その思い付きに独り言ちた。
 「何が、見えるかな……。」
 徒歩で小さな橋を渡り山裾に着いた。民家の間につくられた人一人が通れる迷路のような階段を上った。途中から民家も途切れて葛籠折りの山道に変わった。少し先で狭い車道に行き着いた。視線の先に目指した館の門が見えた。細密に装飾された鉄柵の向こうに古い造りの洋館の建物は異質な静けさを見せていた。
 息を整えて上ってきた小道に向き直り見渡した。予想していたよりも見晴らしのよい高台からは、遠くまで一望できた。街並みの先に広がる海まで眺望できて嬉しくなった。
 「……まぁ、幸せそうな後ろ姿ですこと。」
 若い女性の声に、驚き振り返った。知らぬ間に門の前に制服姿の女子学生が立っていた。
 「……なにか、見えますか。」
 綺麗な声なのに鷹揚のない声音が冷たかった。長い黒髪を後ろで束ね目鼻立ちの整った色白の相貌は、人形のように生気が欠落していた。気持ちの動転が収まらずに生返事をした。
 「えっ、と、ごめん。」
 「……あら、謝るの。どうしてかしら。」
 円らな黒い瞳が、視線を逸らさずに見つめていた。
 同じ高校の制服だった。同学年に思い当たる顔が浮かばなかった。
 「同じ学校?」
 「……そのようですね。」
 話口調から年上のようにも思えたが、顔立ちは幼く同学年のようにも見えた。
 「僕は、一年二組。」
 学年を告げて女子学生に尋ねた。
 「君は、何組?」
 「……あら、知らないの。」
 言葉は疑問詞になっていたが、声の調子は平坦だった。人目を惹く美貌から考えれば、学校で話題になるようにも思えて探りを入れた。
 「もしかして、有名人?」
 その言葉の返しにも彼女は、表情を変えなかった。
 「……どうかしら。知らないでしょうか。君も、誰も。」
 禅問答のような遣り取りに困惑した。距離を置こうとする様子を揶揄うように自己紹介した。
 「……三年一組、タマエ・カエリと申します。」
 上級生なのが判り、身を正した。聞いたことのない姓名だった。
 「……飛び級なのです。」
 飛び級の生徒を見るのは初めてだった。飛び級制度ができた後も自己申請で効力が発生することから、それを実際に使う生徒は稀だった。今迄、飛び級の生徒を実際に見ることがなかった。
 「……三学年は、留年しています。授業に出ていないから、忘れられているかもしれません。」
 「そうでしたか。」
 敬語に変えた。飛び級して二学年上で留年している彼女の立場を想い改めて年齢を探った。
 「……ですが、貴男よりは年下です。お名前、伺っても宜しいでしょうか。」
 カエリは、姓名を聞くと少し間を置いて思案した。
 「……珍しい姓ですね。」
 高校まで自転車で三十分ばかりかけて通っている話をして、海辺に近い自宅の説明を付け加えた。
 「……海岸近くの神社に由来する姓でしたか。」
 カエリは、納得したように続けた。
 「……あの神社は、古より海がご神体でした。砂浜の入り口に鳥居があるでしょう。」
 幼い頃に祖母から聞かされた伝承が蘇った。
 「……訪ねていらしたのですか。」
 カエリは、突然に話題を移した。
 「……占いを御所望かしら。」
 「えっ……、いえ。」
 戸惑う男子生徒を前にしてもカエリの様子に変化は見えなかった。
 「……あら、そうですか。じゃ、お茶でも。」
 カエリは、誘った。
 「……君にとって、幸運なことに両親は留守にしています。」
 「いいえ、また今度。」
 「……次は、なくてよ。どうぞ。」
 鉄策に白い指を掛けて押し広げた。陽はまだ高く、蒸し暑く重い大気が澱んでいた。
 魅惑されたように招き入れられた。
 
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