第1話 夏の湖
文字数 1,622文字
湖音(こと)はリビングの窓から庭の紫陽花の花に降る雨を見ていた。
パパが湖へ行こうと言い出したので振り返った。
「雨が降っているのに、カヌーって信じられない」
「この雨は昼までにあがるよ」
ママの声が半分怒っているのに、パパは気づいていないみたい。
「それよりも、荷物の整理をすべきでしょう。あなたの部屋、半分も片付けてないのよ」
ママとパパがケンカを始めそうになったので「湖音も湖へ行きたい」と言った。
本当はママのお手伝いをして、お昼に食べるピザの飾り付けをしたかったけど、もうすぐお仕事でアメリカに出発するパパの味方をした。ママと湖音が行くまで、ひとりぽっちになってしまうパパが可哀想だと思ったから。
夏休み最後の日曜日なのに、雨のせいで湖に遊びに来ている人は少なかった。
湖音は傘をさして湖に入っている人を見つけると、口に手を当てて笑った。
浜辺でパパが2人乗りのカヌーを組み立て始めたので、湖音は素足を緩やかな波に洗わせて遊んだ。
雨が降らなければいつものように3人で来れたのに……。湖音は空を見上げた。顔に降る雨は優しくなかった。
水面には、雨が音もなく小さな波紋を描いていた。ちらちらと入り乱れている波紋の中に入って顔をつけると、ごぼごぼと水が鳴る。
ブルーのライフジャケットと、両腕に腕浮き輪をつけているから浮かぶことが出来た。
カヌーに乗り込んで湖上へ出ると、早く帰りたいとは思わなくなった。
いつもはパパの後ろでママの膝の中に座っている。今日はパパの胸に頭をあずけた。ライフジャケット越しに、パパの心臓の音が耳を通さないで届いた。
パパがパドルをゆっくりと左右に動かす。
厚い雲に太陽が融けているような明るさになった。雨もはっきりと目に映らないくらい細くなっている。
目を閉じて耳を澄ますと、カヌーを優しく叩くような水の音が聴こえる。
「湖音は、この湖から産まれたんだよ」
パパの声に湖音はコクリとうなずいた。でも、嘘だということは知っている。
幼稚園で湖音が「湖から産まれた」と言った時、みんなが笑った。チーコ先生も困った顔をしていた。
「空にはどんなお魚が泳いでいるのって、訊いたことがあったな」
あの時は湖に空が映って、雲の上に浮かんでいるようだった。
「やだよ、そんな昔のこと。3つだった頃でしょ」
「そうか、4歳の湖音にとって1年は25パーセントなんだな。パパの8年と同じか」
パパは時々意味が判らないことを楽しそうに喋る。
「湖音は初めて湖を見た時、周りの風景が全て逆さに映っていて怖いって泣いたんだよ」
そう言うと、パパはひとりで盛り上がって笑った。
「パパは、湖音の頬の涙を拭って湖に流したんだよ。泣き止まないから、顔を湖に入れたんだ」
始めて聴く話だ。
「ひどいよ。そんなの」
「すると、湖の水がどんどん増えてパパは溺れそうになった」
「パパの嘘つき」
湖音は両手を上げてパパの口を指で押さえた。
パパが顎を動かしたので、湖音の手のひらがチクチク痛くなった。
身体が大きく横に揺れた。
「風が出てきたな」
パパがパトルを右に漕ぐと、カヌーが縦に揺れるようになった。
目の前に高い波が押し寄せてくるのを見て、湖音は怖くなった。
「もう帰りたい」
「そうだな」
パパは波に乗りあげながら、力強くパドルを動かしてカヌーを回転させた。
浜の近くまで戻ると、パパがカヌーを降りて水の中に入った。
ライフジャケットの上に両手を乗せて、顔を出した。
「ラッコさんみたい」
カヌーに残った湖音が笑った。
「こうしていると、湖のこえが聴こえるんだ」
波に揺れているパパが言う。
「湖のこえ?」
「そうだよ。頑張れって言ってくれるんだ」
「湖音にも聴こえるかな?」
「どうかな。湖音は聴く必要はないよ」
「子どもだから?」
パパは笑うだけで答えない。
「そうか、パパは湖に元気を貰いに来たんだね」
湖音は湖を見渡した。
波が上げる白いしぶきが、曇った景色の中で踊っていた。
パパが湖へ行こうと言い出したので振り返った。
「雨が降っているのに、カヌーって信じられない」
「この雨は昼までにあがるよ」
ママの声が半分怒っているのに、パパは気づいていないみたい。
「それよりも、荷物の整理をすべきでしょう。あなたの部屋、半分も片付けてないのよ」
ママとパパがケンカを始めそうになったので「湖音も湖へ行きたい」と言った。
本当はママのお手伝いをして、お昼に食べるピザの飾り付けをしたかったけど、もうすぐお仕事でアメリカに出発するパパの味方をした。ママと湖音が行くまで、ひとりぽっちになってしまうパパが可哀想だと思ったから。
夏休み最後の日曜日なのに、雨のせいで湖に遊びに来ている人は少なかった。
湖音は傘をさして湖に入っている人を見つけると、口に手を当てて笑った。
浜辺でパパが2人乗りのカヌーを組み立て始めたので、湖音は素足を緩やかな波に洗わせて遊んだ。
雨が降らなければいつものように3人で来れたのに……。湖音は空を見上げた。顔に降る雨は優しくなかった。
水面には、雨が音もなく小さな波紋を描いていた。ちらちらと入り乱れている波紋の中に入って顔をつけると、ごぼごぼと水が鳴る。
ブルーのライフジャケットと、両腕に腕浮き輪をつけているから浮かぶことが出来た。
カヌーに乗り込んで湖上へ出ると、早く帰りたいとは思わなくなった。
いつもはパパの後ろでママの膝の中に座っている。今日はパパの胸に頭をあずけた。ライフジャケット越しに、パパの心臓の音が耳を通さないで届いた。
パパがパドルをゆっくりと左右に動かす。
厚い雲に太陽が融けているような明るさになった。雨もはっきりと目に映らないくらい細くなっている。
目を閉じて耳を澄ますと、カヌーを優しく叩くような水の音が聴こえる。
「湖音は、この湖から産まれたんだよ」
パパの声に湖音はコクリとうなずいた。でも、嘘だということは知っている。
幼稚園で湖音が「湖から産まれた」と言った時、みんなが笑った。チーコ先生も困った顔をしていた。
「空にはどんなお魚が泳いでいるのって、訊いたことがあったな」
あの時は湖に空が映って、雲の上に浮かんでいるようだった。
「やだよ、そんな昔のこと。3つだった頃でしょ」
「そうか、4歳の湖音にとって1年は25パーセントなんだな。パパの8年と同じか」
パパは時々意味が判らないことを楽しそうに喋る。
「湖音は初めて湖を見た時、周りの風景が全て逆さに映っていて怖いって泣いたんだよ」
そう言うと、パパはひとりで盛り上がって笑った。
「パパは、湖音の頬の涙を拭って湖に流したんだよ。泣き止まないから、顔を湖に入れたんだ」
始めて聴く話だ。
「ひどいよ。そんなの」
「すると、湖の水がどんどん増えてパパは溺れそうになった」
「パパの嘘つき」
湖音は両手を上げてパパの口を指で押さえた。
パパが顎を動かしたので、湖音の手のひらがチクチク痛くなった。
身体が大きく横に揺れた。
「風が出てきたな」
パパがパトルを右に漕ぐと、カヌーが縦に揺れるようになった。
目の前に高い波が押し寄せてくるのを見て、湖音は怖くなった。
「もう帰りたい」
「そうだな」
パパは波に乗りあげながら、力強くパドルを動かしてカヌーを回転させた。
浜の近くまで戻ると、パパがカヌーを降りて水の中に入った。
ライフジャケットの上に両手を乗せて、顔を出した。
「ラッコさんみたい」
カヌーに残った湖音が笑った。
「こうしていると、湖のこえが聴こえるんだ」
波に揺れているパパが言う。
「湖のこえ?」
「そうだよ。頑張れって言ってくれるんだ」
「湖音にも聴こえるかな?」
「どうかな。湖音は聴く必要はないよ」
「子どもだから?」
パパは笑うだけで答えない。
「そうか、パパは湖に元気を貰いに来たんだね」
湖音は湖を見渡した。
波が上げる白いしぶきが、曇った景色の中で踊っていた。