第6話

文字数 1,805文字

 その夜、相沢はリビングのソファーに寝そべりながら、佐倉伊織の写真を眺めていた。
 何度見返しても、ふきだしは真っ黒のままで、笑顔の裏の叫びをうかがい知る事が出来ない。スマートフォンには『今日はせっかくのお誘いにお応え出来ず、本当に申し訳ございませんでした』とのメッセージが白く浮かび、心を一層沈ませた。
 ふとソファー横の鞄に手が伸びる。伊織の忘れていった鞄だ。あの後、駅員に預けようかとも思ったが、会う口実として、直接自分で返しに行こうと、あえて持ち帰っていた。
 悪いと思いつつファスナーを開けてみると、ステージ衣装だと思われる黄緑色の派手なコスチュームが目に入る。
 シワの入らないよう、それをゆっくり取り出してみると、その下に大きめの幕の内弁当の折が現れた。恐らく今日のイベントで配られたものと考えられる。数えてみると全部で八個。どれも開封の跡がなく、まったく手が付けられていない。鞄の重さの原因が判明したが、同時に謎が湧いて出た。
 何故弁当が八つも? 
 伊織の華奢な体では、弁当は一つで充分なはずだ。電車で聞いた彼女の話によると、現在独り暮らしのはずだし、仮に家族がいたとしても、日持ちのしない弁当がそんなに必要とも思えなかった。もしかしてこれが食事の誘いを断った理由なのだろうか? しかしいくら考えても相沢の誘いを断ってまでこの弁当を食べたかったとは考えにくい。昼間の雰囲気からしても相沢を嫌がっている素振りは無く、むしろ好印象と言ってよかった。
 やはりこの写真の謎を解くしかない。
 写真をポーチに仕舞い込むと、相沢は明日の予定を頭の中で整理した。

 翌朝。
 降りしきる雨の中、タクシーを呼び、いの一番で松極堂を訪れると、相沢は問題の写真を口髭の老人に叩きつけた。
「これは一体どういう事だ?」
 まあまあ落ち着きなさいとたしなめた松極堂の主人は、唾を飛ばしながら熱心に語る相沢の言葉に聞き入った。
「うーむ、それは厄介じゃな」あごひげを摩り、老人は唸った。
「あんた、こうなった理由が分かるか」相沢の眼に鋭い輝きが宿る。
「ふきだしが黒いという事は、やはり余程の闇がその娘を支配しておると考えるのが妥当じゃ」
 相沢はその言葉に驚かなかった。佐倉伊織には秘められた何か不吉なものを感じていたからだ。
「その闇とはどんなものだ?」
「ワシに分かるわけなかろう。まあ、そうあせるでない」口ひげの老人は、ちょっと待っておれと、店の奥へ消えた。

 数分後。透明の液体の入った小瓶を手に老人が戻ってきた。
 おもむろに栓を開けると、相沢の示した写真の黒いふきだしの上に中の液体を垂らし始めた。その途端、ふきだしの黒が徐々に薄くなっていく。
「これは……」
「いいから黙って見ておれ」
 固唾を呑んで見つめていると、やがて一つの文字が浮かび上がってきた。それはふきだし全体の始めの部分で、それを見た相沢は驚愕の声を挙げる。
「……死……!」
 確かにそうあった。ふきだしの文字は、あと六、七字ほど続いている様だったが、先頭の文字以外、滲み過ぎて潰れてしまい、判読は不可能だった。
「これはどう解釈すれば……」相沢にはなんとなく予想がついたが、それでも口にするのをためらわずにはいられない。
「死ね。もしくは死にたい。おそらくそのどちらかじゃろう」口髭を撫でた老人は、そう淡々と言い放った
「考えられるのは殺意じゃ。もしくは……」
「もしくは?」
「自殺願望じゃ。」
 つまり、殺意または自殺願望を示唆しているのだろう。
 どちらにしても、伊織の闇は相当深い。
 誰かを殺したいほどの深い憎しみが、彼女の心を真っ黒にしているのか、にじみ出る絶望感が心に真っ黒い壁を作っておるのかもしれない。
 伊織が誰かに殺意を持っているとは思えない。だとしたら自殺? 
 どちらにせよ、伊織が常に“死”に関する想いを強く意識していることが分かった。相沢は自分が介入できる立場なのか自問自答したが、彼女の儚げな微笑みが胸に浮かぶと、どうしても助けたいという衝動を抑えられなかった。
 こうしてはいられない。
 相沢は店を出ると、ティンカーベルズの所属事務所である片岡芸能プロダクションに向かった。昨夜のうちに『忘れていった鞄を渡したいから、明日、君の事務所に行ってもいいかな?』とのメールを送り、『ありがとうございます。もし私がいないときは預けておいて下さい』との返事をもらっていたのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み