文字数 1,998文字

 ちょっと様子を見てくるわ、と馴染みの魔女が荷造りをするさまを、ハワード・リリエンソールはにこにこと眺めていた。彼女と知り合ってから数十年。手許へ引き取った大姪が師事し、こうして面倒を見てくれることが有難いと思う。
 アリーチア・メルカダンテは、リシュナーの魔女と二つ名を戴いた、偉大な魔女である。
 しかし、彼女は美しく豊かな榛色の髪の乙女であり、ハワードよりもよっぽど長く生きている人魚(シレーナ)であった。
「けれど、リーチア? まだ早いと思うけどね」
 雪も溶けていないのに、と愉快そうに口にすれば、彼女は「いいの」と荷造りを続ける。
「だって、雪解けを待っていたら、絶対に荷造りが終わらないわ!」
 びたん、と青玉(サファイア)のような尾鰭が石畳を叩いて、彼女は器用に椅子から立ち上がった。ゆったりと足許まで覆うローブは真っ黒で、見るからに有難い魔女様を演出している。
 実際、客を迎える時はフードを目深に被り、厳かな話し方をするのだ。彼女が唯一失敗したのはハワードに対してのみで、だからこそ、こうして大姪共々親しくさせてもらえているのだと思う。彼女の過去が、彼をそこで踏み止まらせてしまったけれど。
「あの子ったら、うっかり二つ名付きになっちゃうんだもの! そりゃぁね? ハワード自慢のお兄様の孫で、あなたが大切に育ててきた、素晴らしい女の子よ? 慕われるのは当然だけども!」
 魔女として教えていないこともたくさんあるのに! と可愛らしい声で吠えながら、次々と書籍を積み上げていく。それを見学していたハワードは、ふと疑問を口にした。
「ところでそれ、全部持って行けるのかい?」
 はたと手を止めた彼女は、改めて机の上の山積みの書籍を見遣る。そうして思案の後、幾つかの書籍を仕分け始めた。
「……ちょっと、選んでいくわ」
「そうしてくれると嬉しいな。私が一緒に行けたらよかったんだけど」
「それは仕方ないわよ、お仕事だもの。それにしても、あの子ったら相変わらずの格好なのかしら。社交界への初登場(カミングアウト)以来、頑なにお洒落から遠離ってたけど」
 ため息混じりに吐き出して、彼女は憂鬱そうに手にした書籍を抱き締める。
「ウェルテのシャフツベリだったかしら? 都会なんでしょう?」
「そのようだね。ところで、うちにはあの子から手紙が届いたばかりだったんだけど。君のところへは届いていないのかな?」
 え、と瞠目して振り向いた彼女は、きょろきょろと室内を見回して、慌てて手紙の束が置かれた櫃へ向かいかけ、もどかしく尾を脚へ変化させた。がさがさと暫く手紙を漁り、やがて「あった!」と嬉々として声をあげる。
「やだ、気付いてなかったわ。有難う、ハワード! もうもう、どうでもいい催促ばっかりくるんだもの、埋もれちゃってたみたい」
 うきうきとペーパーナイフを使って手紙を引っ張りだし、彼に断って目を通し始めた。間もなく真剣な眼差しへと変わり、便箋を捲っていく。そうして、思案げに小首を傾げる。
「どうだった?」
 尋ねると、彼女は書籍の山を一瞥して、軽く肩を竦めてみせた。
「これほど持ち込まなくても大丈夫みたい。なんでも、あちらで心構えを教えてくれるヒトや、薬草学の足りない知識を助言してくれるシュティルフォルクがいるんですって」
「あぁ、そうらしいね。内容は、それほど変わらないのかな」
「んんー、多分、魔女に関してもう少し詳しく書かれてるんじゃないかしら」
 紹介したいヒトがいるらしいわ、と愉快そうに目を細める。
「そちらには、書かれてた? 男性らしいわよ」
「良い友人が出来たとは書いていたけどね」
 彼は素晴らしい仕立て屋で、大変お世話になっているのだと、楽し気に字が踊っていた。アールヴの血を引くヒトと初めて会ったと、はしゃいでいたらしい様子の文面を、微笑ましく思い出す。
 かの国土には、魔獣の多くが共存していることで有名だ。大姪にとっても良い経験がたくさん積めているようで何よりである。やはり、思いきって外へ出して良かったのだと、心から安堵したのだ。あの賢しい子に、この国は窮屈すぎる。
「ふぅん、アールヴだなんて、先祖返りかしらね。珍しいこと」
 小首を傾げて、柔らかく微笑む。
「でも、うん。あの子にも素晴らしい出会いがあったのね。善い友人は生涯の宝だわ。あたしにとってはあなたね、ハワード」
 彼女が寄せてくれる友情と、信頼と。そういった愛おしいものを心の奥へそっと置いて、彼はいつものように「光栄だね」と笑う。
 彼女は曾て、人間に手酷く裏切られた。それなのに、ヒトは愛しいと笑って、その白い手を差し伸べてくれるのだ。そんな彼女へ敬意を抱き、彼女にとって善き隣人であれるよう、ずっと己を律して生きてきた。
 だからこの感情は、きっと恋にはなりえないのだ。
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