(4)

文字数 2,095文字

〈彼〉に会える。

 切望した邂逅(かいこう)が、すぐ目の前に迫っている。その現実をまえに、翼の精神は大きく昂揚した。
 不思議と、緊張はなかった。途中で入った横槍が、緊張感をどこかへ追い払ってしまったのかもしれない。黙々とすぐ後ろを歩くレオは、すでに撮影を自粛していた。

 デリンジャーにつづいて建物の深奥部に入ってゆく翼たちを、《セレスト・ブルー》のメンバーらしき少年たちが遠巻きに見ていた。警戒と敵意、好奇心とを剥き出しにした露骨な視線が、不審な客を出迎える。居心地の悪さは感じたものの、それが翼の中で恐怖にまで至ることはなかった。

 玄関ホールから廊下を通って建物の奥へ、そして階段を下りてまた廊下を歩く。
 ホールの吹き抜けの天井を、崩れかけた巨大なクリスタルのシャンデリアが飾り、剥げ落ちた染みだらけの壁には、美しい絵画がかけられていたことを窺わせる額縁の跡が残る。薄汚れた絨毯(じゅうたん)は色褪せて、すっかり弾力を失っていた。
 かつて、瀟洒(しょうしゃ)な高級ホテルであったらしき建物。そこに沈殿する歴史の名残は、過去の栄光の残滓(ざんし)に包まれて、悲愴と無常とを織り混ぜた調べを奏で出していた。


「ほかのグループみたいに、派手な色のスプレーで壁に落書きしたりしないんだね」
「ボスが嫌いなの、そうゆうの。ついでにあの、こうるさい小姑(シヴァ)もね」
「そうなんだ。ここ、かなり大きな建物だけど、みんなの活動範囲は地下にかぎられてるのかな?」
「べつにそうと決まってるわけじゃないけど、便宜上の問題で自然にそうなってるだけの話ね」
「便宜上の問題?」
「そう。地下1階から下しか電力が供給されてないのよ。夜、煌々(こうこう)と建物から灯りが漏れてたんじゃ、アジトの意味がないでしょう? だから、地上部分の配線は、わざと繋がないの」
「そういうエネルギー源て、このあたりにはちゃんとあるの? 水道なんかも普通に使えてるみたいだし。どうやってこの建物まで引っ張ってきてるんだろう」
「それについては企業秘密、ってとこかしら。あたしの口からは言えないわ。答えてくれるかどうかわかんないけど、気になるんだったら直接ボスに訊いてみたら」

 デリンジャーは差し障りのない程度に翼の質問に答えながら、廊下のつきあたり、元従業員専用通路に繋がる扉を開け、その奥の階段をさらに下りていった。

 通用口を隔てて、あたりの空気がガラリと様相を変える。突き刺さるように絡みつく視線と濃厚な人の気配が、ドアをくぐった瞬間に消え失せたためだった。
 鬱陶しい感覚から解放されたはずなのに、取り巻く空気は、さらに重苦しくなったような気がした。

 これまでよりずっと幅の狭くなった階段が、地下に向かって伸びていく。永遠につづくかと思われたその(きざはし)が途切れたとき、彼らの眼前に、重厚な鉄の扉が現れた。
 威圧的な構えを見せる扉をまえに、翼はゴクリと息を呑んだ。そんな彼を、金髪の黒人がチラリと一瞥する。そして、心の準備をする間を与えることなく、重い扉を押し開いた。

「ボースゥ、あなたにお客さんよォ!」

 (きし)みをたてて開いた扉の向こうに、薄灯りが照らす方形の空間がひろがった。ざっと、5メートル四方といったところか。

 ベッド、ナイトテーブル、机、ローテーブル、長椅子、小型の冷蔵庫、サイドボード。
 一見したところ、ホテルの一室を思わせる内装だが、周囲の壁と床は、打ちっ放しのコンクリートが剥き出しのままになっていた。部屋の位置から見て、もとは倉庫かボイラー室として使用されていたのだろう。それが、部屋を使用する主の意図によって、居住するための場に作り替えられた。そんな印象の部屋だった。

 無人の室内に、不意にカチリ、と音が響いた。顧みた先で、奥のドアが開く。その向こうから、すらりとした人影が姿を現した。
 バスローブを羽織ってシャワールームらしき場所から出てきたその人物は、髪から(したた)り落ちる雫を乱暴にタオルで拭いながら、長椅子に腰を下ろした。

 来訪者の存在などないかのように、ごくくつろいだ様子でテーブルの上の煙草を引き寄せた彼は、悠然と足を組んで取り出した1本を口に(くわ)えた。デリンジャーが無言でその口許に火を寄せる。立ち上る紫煙は、芸術的なまでに完璧な一場面を演出する効果をあげた。

 翼は、映画のワンシーンでも観ているような錯覚にとらわれて、ぼんやりとその光景を眺めていた。自分がいま、どこにいるのかさえ一瞬忘れた。正気に返ったのは、スクリーンの向こう側にいるはずの人物と、いきなり目が合ったからだった。
 唐突に(つよ)い眼差しに射貫かれて、部屋の入り口に佇んだままだった青年は、ビクリと躰を竦ませた。

 黄金の髪、青紫(スカイ・ブルー)の瞳、硬質の美貌。そして、目映いばかりの耀きを放つ、圧倒的なまでの存在感――

《セレスト・ブルー》のルシファー。

〈彼〉がそこにいることを、翼はこのときになってようやく認識した。
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