エピローグ

文字数 1,649文字

 ──眠っている間に不思議な夢を見た。

 ひばりさんと付き合っていた頃に行った水族館らしき光景が目の前に広がっている。だけど、水中生物と私たちを隔てる分厚いガラスは見当たらなくて、目の前を小さな魚がひとつの大群になって泳いでいった。
 まるで私が水中に立っているような感覚だったけど、服が濡れたりだとか息が苦しいだとかそういうことはまったくなかった。普通に生活するみたいに呼吸をして、魚が流れていくのをただ見ている。

 そんな非現実的なことが起こっていたので、私は夢の中なのにそれを夢だと認識していた。
 針葉樹の葉っぱの形をした銀色の魚の大群が旋風に巻き込まれていくように泳いでいくが、その後ろを一匹の魚がゆっくりとついていく。おそらく大群についていけずにいるんだろう。だけどそれを気にする素振りもなく、その魚は背びれと尾びれをゆらゆらと動かしゆっくりと進むだけ。

 ──あのときと同じだ。

 私はこの魚を優雅だと思った。水の中をゆらゆらと進んでいく姿が水中で煌めいて見えたから。だけどこんな魚は大群からいじめられてしまうんだと、ひばりさんは言っていた。

 この魚もそれを分かっているんだろうか。魚として生きているならそれくらいは心得ているだろうし、きっと何かしらの覚悟はあるのかもしれない。それでもこの魚はあの大群の後をのんびりと追い、光差す海面を目指している。

 ふっと見上げると先ほどの大群は銀色の葉ではなく、違うものに変わっていた。ひらひらと舞い落ちてくる薄桃色の花びらに変わり、私とその魚に降りかかってくる。春が来たんだ、と分かりやすく知らせてくれるようだった。

「……今、あなたは幸せ?」

 ぱたぱたと背びれを動かしたままそこに留まる魚にそう問うてみるけど、魚は無表情のまま何も言うことはない。すぐに桜の花びらが固まっている場所へマイペースに進んでいく。
 その大群へ合流したところでこの魚が幸せになれる確証なんてないのに、そこを目指していく。例えそうなったとしても、この魚は傷ついたって春を求めて泳いでいくんだろう。
 その姿がひどく美しく思えた。

 魚が花びらと混ざり合おうとするところではっと目が覚める。私はどうやら熟睡していたようで、せっかく買ったお菓子を食べる間もなく長崎港に到着してしまった。
 キーボードやボストンバッグを抱えばたばたと船を降りる。誰が見ても寝起きなんだと分かるような歩き方をしながら、ターミナルの中に移動してひと息ついた。

 のんびり休んでいる暇もないので、ひとまず長崎駅へ移動する。夕飯は電車に乗って食べることにした。何か美味しいお弁当でも探すことにしよう。
 そして、忘れないうちにやっておかなければと私はスマホを取り出した。ラインのアプリを開いたけども、文字を打つのがもどかしくて結局電話をかけた。

「もしもし?」
「いきなりごめん、今大丈夫?」
「うん、どうした?」
「あのさ、明日の夕方頃到着する飛行機で東京に戻る。だから、羽田まで迎えに来てほしい」
「なんだ、タクシーのご予約ですか。いいよ。で、それだけのために電話したのか」

 央ちゃんの呆れたような笑い声が響く。いつもよりこそばゆく感じる音に、私の顔面も緩んだ。

「私達がお互いに幸せになるような方法を、ご飯でも食べながらゆっくり話したくて」
「……ん、分かった。じゃあ明日。到着時間、後で知らせてね」

 央ちゃんはそれ以上何も言わずに、すんなりと電話を切る。このときばかりは央ちゃんが何を考えて電話を切ったのかは分からなかった。

 私の意識はもう明日へ向いている。
 駅のホームへ進む人々を眺めながら、私はその後ろをゆっくりとついて行く。その人々があの夢のように桜の花びらであればいいのに、とも思ったけどここは現実だった。

 ──幸せって何?

 もう一度、あのときの私が囁きかけてきた。
 それに対しての私の答えは、やっぱり「分からない」のひと言に尽きる。でも、今の私は確実に幸せとやらを目指している。それだけは、きちんと分かっているつもりだ。
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