(2)
文字数 4,213文字
仕事の都合で出立が遅れた同行のカメラマンは、翌日、午後の便で《旧世界 》に到着した。
上司の命により出迎え役を担 ったゲイリー事務官は、予定どおりの時刻に指定ゲートから現れた人物を目の当たりにするなり、度肝を抜かれて絶句した。日頃、如何なる場面においても沈着さを失わないことで知られる彼にしては、珍しい失態であった。
内務省でのゲイリーの通称は、『ミスター能面』。さまざまな局面にあって、つねに冷静さを失わず、巧みな話術をもって折衝をこなす。その一方で、彼が本音を吐露することはまずない。抑制の利いた態度と表情で他人に対することは、ゲイリーのもっとも得意とするところであった。にもかかわらず、その彼が商売道具の面をうっかり取り落として、素の顔を晒してしまった。出迎え日時及び指定されたゲート・ナンバーのいずれか、もしくはその両方を誤ってしまったかとの思いが脳裡を過 ぎったためだった。
だが、相手はゲイリーの姿を認めると、まっすぐに近づいてきてこう言った。
「失礼、ミスター・ゲイリー? カメラマンのイグレシアスです」
その言葉を聞いて、ゲイリーはますます驚愕した。
目の前に立った人物は、190を軽く超える恵まれた長身と、鍛え上げられた、たくましい体躯 の持ち主だった。
生成 のVネックセーターに黒のライダース・ジャケット、そしてブラック・ジーンズのパンツを身につけ、燃えるような赤毛を無造作に後ろで束ねている。ラフな服装の迫力のある偉丈夫が、応答を待つように濃いサングラス越しに自分を見下ろしていた。わかってはいたが、このときばかりはさすがの『ミスター能面』も、平常心を取り戻すのに非常な苦労を要した。それほど、イグレシアスと名乗ったカメラマンは、彼の許容する既成の概念からかけ離れた相手だったのだ。
「……し、失礼ですが、ミズ ・レオナ・イグレシアスでいらっしゃる?」
おそるおそるといった具合の尋ねかたに、相手はいくぶん苦笑気味に、かけていたサングラスをはずした。
確認した側はかなり婉曲な表現を用いたつもりだったが、敬称の部分は無意識のうちに強調されていた。
こういった反応には慣れているのか、そのことに不快を表す様子もなく、レンズから現れたグレーの瞳は泰然と、自分より頭ひとつぶん背の低い――といっても、ゲイリーも成人男性の平均はあるのだが――文官を見下ろした。
「ええ、そうです。はじめまして」
低く落ち着いた声が、ゲイリーのもっとも確認したかった部分を含めて肯定する。そのため、彼は目の前の人物に驚嘆しつつも、自分が仕事上のミスを犯したわけではなかったことに、ひとまず安堵した。
「失礼しました。《旧世界》へようこそ、ミズ・イグレシアス。さっそくご案内いたしますので、よろしければお荷物をこちらへ」
ゲイリーはなんとか表面を取り繕い、案内役としての本来の職務に立ち返った。
「お忙しいところ、わざわざどうも」
簡潔に言って、女性カメラマンは機材の入った大きなバッグを背負いなおすと、スーツケースを押して歩きはじめた。
「あ、ミズ、荷物でしたら私が……」
「いえ、結構。仕事柄慣れてますんで。こんなのは荷物のうちに入りませんから」
肩越しに答えて、体格に見合った長い足は、大きな歩幅を崩さず出口へ向かっていく。ゲイリーは、その後ろ姿をしばし呆気にとられて見送った。そして、我に返ると、あわててあとを追いかけた。
――どうも、いつもと勝手が違ってやりづらい。
内心、そんな感想を抱きながら、出口正面に駐車させておいた公用車に近づいてIDパスを翳 した。瞬時に認証確認がなされ、エンジンが作動すると同時に後部座席のドアが開く。ID所有者であるゲイリーがそのまま後方にまわると、それを感知したセンサーが、自動的にトランクを開けた。
接待する側の当然の義務として、ゲイリーは荷物を預かろうとした。しかし、相手はやはり、みずからの手で肩にかけていた機材入りのバッグをおさめると、その横に、いとも簡単にスーツケースを寝かせて軽く手を払った。ハンドバッグでも扱うような手軽さだったが、いずれの荷物も、通常の女性の腕力で軽々と扱えるものでないことは、一見してあきらかだった。
「お気遣いなく」
アルト、というにはかなりハスキーな落ち着き払った声が、職務に忠実であろうとする文官の大袈裟な歓待を、やんわり固辞した。
たんなる送迎のみの任務と侮って、事前に相手の情報をチェックしておかなかったのは失態だったかもしれない。ゲイリーは、ここにきてようやく、自分が今回の出迎え役を任された真の意味を理解した。
気を引き締めなおし、彼はあらためてレオナ・イグレシアスを促した。後部座席に向かい合うかたちで彼らが乗りこむと、あらかじめルート設定されていた自動運転の公用車は、静かに走り出した。
「地上ははじめてですか、ミズ?」
振動もエンジン音も殆 ど響かない車内で、女性カメラマンはアイボリーの革張りのシートにゆったりと躰を預け、窓外の景色に目を向けている。そんな相手に向かい、ゲイリーは当たり障りのない態度で話しかけた。
「ええ、まあ」
レオナ・イグレシアスは、ゲイリーを顧みて短く頷いた。
人見知りするタイプではなさそうだが、生来が口数の少ない質 なのか、自分から率先して話しかけてくる様子はない。おかげで、ゲイリーが適度な距離を保ちつつ話題を提供すると、それに対して過不足のない最小限の返答が戻ってくるという、ぽつりぽつりとした世間話がしばらくつづいた。その態度は、お世辞にも愛想がいいとは言いがたかったが、少なくとも居心地の悪さをおぼえるほど、そっけないものではなかった。
意志の強そうな切れ長の目ととおった鼻梁。やや肉厚の口唇 。年齢は、20代半ばといったところであろうか。
化粧気などまったくなかったが、素顔でも充分整っていると評価できる造りをしている。にもかかわらず、目の前の人物に、『美女』、『美人』という言葉はどうにもそぐわなかった。
引き締まった体躯のどこにも無駄な贅肉は見当たらず、かといって、人工的に作られた筋肉が不自然に隆々 としているわけでもない。胸板が厚く、肩幅も立派だが、手足も長くてごつごつとした印象が格別に目立つこともないので、総じては均整のとれた、恵まれた肢体の持ち主といえた。しかしながら、そこに女性的なやわらかな曲線というものが微塵も見当たらない。躰つきのみならず、醸し出す雰囲気、話し口調、物腰、いずれをとっても貫禄充分で、妙齢の婦人を相手にしているという実感が湧かなかった。
取材目的で《首都 》の大手新聞社から若手記者と女性カメラマンがやってくると聞いたとき、活動の場がスラムとは、いったいなんの冗談かとゲイリーは思ったものだが、これなら頷ける。事前に情報を把握していなければ、まずたいていの人間は、ひと目で女性とは見抜けまい。泰然と構えていながら、その挙措に隙はなく、実績に裏付けられた自信がシニカルな雰囲気と見事に絡み合って漂っていた。
その肉体が、実戦向きに鍛錬されていることは、素人目に見てもあきらかだった。並みの男など、冗談ではなしに片腕で軽くあしらってしまうに違いない。
荒廃を極めたスラム地区は、いまや行政の力すら容易には及ばない。そんな劣悪な環境をまえに、たかが素人たったふたりでなにができると思うゲイリーの気持ちに変わりはない。しかし、少なくともこのカメラマンが、ただ写真を撮るためだけに存在するわけでないことはたしかだろう。
「ミズ、まもなく滞在されるホテルに到着しますので、とりあえずチェック・インを」
頃合いを見計らって、ゲイリーはついにそう口にした。そして、それに対して返ってきた反応もまた、予想どおりに早かった。それまで無関心をとおしていた表情に、途端に変化が表れた。
「――とりあえず?」
含みのある言いまわしに、茶褐色の濃い眉が顰められた。
「なにか、ほかに用事でも?」
「ええ、まあ……」
訝 しげな瞳に正面から見据えられ、ゲイリーは口を濁した。
「じつはその、お連れの方が昨日、怪我をされまして」
「つば――新見が、怪我?」
「いやまあ、なんと言いますかその、ちょっとしたアクシデントに巻きこまれたようでして。いえ、もちろん幸いにも――と私が申し上げるのもなんですが、ともかく、大事には至りませんで、全治1週間ほどの怪我で済んだ、とのことなんですが、念のため、セントラル・シティの総合病院で精密検査を受けたうえ、入院をされておりまして」
「それは、昨日のいつの時点のことです?」
やや強い声が、言い訳じみた説明の語尾に重なるようにつづいた。
「私はあまり詳細を把握しておりませんが、《旧世界 》に到着されて、さほどの時間は経過していないころと聞き及んでおります」
「つまり、空港からホテルへ向かう途中ということですか?」
「いえ、それは、その……」
「では、空港に着いた直後に」
切るような鋭い追及が、『ミスター能面』をして閉口させた。事実、ゲイリーは演技ではなしに相手の妙な迫力に威圧され、冷や汗をかいていた。
「こちらは、なんの連絡も受けていませんが?」
「それは、つまりですね、大きな事故ではなかったがゆえに、まえもってお知らせして、かえって余計な気を揉ませるようなことになってはとの配慮から――」
「なるほど、ようするにあなたの上司は、そういう人間だというわけだ」
「ミズ?」
「あなたの一存で決断したわけでなく、上からそのような指示があったということでしょう?」
「いや、しかし」
「結構。それ以上の申し開きは無用です」
レオナ・イグレシアスは、さらなる弁明を重ねようとする事務官を断固たる態度で制した。
「設定ルートの変更を。ホテルは後回しです」
有無を言わせぬ厳然たる口調に完全に気を呑まれ、不運なエリート官僚は、結局弁解を諦めて、悄々 とその命令に従った。
上司の命により出迎え役を
内務省でのゲイリーの通称は、『ミスター能面』。さまざまな局面にあって、つねに冷静さを失わず、巧みな話術をもって折衝をこなす。その一方で、彼が本音を吐露することはまずない。抑制の利いた態度と表情で他人に対することは、ゲイリーのもっとも得意とするところであった。にもかかわらず、その彼が商売道具の面をうっかり取り落として、素の顔を晒してしまった。出迎え日時及び指定されたゲート・ナンバーのいずれか、もしくはその両方を誤ってしまったかとの思いが脳裡を
だが、相手はゲイリーの姿を認めると、まっすぐに近づいてきてこう言った。
「失礼、ミスター・ゲイリー? カメラマンのイグレシアスです」
その言葉を聞いて、ゲイリーはますます驚愕した。
目の前に立った人物は、190を軽く超える恵まれた長身と、鍛え上げられた、たくましい
「……し、失礼ですが、
おそるおそるといった具合の尋ねかたに、相手はいくぶん苦笑気味に、かけていたサングラスをはずした。
確認した側はかなり婉曲な表現を用いたつもりだったが、敬称の部分は無意識のうちに強調されていた。
こういった反応には慣れているのか、そのことに不快を表す様子もなく、レンズから現れたグレーの瞳は泰然と、自分より頭ひとつぶん背の低い――といっても、ゲイリーも成人男性の平均はあるのだが――文官を見下ろした。
「ええ、そうです。はじめまして」
低く落ち着いた声が、ゲイリーのもっとも確認したかった部分を含めて肯定する。そのため、彼は目の前の人物に驚嘆しつつも、自分が仕事上のミスを犯したわけではなかったことに、ひとまず安堵した。
「失礼しました。《旧世界》へようこそ、ミズ・イグレシアス。さっそくご案内いたしますので、よろしければお荷物をこちらへ」
ゲイリーはなんとか表面を取り繕い、案内役としての本来の職務に立ち返った。
「お忙しいところ、わざわざどうも」
簡潔に言って、女性カメラマンは機材の入った大きなバッグを背負いなおすと、スーツケースを押して歩きはじめた。
「あ、ミズ、荷物でしたら私が……」
「いえ、結構。仕事柄慣れてますんで。こんなのは荷物のうちに入りませんから」
肩越しに答えて、体格に見合った長い足は、大きな歩幅を崩さず出口へ向かっていく。ゲイリーは、その後ろ姿をしばし呆気にとられて見送った。そして、我に返ると、あわててあとを追いかけた。
――どうも、いつもと勝手が違ってやりづらい。
内心、そんな感想を抱きながら、出口正面に駐車させておいた公用車に近づいてIDパスを
接待する側の当然の義務として、ゲイリーは荷物を預かろうとした。しかし、相手はやはり、みずからの手で肩にかけていた機材入りのバッグをおさめると、その横に、いとも簡単にスーツケースを寝かせて軽く手を払った。ハンドバッグでも扱うような手軽さだったが、いずれの荷物も、通常の女性の腕力で軽々と扱えるものでないことは、一見してあきらかだった。
「お気遣いなく」
アルト、というにはかなりハスキーな落ち着き払った声が、職務に忠実であろうとする文官の大袈裟な歓待を、やんわり固辞した。
たんなる送迎のみの任務と侮って、事前に相手の情報をチェックしておかなかったのは失態だったかもしれない。ゲイリーは、ここにきてようやく、自分が今回の出迎え役を任された真の意味を理解した。
気を引き締めなおし、彼はあらためてレオナ・イグレシアスを促した。後部座席に向かい合うかたちで彼らが乗りこむと、あらかじめルート設定されていた自動運転の公用車は、静かに走り出した。
「地上ははじめてですか、ミズ?」
振動もエンジン音も
「ええ、まあ」
レオナ・イグレシアスは、ゲイリーを顧みて短く頷いた。
人見知りするタイプではなさそうだが、生来が口数の少ない
意志の強そうな切れ長の目ととおった鼻梁。やや肉厚の
化粧気などまったくなかったが、素顔でも充分整っていると評価できる造りをしている。にもかかわらず、目の前の人物に、『美女』、『美人』という言葉はどうにもそぐわなかった。
引き締まった体躯のどこにも無駄な贅肉は見当たらず、かといって、人工的に作られた筋肉が不自然に
取材目的で《
その肉体が、実戦向きに鍛錬されていることは、素人目に見てもあきらかだった。並みの男など、冗談ではなしに片腕で軽くあしらってしまうに違いない。
荒廃を極めたスラム地区は、いまや行政の力すら容易には及ばない。そんな劣悪な環境をまえに、たかが素人たったふたりでなにができると思うゲイリーの気持ちに変わりはない。しかし、少なくともこのカメラマンが、ただ写真を撮るためだけに存在するわけでないことはたしかだろう。
「ミズ、まもなく滞在されるホテルに到着しますので、とりあえずチェック・インを」
頃合いを見計らって、ゲイリーはついにそう口にした。そして、それに対して返ってきた反応もまた、予想どおりに早かった。それまで無関心をとおしていた表情に、途端に変化が表れた。
「――とりあえず?」
含みのある言いまわしに、茶褐色の濃い眉が顰められた。
「なにか、ほかに用事でも?」
「ええ、まあ……」
「じつはその、お連れの方が昨日、怪我をされまして」
「つば――新見が、怪我?」
「いやまあ、なんと言いますかその、ちょっとしたアクシデントに巻きこまれたようでして。いえ、もちろん幸いにも――と私が申し上げるのもなんですが、ともかく、大事には至りませんで、全治1週間ほどの怪我で済んだ、とのことなんですが、念のため、セントラル・シティの総合病院で精密検査を受けたうえ、入院をされておりまして」
「それは、昨日のいつの時点のことです?」
やや強い声が、言い訳じみた説明の語尾に重なるようにつづいた。
「私はあまり詳細を把握しておりませんが、《
「つまり、空港からホテルへ向かう途中ということですか?」
「いえ、それは、その……」
「では、空港に着いた直後に」
切るような鋭い追及が、『ミスター能面』をして閉口させた。事実、ゲイリーは演技ではなしに相手の妙な迫力に威圧され、冷や汗をかいていた。
「こちらは、なんの連絡も受けていませんが?」
「それは、つまりですね、大きな事故ではなかったがゆえに、まえもってお知らせして、かえって余計な気を揉ませるようなことになってはとの配慮から――」
「なるほど、ようするにあなたの上司は、そういう人間だというわけだ」
「ミズ?」
「あなたの一存で決断したわけでなく、上からそのような指示があったということでしょう?」
「いや、しかし」
「結構。それ以上の申し開きは無用です」
レオナ・イグレシアスは、さらなる弁明を重ねようとする事務官を断固たる態度で制した。
「設定ルートの変更を。ホテルは後回しです」
有無を言わせぬ厳然たる口調に完全に気を呑まれ、不運なエリート官僚は、結局弁解を諦めて、