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文字数 1,656文字

 央ちゃんに慰めてもらってからあたしはもう一度桜田先輩に会おうとしたけど、それは叶わなかった。三年生の補習授業はもう行われていなかったし、お盆休みに入ってからは学校に行くこともなく夏休みは終わろうとしている。それなのにあたしはカレンダーを目で追いながら、先輩のことを考え続けていた。

 お盆が終わってからすぐに梨沙子から連絡があった。夏休み中に喧嘩をしたことがまるで夢だったように、あたしと梨沙子は『普通』になった。ただ、あたしが抱える気持ちは梨沙子には伝えられないままなので完全に元通りというわけにはいかない。幸い梨沙子はそんなことを察することもなくて、梨沙子に超能力がなくて本当によかったと安堵するばかりだ。

「ねえ梅、休み明けのテストさあ数学ってどこまでだっけ」
「えーと、教科書の四十ページまでだったかな。範囲、広いよね」
「マジかあ。しんどいなあ」
「しんどいよね。あたし数学嫌い」

 あたしも、と消え入りそうな梨沙子の声。テストなんて爆発すればいいのにとか、学校が火事になってテストだけ全部燃えたらいいだとかそういう話をした。実現してほしいなんてほぼ思っていないけど、テストがなくなればいいと思うのは本音。

「とりあえずお互い頑張ろうね。梅はピアノの練習もあって大変だろうけど」
「あー、うん。最近は学校にも行かないからあんまり出来てなくて。ピアノの先生のところで週に二回くらい弾くだけ。テスト終わったら頑張らないと」
「そっか。応援してるよ」

 ありがと、と反射的に返した。学校に行かなくなるとピアノ教室以外でピアノを弾かなくなる。小夜が連日家のピアノを占拠していて、楽譜も置きっぱなしだからだ。それを退かすのは憚られるので、あたしは家のピアノにほとんど触れることがない。小夜がピアノ教室に行っているほんのわずかな間だけ練習している。

 電話を切ってから机に向かい、とりあえず数学の教科書を開いて問題を解いて、十五分くらいで大あくびをした。

 そうしているうちに夏休みは明けた。目の前に置かれた問題用紙と答案用紙を眺めながら、やっぱり燃えてはくれなかったんだと小さく溜息をつく。勉強の成果を書き込んでいくものの、結局見直しまでは間に合わなかった。

 テストは二日間に渡って行われ、最後の科目が終わった瞬間に教室内は一気に解放感に包まれる。ホームルームを終えて女生徒達は自由へ飛び出していった。例に漏れずあたしも第二音楽室を目指すが、その前に寄るところがある。

 三年A組と書かれたクラス札。ヒバジョは歴史ある──はっきり言うと古い学校なのでおそらく真っ白の板だったそれは全体的に黄ばんでいる。見上げて文字を確認してから入口の前に立っていると、自由の波に混じり目を伏せたまま教室を出ようとする女生徒がいた。

「桜田先輩」

 あたしは確かに桜田先輩に呼びかけたというのに、他の先輩が反応してあたしの方をじろりと見る。その視線はまるで珍獣でも蔑むようだった。睨み返してやりたいところだけど、さすがに三年生の先輩は怖いので自分のシューズの先だけを見るようにした。

「……どうしたの?」

 声のトーンはいつもの先輩だった。だけど『関わるのはやめた方がいいって言ったよね』とでも続きそうな雰囲気がびしびしと伝わってきて折れそうになる。
 童話の『北風と太陽』に出てくる旅人が北風に吹かれたとき、こんな気持ちだっただろう。しかしあたしも旅人と同じくぐっと自身に力を込めて、顔を上げる。

「あの、少しだけ時間いいですか」

 周りから見ればあたしは桜田先輩に喧嘩を売りに来た生意気な下級生といったところだろうか。この学校は胸元のリボンタイの色で学年が分かってしまうので、一年生のあたしが三年生の先輩を呼び出すなんてとんでもないことだ。部活の用事だとかそういうことなら話は別だけど。

 桜田先輩はあたしが言わんとしていることを察しているようだった。場所を変えようか、と淡々とした口調で言うといつもの第二音楽室へ向かう。完全に喧嘩の流れのようだけど──断じて違う。
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