まえがき その二

文字数 1,478文字


 読みやすくすると、原稿用紙4枚になるんじゃないかな。


 湖の声         

「湖音(こと)の故郷は、この湖だよ」
 パパの言うことが嘘だともう知ってる。
 でも、湖音はコクリとうなずいた。

 幼稚園で言った時、みんなが笑った。
 チーコ先生も困った顔をした。

 早く帰りたいのに、パパはカヌーを漕ごうとしない。
 夏休みが終わっているので、湖に遊びに来ている人は少なかった。

「この忙しい時に、カヌーに行くって信じられない。それよりも、荷物の整理をすべきでしょう。パパの部屋、半分も片づいてないのよ」
 朝、ママに叱られていたパパがかわいそうになって「湖音も行きたい」と言ってしまった。

 もうすぐパパは、お仕事でアメリカに出発する。
 ママと湖音が行くまでひとりぽっち。
 本当はママのお手伝いをしてから、ピザのトッピングを一緒にしたかった。

「湖音は初めて湖を見て、怖いって泣いたんだよ。世界を認識し始めた時だったから、風景が逆さに映って混乱したんだな」
 時々パパは、意味が判らないことを楽しそうに喋る。

「パパは、湖音の頬の涙を拭って湖に流したんだよ」
 まただ。もう、聞き飽きてる。聴こえないふりをした。

「空のお魚はどんな色なのって、パパに尋ねたこともあったな」
「やだよ、そんな昔のこと。三っつだった頃だよぉ」
 覚えてる。あの日も湖に空が映って、雲の上に浮かんでるようだった。
「そうか、四歳の湖音にとって一年は二五%なんだな。パパの九年と同じか」
 パパは声を出して笑った。ひとりで盛り上がってる。

「湖音、目を閉じてごらん。耳を澄ませると、色々な音が聴こえるだろ」
 カヌーに当たる水の音。鳥が鳴いてる。遠くで波みたいな音がする。葉っぱが揺れてる? 
 風の音だ。疲れてパパの胸に頭を預けた。心臓の音が耳を通さなくても届く。

「目に見えるものと、見えないものに包まれて生きているんだよ」
 パパの言葉は判らない。

「手を入れてごらん。きっと、湖の声が聞こえるよ」
「湖の声?」
 身体を乗り出して腕を伸ばす。
 思っていたよりも水が冷たい。
 湖音の影がキラキラ光る水に揺れる。
 湖に溶けていくようだ。

「聞こえるか?」
 首を横に振ると、パパは耳元まで顔を近付けた。
「湖音は愛される為に生まれてきた。そして、愛する為に生きて行くんだよ」
 またひとりで盛り上がってる。
 でも、パパは笑ってない。

 もう一度、湖に手をひたした。
 指先からは湖の流れしか伝わってこない。
「パパは今日、湖にお別れをしに来たんだね」
 湖音の言葉に、パパは恥ずかしそうに笑った。

「hello ハロー」「thank you サンキュー」「goodbye グッドバイ」
 そして「good luck グッドラック」
 湖音も覚えたばかりの英語で、お別れを言った。


 宿題として提出したあとは忘れていたんだけど、組会に出す小説を焦って書いているときに限って、湖音ちゃんが背中をトントンしてジャマをするんだ。
  つい相手をして、書き溜めた掌篇です。

   春「春、桜のころ」(6月)
   夏「朝顔」(8月)
   秋「バラ」(10月)
   冬「持久走」(12月)

 2014年にこれらの作品を集めて、『掌編・湖音シリーズ 湖のこえ』のタイトルで手作りの小冊子を作って、古い友だちに送った。

 それから3年後の2017年に、いまの形に書き直して地方の文学賞へ応募したんだけど、最終選考には残ったものの、「これは少女小説です」とバッサリト斬られてしまった。

 近頃は顔を見せてくれないので、少し寂しいのだけれど、ぼくが最も愛している作品なんです。
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