第8話

文字数 2,646文字

 オフィスの奥にある衝立に囲まれた応接室に通されると、相沢はソファーに腰を落とす。
 彼女は自分でコーヒーを淹れ、相沢の分とともにテーブルへ置いた。
「カメラマンの相沢さんですね。いつもお世話になっております。わたくし社長兼彼女たちのマネージャーをしております、片桐と申します」軽く一礼をして名刺を差し出してきた。実際に彼女らと仕事をしたのはこの前の撮影だけだったから、『“いつも”お世話になっています』は変だと感じた。それが彼女の――いや芸能界の常套句なのかもしれない。
「話は聞いております。あいにく佐倉は席を外しておりまして。……たしか鞄を届けにいらしたとか」
 伊織が不在と聞き、心の中で舌打ちをした。
 手にした鞄をテーブルに乗せ、「ええ、昨日偶然電車でお会いしまして、少しだけ話したのですが、その時、網棚に鞄を置いたまま降りられたので、代わりに預かっておきました。俺がもっと注意しておけば良かったのですが、気づいた時にはもう佐倉さんは電車を降りた後でした。失礼かとは思ったのですが中身を拝見するとステージ衣装だったので、大事なものかと思い、早急に連絡を入れた次第です」
 幾分脚色した内容だったが問題は無いだろう。撮影したり、食事に誘った事まで話す必要はない。八個の弁当は捨てておいた。向こうが切り出さない限り、敢えて触れないでおこうと決めている。
 片桐はまた一礼をした。
「わざわざご足労いただき、誠に感謝いたします。衣装はそれ一着しかございませんので本当に助かりました。佐倉には厳しく言っておきますので」
「佐倉さんは随分と疲れていた様子だったので、つい、うっかりしていたのでしょう。あまり強くは叱らないでやってください」相沢は手のひらを広げ、まあまあと上下に動かす。
「お気遣い、いたみ入ります」
 そこで相沢は伊織について探りを入れることにした。「そういえば、佐倉さんって最近何かありましたか」
「何かと言いますと?」片桐は小首をかしげる。
「いや、撮影の時も思ったのですが、昨日も彼女の様子がおかしかったものですから」
「具体的にはどんな感じでしたか」片桐の上半身が若干、前のめりになった。威圧的な目力を感じたが、社長兼マネージャーとしては当然だといえる。
「はっきりとは分かりませんが、何だか深刻な悩みを抱えている様な印象を受けました。なにか心当たりはありませんか? 俺に出来る事なら、なんでも協力したいので」
 当然だが、念スタントカメラのことは言えない。印象だけの話で、果たしてどこまで本音を話してくれるだろうか。
「……プロのカメラマンの目は誤魔化せないですね。実をいいますと、佐倉をスカウトしたのは私なのですが、その時の事をお話ししてもよろしいでしょうか」
 相沢が、もちろんですと答えると、コーヒーに口を付けた片桐はさらに前のめりになった。そしてじっくりと相沢の目を見据えて、再び口を開く。
「彼女を見かけたのは、今からちょうど二年前の事です。打ち合わせの帰りに渋谷のスクランブル交差点を渡ってすぐでした。……せわしなく行き交う人ごみの中に、独りでぽつんと立っていたのです。下ろした両手を固く結び、ただ真っすぐに前を睨みつけていました。視線の先にはテナントビルがあり、一階には大手チェーンのハンバーガーショップ。二階にはブライダルショップと探偵事務所。三階には産婦人科が見えました。実際に彼女がどこを見ていたのかは分かりません。最初は何処にでもいるような、ちょっと田舎っぽい娘だという印象でしたが、そのビルを頑なに見つめる真剣なまなざしに、どこか神秘的な魅力を感じました。これはまさに運命の出会いと思い、気が付くと声を掛けていたんです。後にも先にも、こんなことは初めてでした。詳しく話をするために、目の前のハンバーガーショップに入りましたが、彼女は何も注文しませんでした。ダイエットでもしているのかと訊いてみましたが、そうではありませんと答え、じゃあ遠慮しなくてもいいのよ、どうせ経費で落ちるのだからと言っても、彼女は黙って首を振るだけでした。……席に着いてからも私がハンバーガーを頬張るのを、ただじっと見つめるだけで、彼女は水だけを静かに飲んでいました。その後、私はアイドル活動に消極的な佐倉を何とか説得し、一週間後、彼女の両親の元で正式に契約を交わしました」
 話し終わると片桐は、ふうとため息を吐き、もう一度コーヒーをすすった。
「では最初からあんな感じだったのですね。佐倉さんはあの時、ビルの前で何を見ていたのでしょうか?」
「それは私も気になっていて、後日、本人に尋ねてみたのですが、何でもありませんの一点張りで、結局教えてはくれませんでした」
「他に何か変わった点はありませんか?」
「そうね。強いて言えばだけど、彼女は人前では絶対に食べ物を口にしないわ。知り合いから差し入れがあった時も、他のメンバーがおいしそうに食べているのに、独りだけそっぽを向いて、私が食べるように促しても、後でいただきますと言って、鞄に入れているわ」
 普段からよほど食欲がないのか、それとも人前で食べる行為が恥ずかしいのか。いずれにせよ、それが死の悩みと繋がるかとは到底思えないが、まったく関係ないとも言い切れない。
 いや、もしかすると彼女は何か病を患っていて、摂取する食物を制限している? それも、他人には言えないほどの重大な疾患……とか。
 少なくとも単に食欲がないとか、人前での食事が恥ずかしいといった理由よりは可能性があるように思えた。
 そこで相沢は確信を突く質問を投げる。
「……誰かを殺したいほど恨んでいるとか、自殺を考えている可能性はありませんか」
「まさか! そんなことは絶対にありません」片桐は即座に否定した。「……確かにティンカーベルズはアイドルとしての知名度はまだまだです。ですがメンバーの中でも、佐倉は特に面倒見が良くて礼儀正しく、誰からも慕われています。悩みがある事は何となく察していますが、まさかあの子が誰かを恨んでいるとか、ましてや自殺を考えているとは、今まで思いもしませんでした」片桐の言葉に嘘はないように思えた。
「記念に一枚いいですか?」相沢は念スタントカメラを取り出し、おもむろにシャッターを切る。いきなりの行為に、露骨に不審顔をみせる片桐だったが、あなたが素敵だったのでと誤魔化した。
 その後、少し会話を交わした後、佐倉さんによろしくお伝えくださいと頭を下げ、相沢は事務所を後にした。
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