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文字数 4,953文字

 翼が鋭い視線に射竦められていたのは、けれども、ほんのわずかのことだった。

 彼が、ルシファー……。

 実感がこみあげてくると同時に湧き上がり、胸を満たした感情は、相手に対する畏怖でも恐懼(きょうく)でもなく、純然たる喜びだった。ここ数日、ひたすら捜しつづけてきた人物。彼にふたたび会えた嬉しさが、他のどんな感情をも凌いで翼を歓喜させた。

「こんにちは!」

 傍らに控えていたデリンジャーまでもが目を瞠ったくらいであるから、このときの翼の態度は、リアクションとしてはかなり珍しい部類に属すものだったのだろう。
 満面に笑みを湛えて挨拶した青年を、《セレスト・ブルー》の若き帝王は、かすかに眉を動かし、意外そうな表情で見返した。

「ボスへの貢ぎ物よ。どう、気に入ってくれた?」

 黙って自分を顧みた年下のボスに向かって、デリンジャーは悪びれもせず軽口をたたいた。

「――呼んだおぼえはない、と言いたいところだが、少し話がある。デル、席をはずせ」
「はぁい、了解ですぅ」

 デリンジャーは軽やかに応じると、翼を部屋の中へ押しこみ、抗議の声をあげるレオを強引に連れて、さっさとドアを閉めてしまった。
 予想もしていなかった展開に、さすがの翼も戸惑ってその場に立ち尽くした。

 重々しい音をたてて扉が閉まると、室内には静寂が戻った。

「……新見翼。ユニヴァーサル・タイムズ本社社会部勤務。まだ駆け出しのジャーナリストってとこか。会うのは、お互い、これで二度目だな」

 抑揚のない低い声が紡いだ言葉に、青年はさらに驚いて瞠目した。
 ルシファーは、つと立ち上がって冷蔵庫の中から冷えた缶ビールを取り出すと、プルトップをつまみ上げて直接口をつけ、中の黄金の液体を飲み干した。

 ふたりのあいだに、ふたたび静寂が舞い降りる。
 沈黙がつづく中、翼の胸の(うち)で、ここ数日抱いてきたひとつの思いが、確信に変わった。

「あの」

 意を決した青年は、思いきってスラムの覇王に声をかけ、みずからの左腕を相手に示すように胸のまえで上げて見せた。

「これを届けてくれたのは、ひょっとして、君?」

 翼の問いかけに対し、鮮やかな色合いの瞳がその手もとを見やる。そして、無言のまま視線を伏せると、かすかに口角を引き上げた。

 翼の左手首にある通信端末は、一度はたしかに、彼の手から失われたものだった。

 入院の翌日には遺失届を提出し、退院後に、通信端末とともに失われたIDチップの再交付手続も行う予定だった。だが、入院中の病室のベッドサイドに、いつのまにかなくしたはずの通信機が置かれていた。退院直前のことだった。半信半疑で起動させてみれば、放り出された際の傷がわずかに本体に残るものの、問題なく正常に作動した。そればかりか、妻と娘のホログラムまでが所有者の個体情報に反応して浮かび上がった。翼が病室に備えつけのシャワールームを使用しているあいだの、短い時間での出来事だった。

 いったいだれが。

 遺失物の拾得も含めて事件を扱っていた捜査当局は、この件について関知しておらず、病院側でも出入りした人間を把握する者は皆無だった。


「その口ぶりからすると、最初からあたりをつけてたようだな」

 紫煙を(くゆ)らせながら、(しず)かな声が言葉を紡いだ。

「なぜ、俺だと思った?」

 低く問われ、翼は理由を説明した。
 自分を攫ったグループの少年たちは、あの抗争で(ほとん)どが殲滅させられたと聞く。しかし、生き残った者の中に、わざわざ拾得物を届けてくれる人間がいるとは思えなかった。偶然であるにせよ、あの状況下で翼の端末を入手し、それをだれにも気づかれることなく入院先の病室に届けることが出来る人間は、考えれば考えるほど限られてくる気がした。

「だから、ひょっとしてっていう思いがあったんだけど、その反面で、なぜそのまま捨て置かなかったのか、その意図がわからなかったんだ。だからずっと、確証を持つことができなかった」
「うちの下っ端が、偶然拾ったらしいんでな」
「だから返しに来てくれたの? わざわざ病室まで?」
「届けさせたのは俺だが、直接俺が出向いたわけじゃない」

 翼の質問に対するルシファーの答えは、見事に論点をすり替えられていた。
 意図的にはずされた答えの中に、真意が含まれている。そんな気がしたが、ルシファーはそれ以上、翼の求める答えに応じるつもりはないようだった。

 正面から翼を見据える瞳にやわらかさはない。身じろぎもせず翼がその場に佇んでいると、彼は目線を落として、テーブルに置かれた灰皿がわりの空き缶の中に、煙草の灰を落とした。

「――あのとき、おまえを始末しなかったのは、おまえの存在が俺たちを脅かす可能性がないと踏んだからだ」

 口調は謐かだが、他人に命令しなれた者特有の覇気が、翼の精神を圧する。翼は無言で、その圧力に耐えた。

「ただの一般市民が、観光でこんなところへ来たわけじゃあるまい。取材対象を俺たちに据えるつもりなら忠告しておく。生命が惜しかったら、さっさと荷物をまとめて地下(おうち)へ帰んな。ここは、おまえらのような、平和な場所で健全に育った奴らが興味本位で覗き見しておもしろがれる程度の、ちょっとガラが悪いだけの、安っぽい『裏世界』なんかとはわけが違う。ウロチョロされちゃ邪魔なんだよ。消えろ」

 交渉の余地が、すでにまったくないことは(あき)らかだった。しかし、翼は怯まなかった。
 彼に近づくことは、手負いの野生動物を3日で飼い馴らすより難しい。そうシュナウザーにも忠告され、翼自身、あっさり承諾が得られると安易に楽観していたわけでもなかった。こんなふうに峻拒されることを覚悟のうえで、それでももう一度、《ルシファー》に会いたいと切望し、ここまでやってきたのだ。

「あの……、覗き趣味って言われちゃうと返す言葉がないんだけど、でも、決してふざけてるわけじゃないんだ」

 翼の言い分に、ルシファーは嗤笑(ししょう)とも冷笑とも区別のつかぬ、毒のある笑みを端麗な口唇(くちびる)の上に刷いた。

「おまえの発案じゃないのかもしれないがな、おまえが取り組もうとしてる企画そのものが、はじめっからふざけてんだよ。たしかに俺たちの存在は、安逸の世界で平穏に身を委ねてぬくぬくと生きてる連中の好奇心を刺激するには格好の材料かもしれねえ。奇を(てら)った、大衆うけしそうな題材にもなるだろう。ついでに、社会正義だか人類愛だかを理想に掲げて特ダネ集めに情熱燃やしてる、おまえらハイエナどものプロ意識も充分にくすぐるに違いない。躰張って命懸けでスクープするともなれば、そのけなげさゆえに、自己満足と自己陶酔の甘ったるいぬるま湯にどっぷりつかれるだろうしな。さぞいい気分だろうよ」
「――ルシファー、そうじゃない。君は誤解してる」
「誤解? いったいなにを?」
「どんなにふうに説明したところで、君にはただの詭弁にしか聞こえないかもしれない。でも、少なくとも僕は、おもしろ半分なんかで君たちを追いかけまわしてるわけじゃないんだ。たしかに企画としては不誠実で安直な、大衆紙レベルのものでしかないかもしれない。でも僕は、真剣に君たちに――というより、君にこそ関わっていきたいと思ってる」

 翼の言葉に、心動かされた様子もなく、ルシファーは無表情をとおしていた。それを承知で、翼はそれでも懸命に言葉を重ねた。

「あの日、君に出逢わなかったら、こんな気持ちにはならなかった。正直、君の言うように、平和な世界で暢気(のんき)に暮らしてきた僕には到底信じられないし、信じたくもないような恐ろしい体験だった。でも、だからこそ僕は、いまここで尻尾を巻いて逃げ出すような真似はしたくない。そう思ってる。
 手を抜こうと思えば、いくらでもそれらしく書くことはできる。《ルシファー》にさえ触れなければ、ある程度の情報を入手することは僕にも可能だから。だけど僕は、君なしでこの世界を描くことはできない。君の存在に関わることなしには、なにも語れない。この世界を象徴するものこそ、ルシファー、君だと僕は思うから」

 2本目の煙草の灰が、長く、形のいい指のあいだで徐々にその割合を占めていく。視線を落としたルシファーは、(かん)してそのさまを(みつ)めていた。

「――君たちを脅かすつもりなんてないんだ。迷惑もできるだけかけないようにするし、土足で踏みこんで、君たちの秩序を乱すような真似もしない。だから、僕に少しだけ、チャンスをくれないかな。僕なりに真実を見極められる努力をしてみたいんだ。それでも君が納得できなかったり、認められないと思うなら、そのときはしかたない。僕もすっぱり諦めるよ」

 翼が口を閉じてからも、ルシファーは長いこと沈黙を保ったままだった。翼の言ったことに対して、なにかを考えているのか、それともすべてを聞き流して自分ひとりの沈思の海に揺蕩(たゆた)っているのか、その彫刻めいた無表情からは、なにも読み取ることはできなかった。

「ルシファー……」

 躊躇(ためら)いがちの翼の呼びかけに、彼はようやく視線を上げた。
 鮮やかに耀く蒼穹(そら)色の瞳には、清冽な光が宿っていた。

「迷惑極まりない話だな」

 感情の抑制された低い呟きが、その口唇から漏れた。

「新見翼、勘違いをしてるのは、おまえのほうじゃないのか? おまえがどんな視点で俺たちを見て、どんなふうにこの世界を描こうが、それはおまえの勝手だ。だが、なぜわざわざ俺が、そのためのチャンスをおまえにくれてやらなきゃならない? 俺たちの生活を脅かすつもりはないとおまえは言った。だが、おまえが深く俺たちに関わってこようとすれば、当然それは破られることになる。
 俺たちは、ちょっとばかり世を拗ねて、社会に反抗してるだけの甘ったれたガキどもの集団なんかじゃない。さまざまな理由で社会から弾き出されて追われ、1匹で生きていかなきゃならなくなった、おたずね者同士が集まってできた罪人の群れだ。サツにとっ捕まったが最後、そのまま死刑台までまっしぐら、少年法の適用規定範囲からさえはずされて、死刑執行人の熱烈な歓迎を受けるなんて特A級の凶悪犯すら、ここじゃゴロゴロしてて珍しくもねえ。なんとしてでも身元を隠しとおさなきゃならない連中だっている。
 おまえみたいな人間が好き勝手に出入りすれば、必ず奴らの、ただでさえささくれ立ってる神経を逆撫ですることは間違いない。死ぬ気で潰しにかかってくるだろう。俺はむろん、止めるつもりはないが、おまえたちが消えれば、警察どころか《メガロポリス》そのものの中央機関までが動き出す。そんなものに巻きこまれるのは、俺はごめんだ」

「でも――」

 言いかけて、翼は口を(つぐ)んだ。自分の身は自分で護る、そう豪語することができないだけに、どう切り返せばいいのかわからなかった。双方の言うことの、どちらに理があるかと問われれば、それは考えるまでもないことである。整った和――あくまで彼らなりのではあるが――を乱そうとしているのは、自分のほうなのだから。

「俺の用件は、それだけだ」

 一方的に会話を打ち切るかたちで、翼は退出を命じられた。左手首の通信端末に視線を落とした青年は、やがて小さく息をつくと、黙って命令に従うことにした。

「これだけは憶えておくがいい。邪魔だと判断すれば、俺はただちにおまえを始末する」

 背後から飛んできた声に、翼は足を止めて振り返った。

 長椅子の背に悠然と(もた)れかかり、不敵なまでに自信に溢れた表情でこちらを見据える黄金の髪の美しい王者。
 彼だからこそ、翼は絶対に諦めることができなかったのだ。

「――また、会えるかな?」

 翼の言葉にわずかに眉を動かした《セレスト・ブルー》の覇王は、次の瞬間、

「縁があったら、そのうちに、な」

 ふっと口の端を上げて、苦笑まじりにそう応えた。
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